さらばアイデンティティ、いやその先へ

水本龍志(4年/FW/洛星高校)


 水本龍志とはどのような人なのだろうか。

 

 

 

 自分とはどんな人間なのか。一見サッカーとは全く関係のなく抽象的であるように思えるこんな問いかけをスタートに、今自分が持っている考え、思い、決意といった話をしたいと思う。めちゃ長くて正直自分のために言語化して整理したただの自己満文章ですが、暇な人はよければお付き合い下さい。

 

 

 

 自分という人間は時と場合、また接している相手によってさまざまであるように感じられる。それが故に、自分が他人にどのような人間だと思われているかという点についても、聞く相手によってさまざまであるはずで、例えば僕の母親が抱いている「水本龍志」像と、高校同期の一人が抱いている「水本龍志」像と、ア式のチームメイトの一人が抱いている「水本龍志」像とでは大きく異なるだろう。

 

 そんな自己の多様性の現実を前にしても、何か本物の自分なるものが存在しているように感じる。そしてこの感覚をもとに、今の自分はちょっと自分らしくないなとか例外的な自分だなとか、逆にこれぞ「自分らしさ」だというように時々に感じる。この感覚は僕以外の人にとっても自然な感覚なのではないだろうか。これこそアイデンティティなるものであり、自分らしくオリジナルでスペシャリティを備えた自己というものをアイデンティティとして認識した上で主張していくことは現代社会において非常に重視されているように思うし、今は亡き中高時代の国語教員だった恩師が強調していたのを強く覚えている。

 

 

 そんなアイデンティティに苦しめられた経験はないだろうか。

 

 

 僕自身にとって、サッカーと自分との関係性を考える上でアイデンティティは非常に重要な介在物であった、そして今もそうであるように思う。「サッカーをしている」という事実が自分にとっては欠かせないアイデンティティの一部であるように感じられ、逆にその事実を自分のアイデンティティから抜き去った時に、そこに残るのは空虚以外の何者でもないようにも感じられる。それほどサッカーは自分にとって重要な生活の一部で、重要なアイデンティティの構成要素なのだ。

 

 

 大学2年生のシーズン、その年は初詣のおみくじで「半凶」となんとも言えないくじを引いたことも災いしてか、シーズンの半分以上を怪我で棒に振る一年だった。それでもめげずにフィジカル強化に努め、ポジションもウイングからセンターフォワードに改めて研鑽を積み、シーズン終盤にAチームに昇格することができた。そこから代替わりを経て3年生のシーズン。始動からAチームに帯同したものの、なかなかうまくいかない時期が続いた。毎練習自分の実力不足を痛感させられ、その日々はサッカー以外の私生活をもしんどく暗いものにした。この時の僕は、サッカーをする自分というアイデンティティから抜け出せず、サッカーでの辛さをサッカー以外の部分にも持ち込んで、その私生活の不充実がさらにサッカーにも影響して、という悪循環に陥っていたのだ、と今反省すると感じる。高校までで同じような時期があっても、実家暮らしだと家に帰れば家族とたくさん話すことができたり、学校でもサッカー部以外の仲の良い友達もたくさんいて切り替えることができた。だが大学に入り一人暮らしをし、ア式以外での友達作りにも失敗していた自分にとってはそうしたサッカーと離れた対人関係があまり存在せず、かといって他に夢中になれるものもなく、また見つけようと行動する気も起こらなかったから、切り替える術がなかった。

 

