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7月, 2022の投稿を表示しています

がんばりましょう

吉田恵梨(2年/スタッフ/高崎女子高校) 2年スタッフの吉田恵梨です、はじめまして。 こういうふうに何かを書き残しておいたり当時の気持ちを書いておいたりすること、すごくいいなと思います。でもやっぱり、強制力がないとなかなかできないものでもありますね。 日記とかもなかなか続かない、という話をよく聞きます。 高校生の時は年に1回日記を書いていました。それって年記? 毎年2月くらいになると受験のモチベが高まる日があって、そういう日は来年の自分に向けて文章を書くという、あんまり人に言えなさそうなことをしていました。「もっと頑張ってください」っていうのが大概言いたいことで、でもそれが結構原動力になったりしていたのを覚えています。 大学生になってから、そういう熱い何かから離れてしまった気がします。ある意味、受験という分かりやすい勝負・目標に向かっていたことは、幸せだったんじゃないかなと思います。結果ありきなのはそうですが。クラスの人が前に、「高校の時は勉強だけしてればよかったもんね〜」と言っていたのがどこか印象的で忘れられません。 大学生になってから、何に比重をおくべきか悩むことが多くなったと思います。なんでもできる、時間もある、エネルギーもある、環境も整っている。授業、サークル、バイト、遊び。全部頑張ろうとするとバランスが崩れそうで、でも自分から始めないと無為に時間が過ぎていってしまうような、そんな感じでした。それから東大生ってすごいなと思うのが、大体みんな何かを頑張っていることです。能力と環境を確実に活かしていく感じ。やっぱり私もいろいろ頑張ってみよう、そう思うような1年間でした。 ア式のことを知ったのはそんな冬で、友達のところにきた勧誘のLINEがきっかけでした。元々サッカーを見るのは小学校高学年ごろから好きで、高校生の時は最初サッカー部に入ったくらいだったので(3日でやめます)、少し惹かれていました。昔からサッカーに関わりたいという気持ちはあったのですが、プレーヤーとしての可能性しか考えたことがなかったと、この時気づきます。「スタッフっていう手もあるのか!」とはっとしました。でも、マネージャーという存在の印象が正直最初はよくなくて、あまり現実的には考えていませんでした。 とりあえず見学に行ってみよう。そう思えたところが大きな転換点だったと思います。実際の仕事内容を聞いて

怪我

西洸(1年/スタッフ/不二聖心女子学院高校) ドリブルでゴールへ一直線! 立ちはだかるディフェンス陣を巧みにかわし、ゴール目指して走る私。 (行ける、行ける!)と思った瞬間、ボールはカットされた。その瞬間、私は足を踏み外し強く捻った。しばらくは痛みを感じなかった。そのまま試合続行。   試合が終わると、足がだんだん痛み出してきた。我に返った。そして痛みが我慢できなくなった。(ああ。やっちゃったぁ。捻挫かも。)体育の授業が終わり、痛む足を引きずりながら、保健センターに行って湿布薬を貼ってもらった。   「病院にいって検査してもらってください。」 (ええっー。今日は、ア式のシフトはいってるのに。どうしよう・・・。) (選手ならいざしらず、私はスタッフ。スタッフが足怪我して、グランドに行ってなんの役に立てるのだろう。本当に私はマヌケ。マヌケすぎる。) 体育の授業で足を捻挫した私は、後悔の嵐に包まれていた。しかも授業でやっていたのはバスケットボール。(足の捻挫じゃなくてせめて突き指だったら、ボール蹴れたのに・・・。) 後悔してもしきれない。   4 月に入部し、 5 月、 6 月とシフトに入り、やっと大学生活の中にア式のあるリズムに慣れてきたところだ。スタッフとして先輩の皆さんの仕事を減らせるように役に立っているどころか、足手まといなところばかりだろう。空気読めてないところも沢山あるだろう。ログなんてまだまだ全然書けない。それでも、私はグランドに立って、サッカーしている皆さんと時間を共有することが楽しかった。だから今日もグランドに行きたかった。でも行っても何もできない・・・。私は欠席届を出した。   予期せぬお休みを頂くことになり、本来なら学期末試験に向けて勉強や学期末レポートの準備を始めるべきであっただろう。しかし何も手につかない。スタッフの私でさえこうなんだから、いわんや選手においてをや。何も手につかない私は、スマフォ片手にサッカー選手の怪我について調べてみることにした。   “サッカーは格闘技だ、と言われるくらい激しいスポーツ。怪我を恐れていたら思い切ってプレイができない。怪我は当たり前”、らしい・・・(汗)。サッカーが格闘技だなんて、知らなかった。プロのサッカー選手でも怪我することは絶対ある。怪我との向き合

