模索

三谷深良惟(4年/MF/FCトリプレッタ U-18)
 

さて、最後のfeelingsに何を書けば良いのか。最近公開されている同期のfeelingsを読むと、その時その人がどんな気持ちで部活に臨んでいたのかを知れて、とても面白いなと思った。ということで、自分の部活での4年間を振り返り、その瞬間に何を考えていたか、何を思っていたのかを綴ろうと思う。
(真面目に書いてたら1万字をゆうに超えてしまったので、時間がない人は最後の部分だけ読んでいただければ大丈夫です)
 
1
ずっと前のfeelingsにも書いたが、僕は最初から東大ア式に入ることを決めていた。当初は東大ア式のレベルを甘く見ていたこともあって、早く練習でアピールして試合で活躍したいと思っていた。ということで最初の練習参加を心待ちにしていたのだが、コロナが猛威を奮っていたために、オンライントレーニングから始まった。直接会ったこともない人たちとzoom上で一緒に筋トレしたり、Nike Run Clubで計測しながら近くの公園を走ったり。Nike Run Clubは全員で共有なので、良いタイムを出したいという一心で頑張っていた気がする。あとは、一平や水本と、近隣のサッカー好きたちと一緒に週3くらいでサッカーしていた。18時くらいに集まって、2時間くらい永遠に22のライン突破をして死ぬほど疲れたのを覚えている。正直、当時こんなにモチベ高くサッカーに取り組めていたのは早く試合に出て活躍したい、という大学サッカーへの期待があったからで、コロナ禍が2,3年のときに起こっていたらどうなっていたかは分からない。もしかしたらめちゃめちゃサボっていたかもしれない。
 
そうこうしているうちに、7月か8月くらいからグラウンドでのトレーニングが少しずつ再開した。久しぶりに大人数でボールを蹴れるのが嬉しかった。大学生になってプレースピードが上がり、最初はあんまりプレーがうまく行かなくて焦ったが、まだ1年生だしここで慌ててもしょうがないと自分を落ち着かせていた。この期間には、育成チームのコーチたちが優しく「点と辺」「胸を合わせる」など当時のア式特有のコンセプトを教えてくれて、オフザボールの時のポジショニングをちゃんと考えられるようになった。高校までは、相手がどんな配置であろうとなんとなく自分のポジション付近で待ち、ボールを受けたいならその場でマークを外すみたいな発想だったため、それはかなり新鮮な感覚だった。当時はボールサイドに寄ってしまう傾向があり(今も若干あるけどだいぶマシなはず)、はやとさんに何度も指摘されたのを覚えている。
 
そんな感じで育成チームで試行錯誤しているうちに、1ヶ月くらいでAチームに呼ばれた。その時の自分のパフォーマンスは良いとはとても言えず、自分より先にAチームに行ってもいいような人はちらほらいたので、なんとも言えない気持ちになった。後から聞くと、例年ちょっと上手そうな1年生は2,3人くらいとりあえずAチームに上げる慣習があるらしく、八代とたけと3人で上がったのはそういうことかと納得した。さて、Aチームに上がったは良いものの、やはりこれまでより明らかに上がったプレースピードについていけなかった。相手のプレッシャーに怖がってしまって、中盤でボールを受けても前を向けず、選択肢を選ぶとかの土俵にも立てていなかった。ただただ焦ってプレーをしてしまい、おそらく当時は自分の頭では何が起こっているのかあまり理解できていなかったと思う。東大にこんなにサッカーが上手い人がいるのかとシンプルにびっくりすると共に、自分が大学サッカーでは通用していないことを痛感した。さらに、なぜか一緒に上がった同期の八代の調子が良くてめっちゃ良いパス通すし(すぐボロが出て遼さんにいじめられてたけど)、たけも調子を上げていつの間にかスタメンで公式戦デビューするし、ちょっと悔しさもあった。まあ焦っても仕方ないことは分かっていたので、日々自分のプレーを改善することに集中した。
 
