投稿

4月, 2023の投稿を表示しています

さらばアイデンティティ、いやその先へ

水本龍志(4年/FW/洛星高校)  水本龍志とはどのような人なのだろうか。        自分とはどんな人間なのか。一見サッカーとは全く関係のなく抽象的であるように思えるこんな問いかけをスタートに、今自分が持っている考え、思い、決意といった話をしたいと思う。めちゃ長くて正直自分のために言語化して整理したただの自己満文章ですが、暇な人はよければお付き合い下さい。        自分という人間は時と場合、また接している相手によってさまざまであるように感じられる。それが故に、自分が他人にどのような人間だと思われているかという点についても、聞く相手によってさまざまであるはずで、例えば僕の母親が抱いている「水本龍志」像と、高校同期の一人が抱いている「水本龍志」像と、ア式のチームメイトの一人が抱いている「水本龍志」像とでは大きく異なるだろう。    そんな自己の多様性の現実を前にしても、何か本物の自分なるものが存在しているように感じる。そしてこの感覚をもとに、今の自分はちょっと自分らしくないなとか例外的な自分だなとか、逆にこれぞ「自分らしさ」だというように時々に感じる。この感覚は僕以外の人にとっても自然な感覚なのではないだろうか。これこそアイデンティティなるものであり、自分らしくオリジナルでスペシャリティを備えた自己というものをアイデンティティとして認識した上で主張していくことは現代社会において非常に重視されているように思うし、今は亡き中高時代の国語教員だった恩師が強調していたのを強く覚えている。      そんなアイデンティティに苦しめられた経験はないだろうか。      僕自身にとって、サッカーと自分との関係性を考える上でアイデンティティは非常に重要な介在物であった、そして今もそうであるように思う。「サッカーをしている」という事実が自分にとっては欠かせないアイデンティティの一部であるように感じられ、逆にその事実を自分のアイデンティティから抜き去った時に、そこに残るのは空虚以外の何者でもないようにも感じられる。それほどサッカーは自分にとって重要な生活の一部で、重要なアイデンティティの構成要素なのだ。 ...

食わず嫌い

御明竜蔵(3年/FW/渋谷教育学園幕張高校)  部活が嫌いだった 毎日の練習が嫌いだった。 顧問の怒号が嫌いだった。 ミスばかりの自分が嫌いだった。 精神的・物理的に激しく拘束されることが嫌いだった。 気づいたらサッカーも嫌いになっていた。       大学生活も折り返し地点、大学 3 年生も間近というタイミングで僕はア式の門を叩いた。 なぜ一年生で入部しなかったのか、二年間なにをしていたのか、なぜ今ア式に入部するという選択をしたのか書き残したい。   まず初めに。なぜ一年生で入部しなかったのか。理由はただ一つ。二度と部活なんてしたくなかったから。強制的にア式の新歓グループにぶちこまれようとも、キャンパスで先輩に会う度に部活に誘われようとも絶対に首を縦に降らなかった。 アンチサッカー部。部活動への憎悪の化身となったのは間違いなく高校の部活のせいである。よく言えば文武両道、悪く言えば極度の部活中心主義の部活だった。部活のために学校行事を欠席するのは当たり前。練習以外にも公式戦準備、その他諸々で圧倒的拘束される毎日。それだけなら正直不快なだけで済むが、何より耐え難かったのは顧問だった。足もとの技術がなくミスばかりだった自分が 9 割悪いのは承知の上だが、流石に毎日のように怒鳴られると気持ちが参ってしまう。気づけばミスを恐れて消極的なプレーが続き、技術が全く上達しないという悪循環。なんでわざわざ毎日怒られにグラウンドに行っているのか。毎日の練習が憂鬱で逃げ出したかった。   その日の顧問の機嫌に雰囲気が左右され、謎の理由で叱責されることもあった。試合も勝ちたいという気持ちを罰走への恐怖が遥かに上回り、サッカーを楽しいと思わなくなった。練習は成長するためのものから、ただこなすだけのものに堕ちた。高三の秋の引退を待ち遠しく思う毎日。そんな精神状態で、三年間部活を続けたことは自分の人生の中でも特に誇れることだと思っている。これからの人生でこの三年間を上回る苦行はないと思うし、あってほしくない。   ただ、僕の代は偉大な先輩方と比べるとコロナなどのおかげで比較的マシな代であり、あまり母校をネガキャンするのもどうかと思うので高校時代の怨嗟を吐くのは...

