2014年3月29日土曜日

そこはかとないです



アランチューリングという人は機械が人間であるかどうかをテストするチューリングテストというものを考えたそうです。AとBの部屋に人間とコンピューターを入れておき、人間である第三者がどちらの部屋に人間が入っているのかをコンピューターのインプット、アウトプットのやり取りをもとに当てる、というものです。誤答率が増えてくれば機械の中身は人間から見て人間とみなしていい、部屋を開けて「なんだ、機械じゃねえか」と発言するのは差別なのではないかということになるようです。
東大生かと思われるくらい賢そうな人がいて(東大生が賢いかどうかは不問に)聞いてみたら中卒だった、「なんだ、中卒か」と発言したら差別でしょう。
中身がなんであろうと実力でアウトプットを示せばいい。機械と人間の外見やら学歴やらの違いで実力を差別するのはおかしいと。


んっ?


ふたを開けてみたら違った?


さむらごうちさん!
耳はある程度聞こえている、実際作っていたのは違う人だった、いろいろあるようですが。
創り出された音楽そのものの出来栄えは、耳が聞こえない人が作っていようがコンピューターが作っていようが変わらないはずです。その音楽をお金を出して買うかどうかは人としての応援やら尊敬やらあるので別ですけれども。その実際に作り出された曲の評価とは無関係であってほしい。
スポーツの記録になると話は違ってきます。同じ記録でも出した人の違いで評価は変わります、性差とか不自由さなどがありまあぼかど。
はい、意味が分からず一瞬文章で立ち止まった方がいると思います。人間の特技、驚く、に関係しています。フレーム問題というやつです。世界には無限の可能性が存在しています。それらすべてに対応しようとしていては何一つ行動を起こすことはできないので関係のなさそうなものは無視して生きているのです。常に先を予測しながら文章を読んでいるから無関係の言葉に戸惑うわけです。ロボットは驚けません。流れと関係ないことを無限にプログラムしておいて、それが起きたら驚くように書き込まないといけない。驚くというのは高度な行動なんですね。


というのはおいておいて、小保方さんの研究も佐村ゴウチさんの曲とおんなじです。
博士論文が博士号取得に値していなかろうがなんだろうが、すごい研究をすれば評価されるべきだし実力さえあれば研究者としてのやり直しはきくと思います。






サイコロについて不思議に思っていることがあります。サイコロの目は1~6まであるので出る確率はそれぞれ6分の1、振る前はどの目にも平等に出るチャンスがあります。しかし、振った後を考えてみると実際に出た目以外の目は世界から跡形もなく消え去ります。たとえば2が出たとしましょう。3はどこに行ったのでしょうか?6は?振る前には確かに3が出る確率は6分の1だけ存在していて、2と同等の立場だったはずです。が、いざ実際に2が出た途端に3はもうどこにも影響を及ばしていません。振る前には6分の1という数字が存在していたはずなのに、結果は1かゼロ、出るか出ないかだけ。
6分の1っていったいなんなんでしょう。1分後の未来に住んでいる人から見たらサイコロの結果は2でしかありえないのに、サイコロを投げる前の僕はそれぞれの目が6分の1の確率で出ると思っている。振った結果は2なのに。3とか6とかは出ないのに。
なんでですか。教えてください。


都知事選で人生初の選挙権は行くのめんどくさいし一票で結果変わらんだろうから行使しなかった
新三年 伊藤正人

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