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「サッカー」を学ぶ

古城宙輝(1年/FW/東京学芸大学附属高校)  こんにちは 古城宙輝です。初めてのfeelingsなので、これまでのサッカー人生、 これから の目標について書こうと思います。 僕は3歳くらいのとき、サッカースクールでサッカーを始め、そのスクールでサッカーを続 けながら、小4ぐらいの時に地元のサッカーチームに入った。そのサッカーチームは、別に 特段強いわけではない地元のチームだったが、当時の僕は、試合中にコーチの言うことを全 く聞かなかったため(多分)、小6になってもAチームの試合に出ることはできなかった。そ んなわけで、小学校の時はあんまり大会などの公式戦での思い出とかはなく、それよりも父 親とのサッカー練習の方が記憶に残っている。大体小3くらいの時からか、朝6時から7時 の間に近所の公園で毎日父親と練習をしていた。今となっては、ドリブルやトラップなどの テクニックが身についたのでよかったと思えているが、その当時は父親に怒られるのが怖く て、結構嫌だった。 中学校では、地元の公立中学校の部活に入った。中学校に入ると、顧問の先生に評価され、 中一の時に夏の大会のメンバーにいれてもらえて、市トレにも入れた。中二の時の大会では 結構勝ち上がれたりと、いろいろうまくいったので楽しくサッカーができた。チームメイト とは、ほぼ毎試合のように喧嘩をしていたものの、それでもやっぱり楽しかった。ただ、中 学最後の大会はコロナのせいでなくなってしまい、残念だった。 高校に入っても、高1の時は、コロナのせいで夏休みの選手権予選の前まで練習ができなか った。8月に入ると、選手権に向けての練習が再開されて、結構頑張ってアピールした。高 校のデビュー戦は選手権予選2回戦だった。この試合では、4-2-3-1のワントップで後半か ら出場したが、点を決めることもできず、チームは負けてしまった。それから少し後に行わ れたリーグ戦では、スタメンで出て、チームは負けてしまったものの、何とか点を決めるこ とができて、嬉しかった。その試合の後、またコロナの緊急事態宣言によりなかなか部活を することができなかった。一年目は、コロナの緊急事態宣言明けもリーグ戦、新人戦、イン ターハイと、何度か試合があったものの、あまり点をとることは出来ず、試合にもほとんど 勝てずに先輩たちは引退してしまった。そして、新チームが始

スタート

安藤颯馬(一年/DF/東海高校) 僕は文章を書くのが得意じゃないので文章の構成とかを全く考えず文章を書いている 時に思いついたことを順に書いていこうと思う。まずア式に入った理由について。僕が ちゃんとチームでサッカーをやり始めたのは中学からで、それまでは公園で友達とボールを蹴るくらいだった。中学のサッカー部は6年連続で県大会に出ていてそこそこ強かった。一年生の時は試合に出ることはできずに夏の大会は観客席から応援していたが、応援する側とプレイヤーの一体感がすごくお祭りのような感じだった。なんとしてもプレイヤーとしてこの大会にでたいと感じた。2年生になりプレイヤーとして運良く夏の大会にでることができた。僕の中学サッカー部の応援はとても熱く市内では有名なほどだ。その応援をピッチ内で受けた時の胸の 高鳴り、勝った時の心の衝動はいまでも覚えている。負けた時ものすごく悔しかったし、来年も自分たちの代でこの舞台に必ず立ちたいと思った。しかしコロナで大会は無くなってしまった。高校サッカー部は、中高一貫校のあるあるなのかもしれないが、一応真面目にはサッカーをやるけど勝ちこだわる感じではなかった。それはそれで楽しかったけどやっぱりもう一度中学の時味わった心の衝動を感じたかった。これをできるのはア式しかないと思い特に迷うことなくア式入った。ア式蹴球部に入ってかれこれ三ヶ月経つのでア式に入ってからのことについて書こうと思う。ア式の練習に参加して思ったのはレベルが想像以上に高いということだ。入って二ヶ月は周りの目を気にしていたと思う。自分と比べて他の人がどうだとか、ミスした時の周りの人の強めの口調に気を取られ萎縮してプレーに集中できてなかった。最近はア式にだんだん慣れてきたからかそんなことどうでもいいや、と感じるようになりプレーに集中できている気がする。今ア式に入ってからのことをふりかえってふと思ったことだが、最近僕は確かに以前よりは自分のプレーに責任をもってプレーできるようになったけどそれと同時に味方のミスのカバーが前より少し遅くなっている気がする。 心のどこかでそのミスは自分のミスではないから責任はとらないぞ、とでも思っているのた