 3年Sセメスターが始まって、大量の授業を取ることにした。アミノバイタルカップが終わった翌週にBチームに降格して、サッカーから逃げ出したい気持ちで溢れていた僕は、教職課程の履修、またもともと宗教学や哲学をしたくて東大に来たのに結局教育学部に進んだからせっかくだし受けとこうくらいのノリで哲学系の授業をたくさん履修・聴講した。ここで本格的に哲学というものの魅力に出会った。学ぶことに夢中になって、人生でそれまでなかったくらい学ぶことを楽しんだ時期だったように思う。そしてポストモダンの思想に出会うことになった。ポストモダンの思想についてここで詳しく述べることはしないが、簡単に、これまで当たり前とされてきた観念を徹底的に疑ってみようとし、答えの一義性を否定するようなスタンスだと言うことができると思う。この斬新で爽快な思想に出会って、教育学でもともと関心のあった議論とも絡めながら色々自分でも思考することが多くなったのだが、その時にジル・ドゥルーズという哲学者の思想に強いインパクトを受けた。彼の提唱する重要な概念の一つにノマドロジーがある。ノマドとは遊牧民の意味で、権力や固定観念の枠組みを自在に超えて多様に生きる生き方といった感じの概念だ。この思想を踏まえて色々考えながらふと思った。

 

 

 アイデンティティってなんなんだろう。

 

 

 自分には明確な自分らしさのようなものが存在するように感じて、場合によって自分はさまざまでありつつも芯にはぶれない自分なるものがあると確信していた。でもそんなアイデンティティに、こだわる価値はあるのだろうか。固定観念でしかないのではないか。そう考えると、確かにアイデンティティの内実って怪しい。現在の自分についての何か確たる根拠があってアイデンティティが特定されるわけではなく、アイデンティティは過去の自分を参照して傾向などを推察した上で同定された、帰納的推論の産物でしかない。

 

 このように哲学に夢中になっていた頃、自分のサッカーへの向き合い方も変わっていた。それまでは「サッカーをしている自分」くらいにしか自分のアイデンティティを見出せず、それにこだわって、それゆえにサッカーでうまくいかなくなると私生活にも引きずって、切り替えられず暗いままだからさらにサッカーもイップスになったんじゃないかってくらい恐怖を感じながらプレーして、でも自分にはサッカーしかなくて、という悪循環の日々を送っていた自分にとって、ふとした哲学との出会い、そして哲学にのめり込んだことによってサッカー以外に夢中になれるものを見つけた気がした。そうするとサッカーでうまくいかなくても、夢中で授業を受けたり本を読んだりすることでその負の感情が刷新され、切り替えてクリアな気持ちで次の練習や試合に挑めるようになった感覚があった。そして思想的にもそうした自分を裏付け正当化することができた。今までは「サッカーをしている自分」というアイデンティティにこだわり囚われ続けてきた。そんなアイデンティティを脱構築して疑いなおしてみたときに、サッカー以外の別の確かなあり様、「哲学を学ぶ自分」のような新たな自己像を肯定することができていた。これまでだったら自分の別のありよう、特に図書館にこもって読書に熱中してといったありようは「サッカーをしている自分」の劣位にあるもの、先に述べた言い方をすれば本物の自分ではない例外的でらしくない自分のように感じられていたかもしれないが、この時はそうでなく、「哲学を学ぶ自分」は「サッカーをしている自分」とは別の、でも確かに同等で真正な自己のあり方として認識されていた。

 

 この教訓は何か。アイデンティティなんて所詮自分の過去に基づいた不確かな推察でしかない。確かに帰納的な推論は現実的に非常に有用で、科学的で、人間にとって重要なものであるが、アイデンティティに少しでも違和感を感じたり、うまくいかないってなった時にふと自分のアイデンティティを疑ってみる、また自ずと訪れる自己の変容を正直に受け入れてみる。あれも自分、これも自分。アイデンティティを自己認識することは大事かもしれないが、常にそれに変容可能性を持たせておくこと。アイデンティティを現状肯定の手段とするなんてつまらないし正しくない。それは慢心だ。「自分とはどんな人間か」という答えのない問いと常に向き合いながら、自分の中での多様性を大事にする。さらばアイデンティティ、この精神を忘れずに持っておくべきだということが言えるだろう。

 

 

 

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と、いい感じの締めっぽい結論に至ったわけだが、実はまだ話半ばだ。いよいよ長くなってきた。果たして読んでくれてる人の中でここまでたどり着いた人はどのくらいいるだろうか。そして最後までたどり着く人はいるのだろうか。可能ならも少しお付き合い下さい。

 

 

 