そんなこんなでセカンドで微妙なプレーを続ける日々を送っていたが、やはり地道に頑張っていればちゃんと上手くなるものである。だんだんと自分がフリーな時は前を向くことができるようになり、自分の調子が上がっていくのが分かった。ファイナルサードでの崩しの練習では、ワンツー等でブロックの中に入っていく動きが評価され、監督の遼さんに最後のミーティングで褒められた。そのうち上智戦かどこかで途中交代で公式戦デビューを飾ることができ、武蔵戦ではスタメンで出場してアシストをマークし、勝利に貢献することができた。その後も何度か試合には絡んだものの、そこからは特に目立った活躍をすることはなくシーズンが終わった。コロナの影響でかなり試合数が少なく、あっという間に終わってしまったなという印象だった。
 
この1年目はとても多くのことを学んだ年で、特にポジショニングの面はかなり改善が見られたと思うし、きちんと前から選択肢を選んでいく意識も身についた。なんなら4年間の中で一番成長していた時期だと思う。ア式への印象としては、ゴールキックでさえもきちんと下から丁寧に繋いでいく戦術の徹底ぶりが本当にすごいなと思ったし、自分の中学のチームでも高校のチームでもやろうとしてできなかった「パスサッカー」を体現していて(少なくとも自分の印象としてはそうだった)、とても感動した。4年生にはともくん・和田そうさん・しゅうへいさんというかなり個の能力が高い選手が前線に揃っていたので、彼らが抜ける来年は頑張らないとなと思った。
 
また、シーズンが終わった後に染谷さんといろいろとお話しする機会があり、そこでサッカーに対する向き合い方に転機が訪れた。オフ中だったか2年目のプレシーズンだったか忘れてしまったが、2人で部室で終電間際まで語りあった。以前のfeelingsでも書いた通り、当時の自分には小さい頃から憧れだったプロを目指すという目標が頭の片隅にあり(もちろん今もあるけどだいぶ隅の方に追いやられてきている)、もしすべての情熱をサッカーに捧げていたらもっとレベルの高いところでやれていたんじゃないか、というふうに考えていた。しかし、この日染谷さんが話の中で、「どれだけサッカーに情熱を注げるか、というのも一つの才能なのかもしれない」ということを言っていたのを聞き、そもそもこれまでにサッカーに注いできた情熱の量が自分の限界だったかもしれないと思った。高校までの自分を振り返ってみて、やはり勉強や遊びを差し置いてすべての時間をサッカーに捧げるのは非現実的だった。それは大学でも同じだった。自分の大学生活において、もちろんサッカーを第一優先にしたいという気持ちと同時に、サークルにも入ってみたい、学祭の運営にも手を出してみたい、プログラミングもちゃんとやりたい、友達とたくさん遊びに行きたい、みたいな気持ちもあった。果たしてこれらの気持ちを押し殺してまで(サッカーのことだけを考えたらこれらは「邪な」気持ちなのであろうが)サッカーだけに情熱を注げるのかと言われると、正直自分には難しいなと思った。そういう意味では、自分はサッカーだけに情熱を注げる才能は持ち合わせていなかった、ということになる。言い訳みたいに聞こえるかもしれないが、当時の自分は妙に納得した。おそらく今までプロに限りなく近い環境でやってきた染谷さんも、同じように考えていたのかもしれない(違ってたらすいません)。ということで、今後は自分ができる範囲でサッカーに情熱を注ぎ、その中でどこまで上手くなれるか勝負しようと思った。実際に4年間、できる範囲でサッカーに向き合った結果、たぶんみんなの半分以下の時間くらいしかサッカーを見ていなかったし、器具を使った筋トレに至っては数える程しかしていなかった(卒部feelingsだとこういうのも言えちゃうのがいいですね)。それでも練習中に強度を落とすことは絶対にしないようにしていたし、練習後のシュート練とかもちゃんとやっていた。おそらく自分はサッカーのために何かすることではなく、サッカーそれ自体をプレーすることに対してしか情熱が注げないのかもしれない。よく言えばメリハリが付いていたのかもしれないし、これに関しての後悔は(とりあえず今のところは)感じていない。
 
