2015年7月17日金曜日

サイコロを振らない者に上がりはない



「麻雀は人生の縮図である。」





麻雀を打つ人は、さもこの世の真理を見つけ出したかのように、得意げにこの言葉を用いがちである。曰く、

・何が最善なのかわからないまま常に取捨選択を迫られる。
・確率的に最善だと考えられる選択肢が実際に最善の結果につながるわけではない。
・自分の状態がどんなによくても相手次第で勝てないことがある。

など、ということである。(ちなみにGoogleで「麻雀」「人生」と入れると「崩壊」のつぎに「縮図」がサジェストされる)






なるほど、列挙してみればそれほど納得のいかないものではないかもしれない。しかしよく考えてみれば、上にあげた要素が含まれない物事なんて殆どないのではないかと思う。
例えば、ポーカー。これも、何を手に残し、何を捨てるのか、次に来る カードがわからないまま取捨選択を迫られる。当然勝てる確率が高い選択をしたところで、勝てるとは限らない。有名なテキサス・ホールデムというルールで は、手札が二枚しかない状態でベットの選択をしなければならないが、二枚の時点で最強であるAのペアという手札が、最弱であるスート違いの2と3という手札に勝つことも当然起こりうる。そしていうまでもなく、自分がストレートフラッシュを作っても、相手がロイヤル・ストレートフラッシュであれば勝てないのである。
サッ カーだってそうだ。試合中はもちろん、日々の練習メニューなどでも常に選択を強いられるし、確率の計算はしないだろうが、経験上ベストと思ったプレーがベ ストな結果を導くとは限らない。自分の、チームの最高のプレーをしても勝てないこともある。もっとも、サッカーでは麻雀やポーカーと違って、練習によって 自分のベストをどこまでも引き上げていくことが可能だが。しかしどんな練習がベストなのかは分からない。





ま あ、多少の強引なこじつけは必要かもしれないが、大半のことは人生の縮図と言うに十分な要素を含んでいると思う。ではなぜわざわざ麻雀を人生の縮図と呼ぶ ことが多いのだろうか。不真面目な行為として思われがちな麻雀を肯定したいがために言っているという意見も否定はできないが、思うに、麻雀における選択と 結果の濃度の高さと、その結果如何で自分の点数を得たり失ったりするゲームの特性に因るのだろう。そして、これら二つが濃縮した人生の重要な要素であるの であれば、俺たちの日々は濃度を薄めた博打であると言える。






詰 まるところ俺たちは、寿命をベットして、幸せとか富とか名声とかを得ようとしているのかもしれない。薄まってしまっているため気づき難くなっているが、俺 たちの日々は常に何かを失うリスクを孕んでいる。例えば、ア式に入っていることは、大きな機会損失だとはよく聞かされているが、そんな大きな選択だけでは なく、もっと小さな選択の一つ一つにさえも何かを失うリスクが含まれていて、そのリスクを冒す覚悟を持って日々に向き合うべきなのかもしれない。



個 人的には、何かを失う危険性を理解した上でも、大きなリスクを冒せるような人間になりたい。昔の哲学者か誰かが言っていたが「この世に存在するうえで、最 大の充足感と喜びを得る秘訣は、危険に生きることである。」らしい。要はハイリスク、ハイリターンだ。ま、限度はあるのだろうけどね。





冗長かつ適当な文章を投稿する覚悟
4年 GK 池田濯




0 件のコメント:

コメントを投稿