2014年9月4日木曜日

Dチーム通信

Dチーム通信

大したことではありませんが、先日「意識の高さ」について考える機会がありましたので、少し書きたいと思います。
最初に断っておきます。お前ごときが何を言っているんだ、という批判はあるでしょう。お許しください。

私のFacebook上にはこんな投稿が頻繁に現れます。
「○月□日
今日はゼミのOBで30歳にして社長の~さんの講演を聞いてきた!!やっぱ社長すげーわ笑 この社長はやっぱ人間としての一本の筋みたいなのがしっかりしてて、色々考えさせられた!!さらに講演に来てるやつも東大とか慶應のやつとかいていい仲間に出会えて最高や!!こいつらと講演後飯行ったけど、めっちゃ楽しかった!人間の根本の部分についても語り合ったで!!○○運転ありがとうな!!」

実際に私のタイムラインにはこういった「意識の高い」投稿が散在します。ちょっと関西弁が混じっていたり、軽々しく人間の根本とか言ってるたりするのはおいといて、あなたはこういった投稿にどういった印象を受けるでしょうか。うまく言葉では言い表せないにしても何かしらの違和感を感じるかもしれません。この種の「意識の高さ」は不安定で中毒性があります。自分の「意識の高さ」を他人に見せつけないことには不安が募るばかりで、一時の不安を投稿や語り合いによって解消しても、その不安という魔物はまた現れます。まるで闇の中の鳥かごに閉じ込められた小鳥のようです。方向性を見失い、もがき続け、翼はどんどんすり減ります。でもある時気付きます、周りが闇なのではなく、自分が 目を閉じていただけなのだと。世界は眩しいほど明るく、意味のあるものなのだと。

サッカーをしててもそのようなことは起こります。自分はそうでなくありたいと思いますが、私にも当てはまることかもしれません。自分のミスパスを受け手の動きのせいにして怒鳴りつければ、ミスを相手のせいにできるだけでなく、よく声を出す「意識の高い」選手にもなれます。話し合いで自分勝手な理論を振り撒けば、それもまたチームのことよく考える「意識が高い」選手とみられます。しかしそれにはどこかFacebookの彼らと同じ匂いがしてなりません。真に意識の高い選手は味方を罵倒する前にミスを取り返そうと切り替えますし、話し合いの場で自分勝手な持論を述べないでしょう。
もちろん、自分のやるべきことを考え自分のためにも仲間のためにも懸命に行動してるすごい人たちが周りには他にもたくさんいて彼らには尊敬する限りですが、似非意識高い選手が自らの「意識の高さ」を保つために周りに危害までを加えるのは、チームとして勝つという点に限定するならば良くないことだと思われます。

何よりも試合に勝つことが第一義か、はここでは置いておいて、試合に勝つためにはなるべく多くの選手が似非意識高いではなく真に意識が高い必要があると私は思います。技術で劣っている分、チームで勝つという戦い方の根本的な精神はそこにあると思うのです。仮に今チームが絶対に負けられない状況にあるとしても、自分のこと、チームのことを前向きに考え行動すれば必ず勝てるはず!!(私が言うのもどうもおかしいと思うかも知れませんが)

自分のことを少し述べると、私は真の意識の高さという点では全く良くなく、この1年間自分のためにもチームのためにも何かができたわけではありません。幸い、ゆっくりと自分を鍛えるための時間ができたのでまずはこの貧弱な身体をそして脆弱な心を鍛えていけたらと思います。

言葉の量と言葉の価値は反比例だと信じるがゆえに、フィーリングスなど2行で終わらせたかった。


 二年 経済学部進学予定  藤木友

0 件のコメント:

コメントを投稿