2
 監督が代わり、陵平さんになった。陵平さんは名前だけはなんとなく聞いたことがあったけど、とりあえず性格が良い人だったらいいなと思った。さすがに強化ユニットが選んでくれた人だから大丈夫だろうと思っていたが、すぐに怒る人やパワハラをする人だったらたまったもんじゃないなと内心ちょっとだけ心配していた。ただそんな心配はすぐに払拭され、実際に会ってみたら陽気でイケメンでサッカーがめっちゃ上手い人だった。
 
 陵平さんが来て新しい練習メニューになり、練習中や試合中、ハーフタイムの声かけも遼さんの頃とはだいぶ変わった。やっぱり監督が変わると、選手が同じだったとしてもこんなにチームの雰囲気が違うんだな、と実感した。陵平さんは「ゴール前では足を振る」「点を決め切る」など元フォワードらしい指示が多かった。また、練習試合では誰よりも勝ち負けにこだわっていたように思う。2021年のプレシーズンは、練習試合は同じ1部のチーム相手にほぼ負けなしで、チーム全体として良い流れでシーズン開幕を迎えられた。しかし、やはり1部の壁は高かった。
 
 開幕の青学戦は、新チームとして元関東2部相手にどこまで通用するのか、プレーヤーも指導陣もワクワクしていた。前半の本当に最初の部分だけ東大のハイプレスがうまくはまり、自分たちも1部で意外とやれるのではと感じたのも束の間、みるみる間にシュートを浴びせられて前半に失点、ひっくり返せるわけもなくそのまま敗戦した。そのあとはひたすら負け続け、6月の大東戦まで厳しい日々が続いた。
 
迎えた大東戦。初めて公式戦で点を取ることができ、4年間でも印象に残っている試合の一つである。その日は6月なのに死ぬほど暑く、試合中はかなりきつかった。前半の早い時間帯に先制されたものの、試合自体は比較的支配できていて、ハーフタイムのベンチではこのまま負けるわけにはいかないという雰囲気が漂っていた。その頃は、明らかに自分たちより強い相手に前半に23点取られ、口では「まだまだこっからだぞ!!」とは言っても、実際に試合をひっくり返せる可能性としてはかなり低いだろうということがざらにあったが、この試合は違った。そして後半途中にインサイドハーフからフォワードにポジションを変えた直後、綺麗にチームで相手の陣形を崩して同点弾をもぎ取ることができた。谷のクロスに合わせる時はさすがに緊張して、正直キーパーもなにも見えていなかったが、なんとかゴールに入れることができた。そのあとは試合終了間際まで全力でボールを追いかけ、最後には大学で初めて試合中に足を攣って交代。その直後に試合終了の笛が吹かれ、勝ってもないのに達成感で満ち溢れていた。チームとしても初めての勝ち点で、同点とはいえみんな喜んでいたのを覚えている。
 
そしてこの試合は同時に、自分がフォワードとしてプレーしていくきっかけとなってしまった。これ以降はほとんどの試合でフォワードとして起用され、本当はやりたかったボランチからは遠ざかった。ボランチがやりたいとちょっと言ってみれば、「誰が前で点を取るんだ」「前でボールを収められるやつがいないとチームとして厳しい」「みらいはパスコースの選び方とかボールの受け方が微妙だし、もっと適任なやつがいる」と却下される。もちろん客観的に見れば、チームにとって自分がフォワードをやった方がいいのはなんとなく分かってはいたが、それでも自分がやりたいポジションができないのはなかなか辛かった。フォワードというポジションの特性上ゴール前の守備には参加できない中、目の前で失点が積み重なっていく。特に後期に10連敗くらいしていた時は、自分が何もできないのにチームが大量失点して負けていくのがものすごく歯痒かった。自分が守備型のボランチという自負がある人間にとってはなおさらである。あんまり監督やコーチとぶつかり合うのは好まない性格なので、特に何も言わずにフォワードをやっていたが、静かな不満はあった。パスの配給とかボールの受け方が微妙だというなら教えてくれればいいのに、と思っていた。
 
その後はずっとフォワードとしてプレーし、ビッグチャンスを何回も外した後に点を取ったので喜びにくかった学習院戦や、とんでもないスーパーボレーを決めた割にそれ以外はなにもしていない東農戦、前に出すぎたキーパーの頭上をループシュートで狙った東経戦など、シーズン中に計4点を取ることはできた。たった4点で何を偉そうにと思うかもしれないが、圧倒的最下位のチームでの4点なので許してほしい。チームとしては勝ち点92部に降格。正直あまりに力の差がありすぎて、降格に対して悔しいという感情は湧かなかった。
 