ザコキャラになる勇気

馬屋原翔(1年/MF/千葉高校) 春から短いながらも大学生としての生活を送ってきて、常々感じていることがある。   なぜ自分は大学に通っているのだろう、ということである。まだ見つけられていない夢を見つけられるように自分から教養を身につけ関心分野を探っていこうという気概は早くも薄れてしまったし、講義中に睡魔が襲ってくることも増えた。   僕には妹がいて、大学に通っている理由について考えるようになったのは妹の影響である。正直に言って、妹はとてつもなくバカである。高校を卒業できるのか、将来は果たして大丈夫なのか、など割と真剣に心配になってしまうくらいに。   ただ、そんな大バカな妹にどうしても敵わないと思うことが一つある。妹はすでに夢を見つけていて、それに向かって走り出しているということだ。明確な夢が決まっていないから周りの多くの人がしているようにとりあえず大学に通っている僕とは違って、妹は夢を叶えるべく専門学校に入ろうと着々と準備を進めている。自分の方が頭がいいということを仮に認めたとしても、人間としては完全に負けているのである。将来が大丈夫でないのは僕の方なのである。   ここまでの内容に如実に表されているかもしれないが、僕は何かと一人で考えることが多いタチの人間であり、自己分析をすることが多い。そんな中で気がついたのは、僕を知っている人にとっては意外かもしれないが、僕は中身がアツい人間だということである。   好きな曲は何かと聞かれれば、流行りの曲ではなく絶対に『栄光の架橋』(ゆず)などの自分を鼓舞するような歌を答えるし、難化したと言われた今年の東大入試の一日目の帰りの電車内では、二日目への気持ちを奮い立たせるために『勝って泣こうゼッ!』( T-Pistonz+KMC )を聞いたりもした。   このような自己分析を日々繰り返しているわけだが、サッカーだけには全力で取り組めていると思う。まだまだ遠くはあるけれども、いつかリーグ戦に出場してチームに貢献するという目標だけはブラさずに持っていたいと思う。   前置きが長くなってしまったが、ここでどうして僕が大学に入ってまでサッカーをしているのかについて話したい。実際、高校時代のチームメイトでサッカー部に入ってサッカーを続けている人はほぼいない。   僕は、小学

回顧

谷晃輔(2年/MF/横浜翠嵐高校) ⾼校 2 年の3⽉にコロナで休校になった当初は、全く悲観していなかった。それこそ、春休みがいつもの夏休みくらい⻑くなったと喜んでいた。この期間に勉強もサッカーも頑張って、万全の状態で進級を迎えよう。そう意気込んでいた。 実際3⽉中は結構充実した⽣活が送れていたと思う。中学時代のチームメイトと集まって、 公園で割と真剣にサッカーをしたり、1 ⼈の時も⾃主トレを続けたりして、4⽉から始まる関東予選やインターハイ予選といった春の⼤会に向けてコンディションを落とさないようにしていた。サッカー以外の時間は受験まで 1 年を切っていたということもあり、塾の⾃習室に通い詰めていたので、勉強時間も⼗分に保つことができていたと思う。 ただ、事態はそう簡単には好転しなかった。未知のウイルスは世の中を不安の渦に巻き込 み、4⽉には初の緊急事態宣⾔が発出された。休校期間は⼤幅に延⻑され、その期間に⾏われる予定だった2つの⼤会は中⽌となった。  ⾼校サッカー最後の年に、⼤会が中⽌になったのはかなりショックだった。代替わり以降⾃分が主将になって、様々な困難に直⾯したけど、やっとまとまりつつあった今のチームでどこまでいけるか試してみたい。⼼の中で密かに抱いていた期待は中⽌という予想だにしない形で打ち砕かれた。代わりに脳裏に浮かんだのは「引退」の2⽂字。このまま選⼿権予選も中⽌になってしまうのではないか。先⾏きの⾒えない未来に対する不安が、モチ ベーションを低下させた。4⽉、5⽉と時が経つにつれて、段々とサッカーをする時間が減っていった。塾も閉じてしまったので家にいる時間が増えた。もうこのまま受験かなぁと勉強に集中しようにもなかなか⾝が⼊らなかった。  こんな具合に、休校期間の終盤は空虚な時間を過ごすことが多くなってしまったからか、 6⽉に学校が再開して、部活を続けるか否かの選択を迫られた時、すごく迷った。幸いにも、残された最後の⼤会である選⼿権予選は9⽉に開催されることが決まっていた。しかし受験を考えると、部活をしていて⼤丈夫なのか、という不安があった上、1ヶ⽉以上まともに動いていない状態だったから復帰しても調⼦が上がらないだろうし、中途半端に数ヶ⽉復帰してわざわざきつい思いをしたくなかった。要するに、やる気が失せていたのだ。 もう辞めようかなぁと思い、親にも

