2012年10月4日木曜日

寓・道


 feelingsにおいては内容に関する責任はとくにないがそれがエクリチュール(書き言葉)である以上誰でも閲覧できるだけでなく反復可能性を含むため内容をちゃんと考えることも大切である。
まあ感じたことを書くことももちろん大切なんでどちらを重視するかは人それぞれですね。

しかし、エクリチュールはパロール(話し言語)とちがって文字だけでしか判断できないのでたとえ話といったある種の嘘を書くことが容易になる。電話よりもメールのほうが告白しやすいのは、そのためである。

分かる人にはわかるかもしれないですが、デリダ読みました。 意味不明でした。

前回、寓話を書いたアキホです。
寓意はとくになかったです。
というのは嘘で、あれに寓意を求めようと疑う人を増やすのが寓意です。
皆さん寓言ということばをしっていますか??
簡単に言えば作り話です。
そこに寓という文字があればそこには寓意はあります。
寓という文字がなくても寓意を見つけようとすることはできます。
それって人にとって大事な栄養だと思うんです。
かの有名な道家の荘子さんは道を論じるために寓言を使ったそうです
というわけで道の話をしようと思います。

「みち」という言葉(音声でもよい)にあなたは何を連想するだろうか


大雑把に考えれば
「未知」
「満ち」
「道/路/途/径」      の三つに分けられるだろうが多くの人は三つ目の道がまず最初に思い浮かぶだろう

さらにその「道」は大雑把に
道路の道
関東昇格への道(目的結果への道)
ことわりの道
仏道の道
武道の道
方法手段の道      の道がある

このように「みち」というたった1フレーズに10種類をこすような意味がある。



高村光太郎は僕の前に道はない 僕の後ろに道はできるといった

自分にとって自身の道は未知である

人はこれからの道を不安に思うがそれは未知である以上当たり前だといえる。

通ってきた道を後悔するのは自由だがそれはもはや事実、過去なんてこれからの道の進み方で意味を変えることはできる

自身の道といってもそれは他力によって支えられてるためそれが充ちたものになるとは限らないのである

なぜ人は道を追い求めようとするのか

俺たちは今関東昇格への道を追い求めている

「道」を描いた東山魁夷はこういうことを書いている『人生の旅の中には、いくつかの岐路があり、私自身の意志よりも、もっと他力にうごかされている・・・。その考え方は今も変わらないが、私の心の中に、このひとすじの道を歩こうという意志的なものが育ってきて、この作品になったのではないだろうか。いわば私の心の据え方、その方向というものが、かなり、はっきりと定まってきた気がする。しかし、やはりその道は、明るい烈しい陽に照らされた道でも、陰惨な暗い影に包まれた道でもなく、早朝の薄明の中に静かに息づき、坦々ととして、在るがままに在る、ひとすじの道であった』

これを機会に覚悟を決めよう、自信をもって我が道をすすめよう

2年  ポジション便利屋   秋穂 知

    
      

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