チームメイトのみんなに言わせると、自分のプレーはこのシーズンが最高潮だったらしい。いつだったか吉岡さんに「なんでそんなルーズボールが収まるん?みたいな状態だったよ」と言われたし、谷には「あの時のみらいくんは正直すげえと思ってた」と言われた。確かにたくさんボールをキープすることはできたし、点は取ったけど、相変わらずパスミスはたくさんするし、普通に潰される時は潰されるし、あんまり自分では納得していない。とはいえ、みんなに言われるから本当に最高潮だったのだろう。ただ実際のところ、昔の方が上手かったと言われるのは悔しいものである(もちろんいじりで言ってきてくれるのは嬉しいから安心してね、特に章くん)。自分では4年間で一生懸命成長してきたつもりなのに、逆に退化しているのではたまったものではない。まあ人間はそう簡単に下手になったりしないだろうし、自分の中で得たものは確実にあるから、周りからの高まる期待値に応えられるほどの成長はできなかったということにしておこう。
 
3
 3年目は、正直あんまりこれといった印象はない。延々と続く毎日の練習と試合を淡々とこなしていたイメージだった。チームとしては、染谷さんがいなくなってビルドアップが若干不安定になってしまったが、2部のレベルではそれがそんなに露呈することもなく順調に勝ち点を重ねていった。いや、順調にと言うと若干違うかもしれない。格下相手にも意外と苦戦し、ロースコアでなんとか勝っていく試合も多かった。
 
ではなぜ苦しい試合も勝てていたか。その理由は明らかで、谷が試合を決めてくれていたからだと思う。別にチャンスでもなんでもないところから23人抜いてシュートまで持っていく。素直にすごいと思った。サッカー界隈では名前も聞かないような高校にもこんな上手い子がいるもんだなとびっくりしていた。点を決めてチームを勝利に導くという彼が担っていた役割は、陵平さんが自分に期待していたものだったかもしれない。しかし自分には同じようなプレーはできなかった。もちろんそれなりにシュートは上手い方だったが、1人でチャンスメイクできるほどの力はなかった。
 
じゃあこのことについてめちゃめちゃ悔しかったかと言われれば、正直そんなにそういう気持ちはなかったかもしれない。中高をボランチで過ごし、自分の強みは守備にあると思っていた人間にとっては、点を決められないことにアレルギーを持てるほどのメンタリティーは持ち合わせていなかった。もちろん自分より上手いやつがいること自体には悔しい感情はあったが、谷のプレーが自分に真似できるとは思わなかったので、どこか他人事だった。別に谷より活躍できなかろうとスタメンから落ちることはないという環境のせいもあったかもしれない。
 
上で述べた通り、2年目と比べればパッとしない、あんまり成長の実感はなかった年になった。ずっと前にともさんに言われたことだが、12年のうちは先輩たちについていこうとするだけで勝手に上手くなっていくが、34年になってから上手くなるのは結構大変だよ、という言葉がそのまま当てはまったかもしれない。別にサッカーに対して手を抜いていたわけではないが、コロナがだいたい終わって遊びや飲み会の回数が増えたり、ポーカーや麻雀に没頭したりし始めたのも3年目で、そのせいかなとも思ったり。言い訳に聞こえるかもしれないが、上にも書いた通りこれが自分のサッカーに対する情熱の限界だから仕方なかったのかもしれない。
 
シーズンが終わって見ればチームは昇格を果たし、来年は1部でやれることが決定した。れおさんが卒部feelingsで書いていたが、最高学年は自分どうこうと言うより、チームを勝たせなければいけないというプレッシャーに押しつぶされるらしい。自分のプレー以外に関しては基本的に無頓着な自分が、意外とそういった責任感を持つ可能性もあったりするのかな、と思った。
 
4
リーグ再編に伴い、4年目の1部は実力の近い大学が集まった。正直2年前の1部は実力差がありすぎて昇格なんて現実味がなかったが、今年ならありえるかもしれないと思えたし、その分とても楽しみだった。
 
