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東大生は優秀です

4年   吉本遼平 「東大生は優秀である」   「東大ア式の人達は優秀である」という表現が適切かもしれない。   怪我によって同期よりも一足先に引退し、去年はスタッフとしてア式に関わる形になり、選手時代とは少し違った角度からア式の人をみる事が増え、そう思う機会が増えた。ア式を見渡すと、とてつもなく気が利くスタッフ、とてつもなく戦術に詳しくそれを的確に伝える事ができるコーチ、スポンサーの獲得や国際的な活動など普通の部活動のレベルを超えた活動をする人達、そしてどんな状況にあっても真摯にサッカーに向き合うことのできる選手達など、優秀な人が多く存在する。   当然そんな環境にいるとほとんどの人が自分も何らかの形で優秀でありたいと思うものであろう。   選手の場合は「他の選手達よりも試合に出場し勝利のために貢献できる」という観点で評価されその点で優秀であるかどうかが決定される。おそらくこれは一般的な考えであると思うし、自分自身選手時代にそう思っていた。どれだけ努力しているかなど関係なく結果が全てでありこの一点に関する評価こそがその選手としての価値を決める。その優秀さを求めて周りの人と健全に競争することが結果的に個人の成長とってもチーム全体の成長にとっても重要なことであるということは紛れもない事実であるだろう。       ただ、時にその選手としての優秀さを追い求めることは負担となり重くのしかかるものにもなってしまう。とりわけうまくいかなくなると自分を高めるはずの目標が逆に呪縛となって前に進むことを阻んでしまう。   今年の共通テストの日、東京大学であった事件があったが勉強に伸び悩んでいる高校生が犯行に至ってしまったらしい。そのニュースを見て、ア式で過ごしている時間の内、犯行に至るかどうかは別にして、ある意味その高校生と精神的に近い状態の時期があったのと感じた。それについて話す前に、最後のfeelingsということもあるのでここで軽くア式での4年を振り返ってみたい。     ―――――――   入部してすぐ怪我をして7月くらいに復帰。受験生時代に失った体力も戻らず、夏の暑さにもやられ、しんどかった記憶がぼんやりとある。ただ、気温が下がると共にコンディションも上がりそれなりにできるようになり、Aチームに4年生の引退後に上がることができた。しかし、ノリと勢いだけでサッカーしていた自

ア式人生

4年 石田舞美 「私なりの4年間でした。」    こんなありきたりな言葉で4年間がまとまってしまうのはとても悲しいけど、 実際、それ以上でもそれ以下でもない4年間。 振り返ると本当にこれに尽きる、 「私なりの4年間」であり、長いようで短い「ア式人生」だった。 続々と同期の卒部feelingsが出て、なんて文才に溢れた人たちなんだと感嘆していたのも束の間、自分の番が回ってきてしまったのでしぶしぶiPhoneのメモ機能に書き始めてみた。 とりあえず、遅延してしまってごめんなさい。 毎年、この時期になると読める4年生が綴る最後のfeelingsが楽しみだった。 回想される思い出から、初めて知る想いや葛藤に驚き、悩んだ末に導き出された答えと熱いメッセージを受け取ると、果たして自分は4年生になった時にこんなに良い文章を書けるだろうかと毎回不安になっていた。そんなこんなで毎度心を動かされていたら、もう私も卒部feelinsを書く側、そんな時期になってしまった。 引退して2ヶ月が経つと、ア式について考える時間はガクンと減るもので、もはや自分がア式部員だったことさえ幻のように思えてくる。 きっと、社会人になったらア式が更に遠い存在になってしまいそうだから、この場を借りて振り返ってみたいと思う。 「東京大学運動会ア式蹴球部」に石田舞美が存在していたことをちょっとでも形にして残しておきたい。 と意気込んでみたはいいものの、 悲しいことに、外部の人間になってから客観的に自分のア式人生を振り返ってみると、ちょっと浮き沈みのあるくらいで、ごくごく平凡な部活生活であり、大した功績もなく結果的に何の成果も残せていなかったように思う。 すごくすごく申し訳ないし、不甲斐ない思いでいっぱいだ。 私の尊敬する同期スタッフのfeelingsでは自分の存在意義について自信がなかったという文章があったが、そのスタッフは私から見たら誰よりもア式に必要な存在だったし、私が部員と名乗るのが申し訳なくなるくらい素晴らしいスタッフだった。 本当に同期スタッフは全員、私の自慢でしかない。 一方私は、与えるより与えられたものの方が大きすぎて、後輩に胸を張って語れることはあまり、というよりほとんど思いつかない。 それに、書き始めてみると、伝えたい想いを言葉にするのは思ったよりも難しいもので、そこは東大生に任せてみようと思う。

賽の河原

4年 田中秀樹  あぁ、まただ….     彼はいつものように侮蔑の表情を浮かべ、石を積む私の元へ歩いてくる。そして、私が積み上げた石の前に立つと、無残にもそれを叩き壊し、立ち去る。     私は崩れた落ちた石を拾い上げ、また積み上げる。もう何度目かわからない。それでも私は石を積む。     今回は上手くやれるかもしれない。     そう思った矢先、彼はどこからともなく現れ、またそれを破壊する。     現れては壊し、現れては壊す。     そこには残骸しか残らない。     いったい何故こんな罰を受けさせられているのだろうか。     そう嘆きながら、私はひたすら同じことを繰り返すが、結局は無駄になる。           もう積まなくてもいっか…                                                         いつも思い出すのは少年時代である。小学校1年の頃に地域のサッカーチームに入り、私のサッカー人生がスタートした。 今では笑い話だが、当時は足が速く、6年生の時には身長が160を超え、フィジカルに頼ったプレーをしていた。上手くもないし、頭を使っているわけでもないが、それでもある程度は活躍できた。     早熟なのは見て明らかであり、周りの大人達は将来フィジカルで戦えなくなった時のことを心配した。そして技術を身につけることを私に勧めた。 しかし私はその必要性を感じつつ、気付けば他のことをしてしまっていた。細かいことが苦手だった私にとって、足元の技術を身につける練習はいささか退屈であったからである。     中学生になり、縁があって私はクラブチームに入団した。そこには上手い奴らがたくさんいて毎日刺激をもらった。 大人達の予言は的中し、身長は見事に止まったが、足は順調に速くなり県内で走り負けることはあまりなかった。足の速さはあくまで一要素に過ぎないが、それでも大きな武器である。おかげでチームとしては県2位、個人としては県トレのバックアップに入るくらいの成績は残せた。     高校は県内のいわゆる進学校に入学した。その高校のサッカー部は県2部3部を行き来するくらいのレベル感であるが、一方クラブのチームメイトは県1部以上の学校に進学する者も多く、選手権やプレミアリーグにチャレンジした者もいて、その環境を羨ましく思った。しか