不完全感覚Player

古川泰士(3年/MF/東大寺学園高校) はじめまして、久野の同期です。 この肩書きと出会って早一年。 メモ帳でお蔵入りになっていた書きかけのfeelingsの書き出しである。その「一年」がもう「二年」になっていた。 一年ぶりに書き進めるわけだが、この数字が「三」になっていないことを願うばかりだ。 さてfeelingsであるが、ある友人が「反省文」と形容していた。まぁ遠からず。過去が意味を持つのは、それをなんらかの形で未来に生かした時。しかし、過去は美化されがちで、自分自身を客観視していると思い込み自己賛美するのがオチだ。 とはいえまだ一度も書いてないわけだ。傲慢なこの成人男性にとっては自省のいい機会になるだろう。 まずは入学以前。 サッカーとの出会いは小学一年生。目が悪すぎて野球ボールをキャッチできない少年は自然と比較的見える大きな球体を蹴りはじめた。 小中高といわゆる強豪チームではなく、総じて強制も矯正もしない指導者に恵まれて、自由にプレーさせてもらえた。今の彼のプレースタイルを見ればご納得いただけるだろう。 その結果かなり生意気なサッカー人に育ってしまったわけであるが、一皮剥けばどうしようもない「弱い」プレーヤーであることは大学以前の12年間で嫌というほど痛感していた。 周りの人間は恐らく気づいていただろうが、少年のプライドを気にしてか面と向かって指摘した者はほぼいない。かといって少年はその弱みを素直に晒せるほど強い人間でもなかった。 思い出す場面なんていくらでもある。かき消せないほどに。 なぜあの場面で脚を振れなかったのだろうか。 そうあの時だ。インハイで負けた試合。みんなは覚えていないかもしれない。チャンスを逃しながらもその刹那感じていた。「またやってるのか。」 ここぞという場面で実力が出る。 よく言われる話だ。 まさにその場面で別人に変してしまう。自分の弱さに辟易とし、試合が終われば自分のせいで負けたと一丁前に感傷に浸る。もう繰り返さないと何度思ったか。しかし結果はなによりも雄弁だった。 字面だけ追えばサッカーを辞める人間のようだ。しかし、本気で辞めようと思ったことは覚えている限りでは存在しない。 感じた弱さは自分自身の人間的な弱さだった。 こうして毎度捨てあぐねた結果、東京にまで持ってきてしまったが。 いつかこの自分を卒業できるのか。 そんなことを思いな

走り抜けた3ヶ月

古野遼太(4年/試合運営/ラ・サール高校) 先日就活を終えることができた。今年の 3 月から始めて 5 月中に事実上の内々定を頂けたのは幸運だったと思う。夏のインターンから 1 年間やる人もいる訳だから、かなり短期間で終えた方だろう。それでもこの 3 ヶ月は長かった。全くの 0   から始めたため、上手くいかないことばかりだったし精神的に辛い時もあった。 3 月にはアミノバイタルカップがあり、 4 月からはリーグ戦が始まったので、部活を本格的にやりながら並行して就活もすることとなったが、想像以上にきつかった。   そんな就活をしている中で、本気で入社したいと思った企業は 3 社だけだった。そしてその内の 1 社から内々定を頂けた。今回の feelings では落ちた 2 社の選考体験をお伝えしようと思う。内々定先のことを色々書くのは憚られるため、ご了承いただきたい。なお、就活弱者の僕から後輩にアドバイスできることなど何一つないので、「そんなことがあったのね」くらいの感覚で読んでもらえると幸いだ。     1 社目は某エンタメ業界の企業だ。この企業は音楽、アニメ、イベント等を多角的に展開している。この企業に興味を持ったきっかけは 3 年前の夏まで遡る。私が大学 1 年生の時に参加した某アニメのイベントだ。このイベントは、最新技術を用いてアニメの世界を再現したり、初公開の原画や展示物があったり、限定グッズを販売したりとファンにとって大変魅力的なものだった。その中でも最も印象に残っているのが、自分の周り 360 °を囲む 4 面巨大スクリーンに映し出された映像の鑑賞体験だ。オリジナルソングを BGM として過去の名シーンを振り返るというものだったが、その圧倒的な映像・音楽を前に鳥肌も涙も止まらなかった。心が直接揺さぶられる、そして自然と涙が溢れてくる、そういう感覚は初めてだった。会場を後にする時、心の底から参加してよかったと思ったし、このイベントを企画・運営してくださったスタッフの皆様に感謝しかなかった。この経験から、自分も参加者の心に残り満足していただけるようなイベントを企画・運営してみたいと考えるようになったのである。   まず、 3 月中旬にエントリーシートを提出した。聞かれた内容はガクチカや好きなエンタテインメント、入社してから挑戦した