 こうして今までより「気軽に」、もちろんコーチらの支えもあってサッカーにしっかり打ち込みながらも切り替えの術を持ってサッカーをすることができていた自分は、2ヶ月の負傷離脱期間はあったものの概ね悪くない(いやむしろ、かなりサッカーを楽しむことができた)シーズンを送り、一個上の先輩らの引退と同時にAチームに復帰することができた。年が変わって今年に入り、始動から個人的には悪くない調子だった。それは身体的にも、また精神的にも。引き続きサッカーに対して「楽しい」という感情を抱くことができる日も多く、お薦めされたプロ選手のプレーなどを参考にしながら攻撃面での目標などもこまめに立てて、そこそこ充実していた。このまま少しずつだけど成長していけば、今年は悪くないシーズンを送れるかな、そんな淡い期待も持ったりしていた。

 

 そんな中、ある日Aチームの選手全員でミーティングが開かれた。シーズン開幕を前に練習試合で黒星が続いていて前週末の試合もよくない出来だったので、危機感を持って気を引き締めなおして頑張ろうという趣旨のものだった。気を引き締めて頑張る、辛いことをしっかり引き受けて成長する。当たり前に重要なこの言葉に、自分は謎の違和感を感じていた。「頑張る」ってなんだろう。個人としては、もちろんトップの試合に絡むにはまだまだ成長が必要な状態にあることは自覚していながらも、悪くない調子で、実際直近の試合でもゴールを決めた。細かい目標も持ちながらサッカーも楽しくそこそこ充実してた。自分はまだまだだし、チームと同じく危機感を持ってもっと変化を加えて頑張っていく必要があることはわかっていながら、このプラスな状況にどう変化を加えればいいかはっきりとわからなかった。そして何より、ここまでで述べてきた「さらばアイデンティティ」的思想をもとに、サッカーにおいて苦しくなったりうまくいかないときに、サッカー以外のものに逃避することで切り替えると言うような方向性の解決を行なってきたため、そしてそのスタンスでそこそこいい感じになっていたがために、とにかくサッカーにこだわって頑張ってと言うスタンスは、かつてのしんどかった頃の自分に戻るみたいでなんか違うな、みたいな感覚があったのだろう。

 

 この違和感が直接的な原因になったわけではないと思う。でも確かに、この違和感を感じたミーティングが開かれた火曜日から始まった1週間を機に、自分の感覚では一気にパフォーマンスが悪くなった。身体的な疲労の蓄積などあったのかもしれないし、奮起した皆についていけなかったのかもしれない。ポジション争いのライバルが怪我から復帰して、彼との比較に個人的に怖気づいていたような自分がいたような気もする。こうして一度狂った歯車を、正しく戻すことができなくなった。プレーがうまくいかなくなり、細かい目標も意識しづらくなり、体調もコンディションもネガティブな方向に左右して、一気にサッカーが楽しくなくなった。そして奇しくも昨年同様アミノバイタルカップが終わった直後、Bチームに降格した。ラストイヤーで、あと半年くらいしか猶予がないのに。

 

 

 降格してしばらく、あまり状況も良くならなくて、今一度自分のサッカーへの向き合い方について考え込む機会を設けた。うまくいかなすぎて、なんで自分はサッカーをしてるのだろうかという悩みを抱えたこともきっかけではあった。そして自分の甘さを痛感した。表面では前々から分かっていたつもりだったが、心から痛感した。

 