チームとしては陵平さんの3年目ということである程度まとまってきていたが、自分はその中でどういう役割を担えば良いのかあんまり分かっていなかった。別に1人でドリブルで打開してシュートまで持っていけたり、圧倒的なチャンスメイクの力があるわけでもない。中学の時に、攻撃の選手としてやっていくならシュートまで持ってく自分なりの決まったパターンが必要だと監督に言われたのを覚えているが、2年間フォワードをやってみてもそのパターンは見つからなかった。やっぱりシュート数も谷や北川などと比べて圧倒的に少ない。また、2年前ほど相手のプレッシャーが強くなく、ある程度チームでボールを持てる中で、果たして自分のキープ力がそこまで必要なのか疑問だった。陵平さんに、自分に何を求めているか聞いた時に、「点を取ること」と返されたことがあったが、正直他に適任な人がいるなと思った。とはいえ「僕に点なんて取れません」と開き直るのはどこか負けを認めたみたいで嫌だったし、それ以上は何も聞かなかった。たらればにはなるが、あの時にもっと深く自分の役割について陵平さんに問い詰めていたらもう少し良い最終シーズンになったかもしれない。
 
ということで、プレシーズン、もっと言うと4年目のシーズンを通して一体自分にどういうプレーが求められているのかいまいち飲み込めないままだった。自分がそんな状況なので、必然的に他の選手への要求は減少し、練習後の集合で発言することもなくなった。久野さんに、「チームの雰囲気を締めるために、みらいは怖くならないといけない」みたいなことを言われたことがあったが、自分がうまく行っていない中で、他人に厳しいことを言うのは気が引けた。陵平さんは「みらい、ミスしない」とか「みらい、もっと集中しろ」とか抽象的なことしか言ってこないし、もっと具体的に自分がどうしたら上手くなるかを伝えてほしいなとずっと思っていた。まあそりゃ全てのプレーをミスしなければもっといい選手になるのは間違いないのだが、ミスを減らすための手法がいまいち分かっていなかった。
 
延々と迷い続けていても、時間は待ってくれない。オフ明け後すぐにアミノバイタルカップが始まった。皮肉なもので、自分の状態とは裏腹になんかよく分からないまま計5得点もしてしまった。もちろん嬉しかったことには嬉しかったのだが、自分のフォワードとしての評価が現実と乖離していく感じは否めなかった。ちなみに5点のうち半分以上がクロスからの得点で、なんとなく自分の得点パターンが見つかったかなと一瞬思った。しかし結局リーグ戦ではそのような得点は一つもなかったからたまたまだったのだろう。そのうちリーグ戦が開幕し、上智戦、その次の学習戦とチームは2連勝を飾った。このままいけば全然上位に食い込めるなと思ったし、同等の相手と良い試合をして勝てるのは嬉しかったが、自分のパフォーマンスは特段良いとは言えず、試合が終わるたびになんとも言えない感情になった。その後は怒涛の同点ラッシュ。陶山が劇的同点弾を決めた試合もあれば、相手キーパーに劇的同点弾を沈められた試合もあった。朝鮮大には終了間際に失点し、勝ち点を取りこぼした。自分の長いサッカー生活の中で、意外と終了間際に試合が動いた経験はほとんどなく、劇的な試合展開の中に身を置けるのは刺激的だった。天候にも恵まれなかった。雨が酷すぎてサッカーにならない試合も何回かあった。前期は終わってみれば263敗で半分以下の順位にいた。自分は得点数0でパフォーマンスもあまり良くなく、チームにあまり貢献できていない感じがした。
 
