2012年8月16日木曜日

サッカーへの連想

Je  または 私 

 
 夏学期受けた授業で、「一人称小説」をテーマにしたものがありました。 
授業のメインテーマとしては、文学史上一人称小説がどのような意義をもつのか、そのようなことが掲げられていたような気がしますが、そこから少し離れて思うことがありました。
前フランス大統領、ニコラ・サルコジのスピーチを分析すると、他の選挙選候補者と比べ、Je で話し始めることが非常に多いことがわかったそうです。( Je とはフランス語における一人称)
また逆にパスカルは Pensées の中で、
Le moi est haïssable.(自我とは憎むべきものだ)
と語っています。

たしかにサルコジはその独善性において批判され嫌われることがありますし、パスカルの言うように、「おれがおれが」という心が透けて見えるような話し方をする人間は誰しも好きではないはずです。(なかなか難しいですが自分もそうならないように気を付けています)

しかし……サッカーにおいては、ぼくは「一人称」よりも「神の視点」 が嫌いです。

そういうプレーは「よくない」だろ

ってよく言いますよね、善悪の絶対的基準が存在するかのように。
でもぼくはこの言い方のほうが好きです。

そういうプレーは「俺は嫌いだ」

こっちの方が説得力があるし、発言に責任が乗ってくるし、欺瞞がないように思います。
みんな、「俺」主語で話しましょう。

んで、秋季。チーム全員の「俺」がぶつかり合って、一個人格としての「ア式は」っていう主語でプレーを語れるように。

「俺は」ここにパスが欲しかった
「俺は」もうちょっと早いタイミングで動き出してほしかった
「俺は」 縦を切ったからお前に次奪いに来てほしかった
「俺は」それよりも中の状況が危ないと判断したから行かなかった

そんなんを合わせて

「ア式」としてこういうプレーをしよう

っていう語り方をしましょう。ピッチで。


合宿の効用

合宿では常になにかやらなければいけないことがありました。練習、ストレッチ、アイシング、ケア、食事当番、グラウンド準備、自分の荷物準備、ミーティング、朝のジョグ、十分な睡眠、などなど。


サッカーと同じですが、生活においても、5日間で「足を止めずに」自分がやるべきことをしっかりやる、ということがある程度しっかりと身についてきたように思います。


恥ずかしながら今までは部活や学校、バイトから帰って家のドアを開けた瞬間に全てのスイッチがオフになってしまってましたが、やるべきことをさっさと済ませてから気持ちよく息抜きが出来るようになってきた気がします。ピッチ内でのサッカー選手としての自分がすべてではない、ってことを体を通して再認識できました。ピッチ外とピッチ内は両輪。

中学生レベルの話だが、俺には大きな進歩。

「申し渡し行為」

僕は村上春樹が大好きというわけではないんですが、やはりおもしろいのでよく読みはします。
彼のエッセイ、『走ることについて語る時に僕の語ること』はスポーツマンにとっては多分に示唆に富んでると思います。全面的同意はもちろんしかねるが、ふむふむそうだよね、とうなずく部分は多々あるはずです。
以下はそのエッセイからの引用。

そこでの重要なタスクは、「これくらい走るのが当たり前のことなんだよ」と身体に申し渡すことだ。「申し渡す」とはもちろん比喩的表現であって、いくら言葉で言いつけたところで、身体は簡単に言うことを聞いてくれない。身体というのはきわめて実務的なシステムなのだ。時間をかけて断続的に、具体的に苦痛を与えることによって、身体は初めてそのメッセージを認識し理解する。
筋肉は覚えの良い使役動物に似ている。注意深く段階的に負荷をかけていけば、筋肉はそれに耐えられるように自然に適応していく。
我々の筋肉はずいぶん律儀なパーソナリティーの持ち主なのだ。こちらが正しい手順さえ踏めば、文句は言わない。
 (3部分は連続した箇所ではありません)

 僕らにとってみれば、身体に対する申し渡し行為とは筋トレでありフィットであり回復走でありストレッチであるわけです。「そろそろ秋季だぞー」とか「フィットお疲れさん、でも明日も練習あるから準備しといて」とか体に語りかけている。最近は身体に申し渡しているのか脳みそに申し渡しているのかよく分からなくなってきました。上手く考えれば、「一歩寄せる」とか「体をぶつける」とか「ステップを踏む」とかも練習中からうまく申し渡すことができそうです。

ジャンプ台

ある新書からサッカーについて連想したことがあったのでひとつ。
僕たちは日々の練習で少しでも向上しようと頑張っています。これはまあいろいろ意見はありましょうが疑いようのないことでしょう。しかし、サッカー選手の実力とは、その時々の頑張りの総和なのでしょうか。
  必ずしもそうとは言えない気がします。 
 「頑張らなくても、頑張ろうと思わなくても」できること、それが多い選手ほど良い選手なのではないでしょうか。これもまた悲しきかな否定しづらい事実 だと思います。ぼくらがフィットをえっちらおっちらやっているのは、「頑張って走る気に」「頑張らなくても」なるためのトレーニングでしょうし、壁当てをするのは、「うまくトラップとパスを」「必死にならなくても」できるようになるためのトレーニングでしょう。もちろん僕らが努力してやろうとしていることを苦も無くやってのける人もいます。

高いところにリンゴがあったとして、でもいまのジャンプ力じゃ届かない。じゃあどうするか。
毎日毎日ジャンプ練習を必死にやっている人がいたとします。誰もその努力を笑うことはできません。
でもそれより早くリンゴを取ることができるのは、ジャンプ練習の傍らせっせと足場となる高い台を作り続けている人でしょう。

「当たり前の向上」が、抜きんでるために一番手っ取り早いということも、忘れてはいけないと思います。

Learn to Be Still 

題の曲が好きです。Eagles の曲です。最初はメロディーしか気にしていなかったのですが、最近歌詞の意味を調べてみました。気に入ったフレーズをいくつか引用しようと思います。
 You thought you could find happiness
Just over that green hill
 There are so many contradictions
In all these messages we send
(we keep asking)
How do I get out of here
Where do I fit in?

 ドイツ人の詩人、カール・ブッセ作、上田敏訳「山のあなた」 という詩。原作はよく知りませんが、、、

山のあなたの空遠く 幸い住むと人のいう
ああ、われ人ととめゆきて、涙さしぐみかえりきぬ
山のあなたになお遠く 幸い住むと人の言う

 幸せは、 山を、緑の丘を越えたところには、案外ないのかもしれませんね。
 浅井さん的に言うと、ベストプレイスは“ここ”なのかもしれません。

 合宿中に某SNSで某先輩と某OBの方々とのやりとりを見ながら、そんな確信が増してきました。




 精一杯文学部ぶってみました。おわり。

 3年 片山

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