2014年10月16日木曜日

後に振り返ったときア式での時間をどう思うか、引退のときどう感得するか



―――――退屈するという現象について、いろいろとまちがった考えがひろがっている。生活の内容が興味と珍しさに富むことは、時間を早く「過ぎさせ」てくれる、つまり、短くしてくれるし、単調と空虚は時間の歩みを遅くし、はばむ、そのように一般には信じられている。これは必ずしも正しいとはいえない。生活の内容の空虚と単調とは一瞬や一時間は引きのばし、「退屈」にするだろうが、大きい時間量、きわめて大きい時間量は短くし、霧散させてもしまうのである。その反対に、豊富で興味のある内容は、一時間か、せいぜい一日ぐらいの時間は、それを短くもし、はかなくもできようが、大きい時間量になると、時間の歩みに幅と重みと厚みをとをあたえる。だから、事件に富む年は、風に吹き飛ばされて霧散するような貧弱な空虚な年よりも、ずっとゆっくりと経過する。したがって、私たちが「退屈」と呼んでいる現象は、ほんとうはむしろ生活の単調による時間の病的な短縮であって、大きな時間量が単調な生活の連続のために血がこおる思いがするほど収縮してしまうことである。どの一日も同じような日の連続であったら、それをみんな集めたものも一日と同然である。毎日が同じ日の連続だったら、百年の一生もカゲロウの一生のように感得され、あっといううちにおわってしまうだろう。習慣とは、時間感覚が眠りこむことであり、すくなくとも鈍くなることであって、青春の日々が春日遅々として感じられるのに反して、それからの日々が日ごとにあわただしくはかなく過ぎてしまうのも、やはり習慣によるものにちがいない。私たちは生活へ新しいちがった習慣をはさむことが、生命をつづかせ、―――――
(トーマス・マン 「魔の山」 より)

2年 軽部琢真

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