ただ、前期最後の大東戦は別だった。スコアレスドローだったのであんまりみんなの記憶に残っているかは分からないし、別に自分が目立つプレーをしていたわけでもないが、それでも個人的には4年間の中で1番満足のいく試合だった。その日はスーパー1年生の誠二郎と調子を上げていた陶山が先発にいたので、その分自分はポジションを下げて左ボランチとして出場した。陶山と誠二郎にコーチングをし続けてハイプレスをかけ、中央のスペースを埋めつつ、相手が蹴ってきたセカンドボールを回収していく、といった自分の良さがちゃんと出せた感覚があった(たぶん)。別に特段目立つプレーではないものの、やっぱり自分のやりたいことを試合でちゃんと実行できるのは気持ちよかった。攻撃面ではやじにプレスを誘発するようなパスを出してしまったり、スルーパスをミスったりして、自分がボランチをやることでチームの支配率が多少なりとも下がってしまっただろうが、今までの試合よりかはチームに貢献できたなと思った。また、なによりも久しぶりに試合を楽しめた感じがしたし、試合後に荒や陶山、真路にプレーを褒められたのは嬉しかった。
 
前期と後期の境目には、選手だけでミーティングをした。選手それぞれが後期に向けた意気込みを述べるフェーズがあるのだが、そこでやじがこんなことを言っていた。「一回生活のすべてをサッカーに捧げてみよう。家で暇だったら試合のビデオとか見て、常にサッカーのことを考えてみよう。みらいとか八代はここから何回飲み会に行くのか知らないけど、俺はパフォーマンスが下がるならお酒も飲まない。」みたいな感じだった気がする。なんか名指しされてしまったと思ったが、生活のすべてをサッカーに捧げることを一回諦めた人間にとっては結構刺さる言葉だったし、意外とそれを見透かされていたのかもしれない(別に意外とでもないか)。しかし、いくら言葉が刺さったとしても、自分がサッカーだけに全てを捧げられない人間だと思い込んでいる人の行動を変えるほどの力はなかったようだ。情けないことに、サッカーを見る時間は友達と遊んだりコードを叩いたりする時間に置き換わったままだった。
 
そして後期。もう泣いても笑ってもあと11試合しかないし、自分のパフォーマンスどうこうよりも、この環境でサッカーができることを最大限楽しもうと思った。そしてそんな決意をした甲斐あってか、ここからの11試合はア式生活の中でもとても楽しい期間だった。
最初の上智戦は誠二郎が2点決めて逆転勝ちし、あ、点取り屋ってこういう奴のことを言うんだなと思った。2戦目の学習戦は同点に終わってしまったが、3戦目の横国戦では初ゴールを決めることができた。勝利に貢献できて普通に嬉しかった。この試合は終了間際にひかるが劇的勝ち越し弾を決め、点取り屋がもう1人現れた。続く理科大戦では自分の2得点を含む大量6得点でチームは大勝、ここまでは再度昇格争いに食い込めるのではないかという勢いだった。しかし、やっぱり上位勢の壁は高かった。次の成蹊戦では02であえなく敗戦、この時点でかなり昇格は厳しいものになってしまった。
 
そして迎えたアウェーの玉川戦。自分のサッカー人生の中で一番興奮した試合だったし、ア式でのベストゲームはと聞かれれば迷わずこの試合を選ぶだろう。その日は古川とのダブルボランチの一角として出場し、トップ下で出ていた章と一緒に中盤で暴れ回った。暴れ回ったというのは文字通りで、良い意味でも悪い意味でもなく、ひたすらボールが落ち着かず(じゃあ悪い意味だったかも)、こぼれたボールがチャンスになることもあればピンチになることもあった。ちなみに前半開始15分くらいで、ファールで笛が吹かれた後に30mくらいの距離からミドルシュートをゴール右上隅に突き刺した。あれが入っていたら伝説級のゴールだったし、ベンチからはどよめきが起こっていた。普通にイエローカードをもらってもおかしくないプレーなのに、なぜか試合中に審判からいいシュートだったねと褒められた。それは置いといて、前半開始30分あたりで相手のミドルシュートで先制を許してからは、苦しい展開が続いた。得意としているはずのセカンドボールはあまり拾えず、自分のパフォーマンス自体はあんまり良いものではなかった。ハーフタイムは01で折り返した。後半開始して早い時間帯に、谷のゴールで1点返した。やっぱり後半の早い時間に同点に追いつけたのは大きくて、時間が経つにつれだんだんと東大のペースになっていった。しかしカウンターから生まれた何本かの決定機は、どれも得点には結び付かなかった。一平がキーパーとの一対一でシュートをはるか枠外に飛ばした時は、こんなにも点が入らないものかと逆に笑ってしまったし、残り時間もわずかでさすがにこの試合は同点で終わっちゃうかなと思っていた。その矢先、相手のコーナーからのカウンターで生まれたチャンスで、相手のクリアボールを拾ってボレーシュートをゴール左隅に突き刺すことができた。シュートを打つときはものすごく緊張した。ボールがポストに当たってゴールに吸い込まれた瞬間はめっちゃ鳥肌が立ち、起こったことがにわかには信じられなかった。ゴールを決めたときはプロっぽく喜びたいよねと事前にたけに話していた通り、カメラも観客もいないコーナーフラッグあたりまで走って行った。ベンチも含めみんなお祭り騒ぎで喜んでくれていた。その後まもなくして試合終了の笛が吹かれた。試合後はいろんな人が褒めてくれたし、何よりみんな笑顔なのがとても嬉しかった。アウェーなのに帰り道の足取りは軽かった。
 