 確かに「さらばアイデンティティ」的思想は、画一的なアイデンティティにこだわりすぎて苦しんでいたかつての自分にとってはとても良い処方箋だったし、今でも大事にしたい価値観だと思っている。一方でその思想に甘えて、自分はサッカーの苦しい部分から逃避していた。サッカーにおける苦しみの解決を、それに向き合うことでなく、サッカーの自分の中でのプライオリティを下げることで対処していた。うまくいかない日があったら別のことに身を投じて切り替えてリフレッシュして、精神的にはそれでいいかもしれないが結局は自分に足りないところと向き合うことをサボっていた。(もちろん向き合っていないことはなかったが、継続的というより断続的だった。)プレーについてチームメイトと議論することもあったが、その時の自分は何か自信を持って打ち出せる意見を持って主張するとかではなくて、自分の現状を所与のものとしてその自分を否定されないような自己弁護を込めたその場しのぎの主張・反論になっていたり、また自分の苦手なプレーと向き合うにしても自分を大きく変えて成長することによって改善すると言うよりも、現状を所与とみなしつつ細かい技術の習得や思考過程の自動化・パターン化によって補おうという感じだった。(この点においては、プレースタイルという面でのアイデンティティにどっぷり依存していたのだ。)他責思考にも陥った。得意なプレーとかストロングポイントについては、向き合って考えるのも楽しいし成長を感じやすいから行なっていて、だからこそこまめな目標を立てながら成長を感じていたが、いつしか苦手にはあまり向き合わない甘い人間になっていた。

 

 よく考えると、アイデンティティの複数性をはなから確信してその場その場の感情で判断するスタンスだと、そのうちの一つにこだわって成長していくことは難しいように思える。科学的な答えの導出は、確かにその確実性を確証することはできないものの、近似的なそれらしい答えを導き出すにはおそらく考えうる最善の手でもあり、実際歴史において人類の大発展を支えてきたスタンスでもあろう。アイデンティティにこだわりすぎるのは良くないが、そんなもの存在しないと決めつけてこだわらないこともよくない。というか、「一つの答えなど存在しない」と言う相対主義的主張には、自らの主張が正しい唯一の答えであると言う自己肯定を行うことができないと言うパラドックスがつきまとう。大事なのは、常にアイデンティティに向き合い、多様性や変容可能性を大事にしながらも常にアイデンティティを模索し続ける。「答えがない」と決めつけるのでなく、何か答えがあるかもしれないと常に模索して適宜解答を導出し続けながら、その解答を固定化せず疑い続けるという繰り返しの作業を行うことで、自己肯定のパラドックスをも乗り越える真の相対主義を実現することができるのではないだろうか。常に自分のアイデンティティと向き合い更新し続ける。サッカーについても、適切な切り替えは大事だが、常に自己分析を怠らず、強みだけでなく弱みにもしっかり目をやり続けて改善し続ける。納得できるまでプレーを見返したり議論した上で自分が実践すべき行動を把握し判断する。現状の自分からは離れているような大きな目標を立ててがむしゃらに頑張るというよりは、大きな目標を立てつつも自分自身から目を背けずその目標との距離を認知し続け、地道に小目標を設定し続けて改善を続けていくこの作業こそが、あのミーティングでテーマになっていた、気を引き締め辛いことをしっかり引き受けて成長する、「頑張る」ということの内実であるのではなかろうか、少なくとも僕にとっては。

 

 

 また自己分析を行うという点についても注意が必要だろう。自己分析、自分への評価の源泉としては、自分自身による評価と、他者からの評価があると思う。自分自身が持つ自己イメージと、他者が抱いている自分への印象を見聞きしたり推測した情報、この両者はお互い絡み合っているとはいえ区別できる。そして後者ばかりでなくまずはしっかり前者に目を向け続けることが重要なのだと思う。

 

 サッカーというチームスポーツにおいて、他者評価というものは必然的に気にかけざるを得ない。コーチ陣から評価されメンバーに入らない限りそもそもスタートラインにすら立つことができないし、チームメイトからの信頼を得てうまく連携を取らないとなかなか良いプレーはできない。この他者からの評価に注目するということは、それ自体として悪いことではなく、むしろモチベーションにも繋がるし、自分自身からの評価をする上でも客観的な参照点となる。でもやはり、自分自身で評価するという作業をし続けそれを軸に据えない限り、非常に空虚な自己分析になってしまう。一度高い評価を得でもすれば、なんとかそれにしがみつこうとして、目が成長ではなく現状維持へとシフトする。無駄なプライドが生まれる。そこにあるのは自信ではなく、慢心だ。僕は実際そうなっていた。自分自身で自分自身に向き合うこと、特に苦手な部分についてはそれを怠り、なんとなく自信が持てないまま、そしてその不足感を他者からの評価で補おうとする。むしろ自信がないからこそ他者からの評価ばかりに依存して、なんとか自分への評価を守ろうとしていた。だからこそ、先に述べたような自己弁明的な反論であったりが先走ったのだろう。だからこそ、他者評価が低下すること、また「Bチーム降格」という事実は当時の自分にとって致命的だったのだ。これはサッカーにおいてだけの話ではない。多分サッカー以外においても自分はあまり自信がなく、それを他者に認めてもらうことで補おうとすることが多いように、今振り返って考えると感じる。自信がないからこそ、その補完のために承認欲求を必要以上に抱きながら生きてきたように感じるのだ。