肩書き

山崎光夏(4年/スタッフ/旭丘高校) 2 年の頃に一度 feelings を書き、もう卒部まで半年だしもう一度は書かずに済むかなぁと思っていたが、そう甘くはなかったようで、回ってきてしまった。   卒部の時にも書くことを残しておきたいので、とりあえずは最近の私について書いていこうかなと思う。   最近の私は、自分の役割を探すのに必死だ。 4 年でラストイヤーに突入し、同期の選手がすごく頑張っているのを見ると、自分も頑張らないと、と思う中、自分の必要性が薄いような気がしてムズムズするというのが近頃の私だ。   私のア式生活の大半は 2 年の時に引き継いだこともあり、「グラウンド業務長(スタッフ長)」という肩書きが締めているような気がする。そして、そろそろ後輩にこの役目を引き継がないといけないなと考え始めた今日このごろ、「え、私グラウンド業務長やめたら何もしてない人なのでは?」と私は気づいてしまった。これは私にとって結構大きな衝撃だった。(まあ正直グラウンド業務長であるにしてもシフトを出したりログを出したりしていただけで大したことはしていないのだが)グラウンド業務長をやめたら私に何が残るのか?と思い始め最近焦っているのが正直なところだ。   そんな中、あがったのがベンチの話である。これに関しては全く誰も悪くないし、割とデリケートな問題かもしれないので、書くかどうかは迷ったのだが、最近私が一番変わらないと、と思うきっかけになったので書いておこうと思う。これは軽く説明すると、ヨネが入部してくれたことによって応急処置は経験と知識が豊富な彼に任せる方が安心であろうという話になり、一時提案として人数の都合的に、女子トレーナーがベンチから外れても良いのでは?という案が出たというものだ。あまり他のトレーナーにまでは伝えていない話なので、他のトレーナーの意見がどうかはわからないが、私は割とショックだった。私は一度、ベンチに入った時に応急処置が迅速にできずあたふたしてしまったことがあり、そういうところで信頼を失ってしまったのだろうと自分の不甲斐なさや今までの怠惰さをただ後悔するしかなかった。結局、応急処置の早急な対処のため、新家とヨネ以外にボトルに水を入れたり氷を作ったりする人も必要だということで、女子トレーナーは残存...

第2のサッカー人生

石井貴大(2年/DF/岡山朝日高校) 約 1 年前、東京大学に合格した。   ア式に入るつもりは微塵もなく、普通のサークルに入り、普通に授業を受け、友達と遊ぶ普通の生活を送ることを選択した。その毎日は普通に楽しかった。   ただ、どこかに引っかかる気持ちもあった。         高校に入り、小学校から続けていたサッカーをやめた。勉強のためとか、キツそうだからとか言っていたはものの、当時どこか尖っていた自分の逆張り精神みたいなのもあったかもしれない。     最初はその選択が正しいと思っていたし、部活をせず帰りに友達と喋ったり、遊んだり、時には勉強したりする日々は楽しかった。       しかし、高校卒業後、勉強以外に本気で取り組んだこととして何も残らない高校生活だったことに少なからず後悔を覚えた。 その後悔は大学入学後も心の奥底に残り続けた。 そして大学でも高校と全く同じ道を歩もうとしていることに徐々に多少の嫌悪感を抱き始めた。   ア式という文字はこのころから頭にちらついていたのかもしれない。   ただ、高校と浪人生活を合わせた約 5 年のブランクがア式に飛び込む自分の障害となり続けた。ア式卒の久木田選手が地元ファジアーノ岡山で活躍したのを幼い頃間近で目にしたことからも、ア式のレベルの高さは容易に想像できていた。       転機は夏休みに訪れた。     岡山に帰省してすぐ、弟の試合を見に行った。 弟は高校生になった今も本気でプロを目指してサッカーをしている、自分とは真逆と言っていい人間である。   国体の本選を懸けた試合、 CF として出場した弟は兄の前で決勝ゴールを奪い、チームを全国に導いた。   兄である自分がこんなことを言うのは可笑しいと思われるかもしれないが正直、心が踊った。 遠い昔の、サッカー選手になりたいとか言ってた頃の自分を少し思い出した。   俺ももう一度、本気でサッカーをしたいと心の底から思...

50m走11秒だった私が、ア式蹴球部女子に入部させていただいて

日頃よりア式蹴球部女子へ多大なるご支援、ご声援を賜っておりますこと、この場をお借りし改めて心より深く感謝申し上げます。私が4年間、ア式蹴球部女子、そして文京LBレディースでサッカーをさせていただけたのは、LB会の皆さまをはじめとし、日頃より多くの方々がご支援をしてくださっているからであると強く感じており、言葉では表現しえぬほどの感謝の気持ちでいっぱいです。 本記事では、私がア式蹴球部女子に出会い、4年間過ごさせていただくなかで感じたことを書き綴ることにより、お世話になった皆さまへ少しでも感謝の気持ちをお伝えさせていただけたら……と思っております。 突然ですが、私は「言葉の世界」が大好きです。小さい頃からずっと、「言葉」を愛して生きてきました。きっかけは中学生のころ、川端康成さんや大江健三郎さん、夏目漱石さん……たくさんの作品を読んで心から感動し、私もいつか心にそっと寄り添えるような言葉を生み出したいと思ったことです。 一枚の紙と、一枚のペンがあれば生み出せる。 そんな「言葉」という存在に深く魅了されていた私は、東大を目指し、入学後も自分なりに「言葉」と向き合いたいと思っていました。 四六時中、頭や心に湧き出てくるたくさんの言葉たちを書き留めている私にとって……そして、幼少期からあまり身体が強くなかった私にとって……「運動部」という線とは平行の関係で、交わるはずのない存在でした。 ところで、みなさんの50m走の記録は何秒でしょうか。 私は恥ずかしながら、入部時の50m走が11秒でした。 物心がついた頃にはすでに運動音痴で、小学生のころはハードルが跳べず、運動会のハードル走でハードルを全部足で倒してから何もなくなったレーンを走って、会場中が笑いで包まれたほどです。 言うまでもなくサッカーも苦手でした。サッカーの思い出といえば、ボールの上に乗ろうとして転んで、学校を早退して病院に行ったことと、スローインと見せかけてゴール前までボールを持っていって投げ入れて、同級生や先生に総ツッコミをされたことくらいです。 時が過ぎて、中学生・高校生になってもやっぱり私は運動が苦手なままでした。学年でいつも一番足が遅く、リレーの前後には足の速い子が来てくれて、持久走も1km20分が精一杯だったほどです。 このように、私は何をやっても鈍臭くて不器用なため、隣の子が3回でできることを、100回...