続く帝京戦もアウェーの格上相手に勝利を収め、チームの雰囲気は最高だった。ただ、次の朝鮮戦で惜しくも敗戦し、ここで昇格の夢は完全に潰えてしまった。まあ前期のあの結果を考えると、ここまで昇格を追い続けられたということだけでも良かったのかもしれない。光陰矢の如しとは言うが、その後は武蔵戦、成城戦、大東戦と矢のように過ぎ去って行った。最後の大東戦は友達も見にきている中、最後に点を決められてちょっと嬉しかった。
 
4年目を振り返ってみると、やはり全体的にパフォーマンスはあんまり良くなかったかなと思う。まあ決して悪かったわけでもないのだが、チームメイトが期待するような圧倒的な存在には遠く届かなかった気がする。チームとしては最終的に7位でフィニッシュし、結局順当な感じで終わってしまった。後期だけを見れば623敗でそれなりの成績だった分、前期でもう少し勝ちを重ねられればなとは思った。昇格・降格へのプレッシャーがそこまで今年はなかったので、結局れおさんが言っていたような最高学年としての責任や重圧みたいなものは最後まで感じられなかった。もしかしたら八代とか古川は感じていたのかもしれないし、自分の性格によるものかもしれないけど。チームマネジメントは陵平さんやおかぴ、八代、たけ、古川あたりがやってくれているし、自分は何も考えずにプレーさせてもらった。最後はゴールも決めて終われたし、まあ無難に過ぎていった1年だったかなあと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 夜中、真っ暗なベッドの上でGoogleドライブから自分の写真をひたすらダウンロードしていた。いつか消されてしまう前に自分のパソコンに移しておこうという魂胆である。思っていたよりも写真は大量にあり(そりゃ公式戦だけで70~80試合出させてもらっていたから当然なのだが)、ダウンロードしていくだけなのに何時間もかかった。いろいろな写真を見るたびに、この試合は楽しかったなとか辛かったなとか、記憶が蘇ってくる。やっぱりこの東大ア式で過ごした4年間は貴重な時間だったな、としみじみ思った。最後に、ア式で4年間過ごしてみて感じたことを綴って終わろうと思う。
 
自分の思うア式の最も素晴らしい点は、スタッフの数の多さである。テクニカルスタッフは相手のスカウティングをしたり試合映像のフィードバックをくれたりするし、女子スタッフは毎日のように練習や試合に来て仕事をしてくれるし、フィジカルコーチや学生コーチには言わずもがなお世話になったし、ここまでスタッフが充実している環境はなかなかないと思う。彼らはサッカーをプレーしないのにも関わらずア式に時間と体力を費やしており、ア式を代表して試合に出る身としては彼らの思いをきちんと背負ってプレーしなければと感じていた。今まで自分は自分のためにしかサッカーをしてこなかったが、大学に入って初めて他人のためにもサッカーをしようという気持ちが生まれたと思う。
 