深く後悔をする

岡部惇貴(1年/MF/武蔵高校) 入部して2ヶ月、feelingsを書くように先輩から指示が下った。そろそろ期末テストだなと思っていた矢先驚きの知らせだった。 最初に考えたのは、初めての期末に怯えている1年生に書かせるのはどうなんだろうかということである。 来年以降の新入部員のために新入生は夏休みから書いてもらうというのを1つ提案しておきたい。亮さん、ご検討宜しくお願いします。 さて、何を書こうか… 書くにあたって先輩たちが初めて書いたfeelingsをいくつか読んでみた。 どうやら最初のfeelingsはア式に入った理由を書くのがよくあるらしい。僕の場合は分析や生徒主体の運営というのが面白そうだから、というぼんやりとした理由だった。 それだけぼんやりしていたので、そこから話が広がる気がせず断念…。 ごくたまにビビりで基本は楽天家の僕は、たった今ビビり岡部が顔を出し、迫り来る期末に恐れをなしている。僕のビビり具合はとてつもない力を発揮するのである。断念後、ビビり岡部はテーマをすぐに捻り出した。 やっぱこんな簡単にテーマが思いつけるなら、やっぱ期末前でもいいのかもしれない。 突然だが、僕は「本気」を出したことがある。世の中で人生で「本気」を出したことがある人は実はそんなに多くはないのではないかと思っている。 これを読んでくれている人は「本気」を出したことがある人がいるかは分からないが、「本気」って思ったよりすごいのである。 受験期の話をしよう。 高校2年生の終わり頃、僕は一橋大学を志望していた。当時は東大なんて選ばれた天才だけが行くところだと思っていた(これは東大王で刷り込まれた勝手なイメージである)。 その時期にコロナで部活がなくなり、一橋大学を目指すのに学力が足りないと考えた僕はたくさん勉強した。とにかくたくさんである。なぜかこの時は異様にやる気があって勉強ができたのである。だが、まだこの時は「本気」ではない。 高3になる春休み、部活も再開し卒業した先輩たちとサッカーをする機会があった。そこで武蔵のサッカー部の先輩がア式に入るということを聞いて、ア式のことを少し調べてみた。 僕は天才ではないので東大にはこれっぽっちも興味がなく、「東大なんて眼中にないから」とか言って笑っていた僕が詳しくア式を知っているはずもなかった。 Googleで東大ア式蹴球部と少し調べただけで

現状分析

田中瞳(1年/DF/熊本高校/女子部) まず最初に、1つ宣言をしておく。 私に、サッカーという競技は向いていない。 小学生のときは、何も考えていなかった。6年間、週に1回のサッカーを続けたが、楽しいとも辛いとも思った記憶がない。ただ、ピアノが好きで、3歳からずっと続けていたから、習い事をやめるという選択肢を持っていなかったのだと思う。 中学生になって、サッカーはやめた。所属していたクラブが小学生までのところで、部活はソフトテニスをやると決めていたから、わざわざ別のクラブを探す必要がなかった。 中学生活は、一言で言えば地獄だった。 まず、部活が楽しくなかった。小学生のときにはフランクに話していた先輩に急に敬語を使わなければいけないのが嫌だった(本当に申し訳ないことだが当時私は先輩のことを尊敬していなかったから)し、毎日練習があるのも、習い事(つまりピアノ)より練習が優先なのも不服だったし、ただ好きで早く行って準備していただけなのに、なんでも一人でやろうとするなと怒られたのもむかむかした。 そしてこの部活で、私は「ミス=必ず怒られる」という意識を身につけた。 ミスを恐れて、何をするにも緊張するようになった。 更に、2歳の頃から一緒だった幼馴染に、細かい経緯は省くが私という人間を否定され(彼女にその気はなかったのだろうから彼女がこのfeelingsを見つけないことを祈っている)、鬱病になった。学校には無理矢理行っていたが、まともな精神状態ではなかった。 自信と自己肯定感を失った。 高校には、視野の広い人がたくさんいて私を受け入れてくれたし、人生で最高の恩師(まだ19年しか生きていないがこれからも最高であり続けると断言できる)と出会ったから、少しずつ苦しみや自己肯定感の低さを頑張りへと繋げられるようになった。だから、高校はもう本っっっっっ当に楽しかった。ブラック企業みたいな部活にも入っていたけど、それさえも楽しかったし、中学時代のトラウマは大抵笑って話せるようになった。 それでも、「役に立たないならば自分は存在してはいけない」という思いは、今も私の根底に流れている。 前提条件の説明が長くなったが、要するに私は、ミス、特に他の人にまで影響を及ぼすようなミスにそれはそれは弱いのだ。 だから私に、サッカーは向いていない。 それでも私が入部することを選んだのは、ア式に「ここならきっ