 

 自分自身に向き合い続けて評価し続けるというのは相当忍耐が必要でしんどい作業なのかもしれない。でもやっぱりまずはそうやって自分自身に納得する、この作業があってこそ他者からの評価が活きたりモチベーションにつながるのだろう。この意味で、僕はまだ評価される次元、他者評価を考慮すべき段階には全く到達していなかったように思う。自分に納得できるまで自分と向き合って模索し続けることを怠っていた自分に、ポジション争いで勝てるわけがない。ポジション争いで僕が敗れた彼は自分への自信に溢れているように感じる。それは今まで争ってきた先輩たちも同様だった。そんな人たちを前に、そりゃこんな自分じゃあ怖気付くのも自然かもしれない。また、うまくいかない時、涙するほど感情的になる日もあった。ただその涙に対して自分自身として、どこか胡散臭さのようなものを感じている節もあった。これも、自分にこだわって納得することなく、自信を持って自分を評価の場へと曝け出すことなく他者評価を気にしていたから、どこか自分ごとじゃないような感覚が付き纏い、「悔しさ」では単に「哀れな現状への悲嘆」が故の涙だったからなんだと思う。

 

 

 ラストシーズン。しかも大学サッカー、ア式生活だけでなく、自分の長いサッカー人生にとってもおそらく終止符を打つ事になる重要な年。もうあと半年しかない。シーズン前に立てた目標到達のために公式戦に出る資格すら与えられていない。こんなところで終わるわけにはいかない。腐ってるわけにはいかない。でもそのために必要な他者評価は二の次だ。まずは自分と向き合うこと。自分で自分に納得がいくまで自分自身と向き合い続けて、常に満足するまで全力でサッカーと向き合い続けて、自信を持って自分を送り出して、それから自分がどの立ち位置にいるか見てみようじゃないか。それで評価されなくても仕方ない、やれることはやったんだから。でも、公式戦で点を取りたい、お世話になった人たちに公式戦で活躍している姿を見せたい、この想いは変わらないし、何があろうとも最後の最後までその目標に向けて自分と向き合い続ける、「頑張り」続けるつもりだ。少し上手く行ったり評価されたからといってそれに安心して自分を見つめ続けることをやめたりはしない、それじゃあ去年の二の舞だ。それは自信でなく慢心だ。一度はさらばしようと考えた自分のアイデンティティとしっかりと向き合い、しかも自分自身の目で向き合いながら自信を得て、かつそのアイデンティティを固定化することなく更新し続ける。サッカーにおいてはもちろん、その他人生においてもこんな生き方をしていこうと思っている。そして今、このような考え方をできるようになり、毎日の練習や試合にポジティブに挑めるようになっている気がしている。成長も、成長意欲も感じる。現状の立ち位置は関係ない、Bチームにいる事実自体は恥ずべきことではない。弱い自分は恥ずべきことではない、弱い自分を見ようとしない自分こそを恥ずべきなのだ。自分を見つめ続けてこだわって自信を持って。

 

 

 

 なんか一個上の卒部feelingsを読んだ直後に書いたってこともあって、内容も量も卒部feelingsっぽくなってしまった気がするから、書く内容が残っているか心配だ。いや、ここからさらにストーリーを紡ぎ出せるような残り半年にするしかない。しよう。

 

 かなり長くなりましたが、ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

 

 

4年 水本龍志

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