中高を(高3を除いて)スタッフがいない環境でサッカーをやってきた僕としては、試合で応援してくれるとは言ってもそれはBチームやCチームのプレーヤーだった。もちろん純粋な気持ちで応援していた人もいたかもしれないが、少なくとも自分がBチームやCチームにいるときは、「あいつより自分の方が試合でいいプレーできる」とか「自分にチャンスが回ってくるならトップチームは全然負けてくれていいな」とか普通に思っていた。そんな感じだったので、今までは純粋に応援されていると感じることは(親を除いては)あまりなかったし、ましてや他人のためにプレーするなんていう発想があるわけがなかった。別にパフォーマンスが悪かったことで他の人から文句を言われようと、じゃあ自分でスタメン取る力をつけてから言いなよって思っていた。また、練習環境を整えてくれているコーチたちにも感謝はあったが、給料をもらっている大人たちのためにプレーするというのはちょっと違う気がした。
 
それに対し、ア式では普段から自分たちを支えてくれているスタッフたちが、試合で声を張り上げて応援してくれている。もちろん育成チームやベンチ外の人たちも応援してくれているのはとてもありがたかったが、スタッフの人たちが応援している姿は自分にとっては別物だった。そこで初めて、自分のためだけではなく、ア式の代表として頑張らねばという気持ちが芽生えた。パフォーマンスが悪ければちょっと申し訳ない気持ちになったし、点を決めたときは一緒に盛り上がってくれて嬉しかった。ア式に所属する人たちの思いを背負って試合に出ているんだという意識から、彼らに残念に思われるような行動は控えようと思えた。試合前日は飲み会に行ってもお酒は飲まなかったし、コンディション調整にもできる範囲で気を使った。たぶんア式にスタッフがいなかったら試合前日にも普通にお酒を飲んでいたと思う(たぶんそんなにプレーは変わらないと思うけど)。
 
最近社会人チームの試合に出てみて、やっぱり客席が静かだなと思った。あんなに多くの人が応援してくれるア式は素晴らしい環境だったんだなと実感したし、今後その環境でサッカーができる機会はかなり限られるだろうなと思った。
 
 
 ア式での4年間は、ひたすら手探りで進んでいったなという印象である。高校までは自分の周りに上手い人がたくさんいたので、試合に出続けるために必死になることで精一杯だった。しかし、ア式で自分がチームを引っ張る立場になったときに、どうするのがチームにとって一番良いのか、自分に何が求められているのかを考える余裕が出てきて、それが逆に難しかった。ポジションも新しくフォワードになったので、果たして点を決めるだけで良いのか、調子が悪くて点を決められないときはどうすれば良いのか、何もかも分かっていなかった。もしかしたら、そんなことを考える前にひたすらサッカーを上手くなることに執着するのが良かったのかもしれない。せっかく陵平さんが近くにいたのだから、もう少しいろいろ聞いておけば良かったとも思う。大学生活は短いもので、自分なりの答えを見つける前に引退を迎えてしまった。他の人から見れば華々しいア式人生だったかもしれないが、不完全燃焼の感じは否めない。ただ確実に言えるのは、4年間を通してサッカーは上手くなったし、この模索の時間は決して無駄ではなかったということである。
 
おそらく自分はこれから社会人の東京都1部リーグでプレーする気がしているが、ゆくゆくは関東リーグだったり、さらにその上にステップアップしていければいいかなとは思っている。とりあえず自分のできる範囲でどこまで上を目指せるか、挑戦していければいいかなと思う。中学や高校の友達もJ3とか地域リーグでやるっぽいし、今後もそいつらには良い影響をもらう気がしている。また、後輩たちにはぜひ社会人になってもサッカーを続けてほしいし、いつか一緒に試合とかできたらなと思っている。
 
最後にちょっとだけ。
同期。コロナで微妙な始まりになったけど、だんだんと仲良くなれて嬉しかったです。今後ともよろしくお願いします。
先輩たち。若干とっつきにくい後輩だったかもしれませんが、優しく面倒を見てくださりありがとうございました。
後輩たち。とても仲良くなれた気がします。遠慮なく絡んできてくれるのは嬉しいので今後も続けてください。
また、両親、指導陣、LB会の方々、同期、後輩たち、先輩たち、今まで関わってくれたすべての人に感謝を述べたいと思います。
 
サッカーのお誘い(遊びのお誘いでも)、飛んで行くので待ってます。
 
 
三谷深良惟

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