運命

上口結叶(1年/スタッフ/富山中部高校) 初めまして マネージャーとして入部した法政大学1年の上口結叶です 私は小学2年生の時テレビで見た地元富山県代表の富山第一が選手権で優勝したことをきっかけに高校サッカーに心奪われ高校生になったら強豪校でサッカー部のマネージャーになり選手権の全国大会に行くことが私にとっての小さな夢であり楽しみだった。 小さい頃から深い人間関係を築くことが苦手で表面的な付き合いが多かった私にとって一つの目標に向かって協力し、喜びや悲しみさまざまな感情を自分1人で抱え込むのではなく共有し合う選手たちの姿、苦しい時間を共にしたからこそ生まれる信頼関係はとても羨ましいものであり魅力的なものだったのだろう。 サッカーの魅力に気づいた小2の冬からあっという間に時間は経ち中3の進路を決める時期になっていた。中学生の3年間を振り返ってみるとずっと勉強に苦しめられていた気がする。可愛がってくださった塾の先生たちや学校の先生など周りの人にショックを受けて欲しくなくて、嫌われたくなくて必死だった。一つ一つのテストの結果や成績表にたくさん感情を振り回されていた。塾の先生、学校の先生、親など身近な人々は当然県内で偏差値の高い高校に行くものだと思っていたし、私自身も行かなきゃいけないものだと思っていた。けどいざ進路を本格的に決定させなければいけない時期がやってくるとやはり小さい頃からの小さな夢だった強豪校のサッカー部のマネージャーになって全国大会に行きたいという思いが頭をよぎってしまう。また理解力もなく地頭も悪い私が各中学校の上位の子達が集まる学校に行くと落ちこぼれになるのではないかという不安があった。勉強をとるか自分の初めてできた小さな夢をとるか。言うだけ言ってみようと思い親や先生方にもお話をしたけどもちろん誰も賛成はしてくれなかった。でもそれは心のどこかでは分かっていたことだったし勉強の道をとることにした。 高校に入ってからは富一じゃないなら…みんなが勉強勉強の環境だからサッカーに対する熱意はないだろうから…とか自分の入った高校ではサッカー部のマネージャーをする事に少し迷いもあったけど、やっぱり希望を捨てきれず入ってしまった。入ってからはオフなんてなくてほぼ毎日部活のような生活だった。そんな中でも周囲はみんな勉強を頑張っている。一方私は勉強に身が入らなかった。そんなこ

楽な道からの脱却

今村真緒(1年/スタッフ/恵泉女学園高校 )   初めまして。ア式蹴球部マネージャー1年生の今村真緒です。   この言葉を言ったり見たりするたびに私は部活に入ってしまったのだと実感する。入ってしまったという言い方をおかしく思う人もいるかもしれないが、何においても楽な道を選び、望んできた私にとって大学生で部活に入っていることは間違った道を選んだことに値するのだ。   とはいっても、もともと楽な道を選ぶ子供だった訳では無い。どちらかというと楽しいことには全力で取り組む子供だった。そんな子供が楽な道を選び始めたのはコロナの時期だったと思う。  中学生になった私はバドミントン部に所属した。小学校にはなかった憧れの部活、今までになかった先輩後輩関係、そんな新しい環境にいることが嬉しくて1年生の頃は部活に一生懸命取り組んでいた。また、なによりもバドミントンが上手くなりたかった。だからこそ大変だったとしても自分なりに頑張ろうと意気込んでいた。   しかし、中学2年生になると私の想像していた部活動との違いが露わになり始めた。先輩との関わり方、同輩との価値観の違い、体の不調。私に沢山の問題が一気に襲いかかり、どんどんと部活に行くことが憂鬱になっていった。そのタイミングでコロナがやってきた。   リモート授業を終え、その日の授業の復習をし、自分がやりたい事をやる。そんな部活動のない日々は私を辛いという気持ちから解放してくれた。それと同時に部活をしないという「楽な道」を選択すると幸せになれると考えるようになった。そこから私はダメ人間になっていった。   学校が始まり、中学校卒業のタイミングで退部し、高校時代は帰宅部を満喫していた。その楽な生活はとても楽しく、後悔のない3年間だった。その一方で、どこかぽっかりと心に穴が空いているようだった。大会に向けて頑張っている姿、後輩への指導で悩んでいる姿、部活を引退する姿、卒業アルバムのために部員達で集まって写真撮影をしている姿、後輩から動画を作ってもらって泣いている姿、そんな同級生の先輩としての姿を見て私は何か大切なものを逃した気がしていた。それでも私は「楽な道」を選択し続けた3年間を否定したくなくてこの気持ちに気づかないフリをしたまま卒業した。   大学生になり、周りのお友達はサークル体験、いわゆる新歓に行き始めた。彼女たちは毎日サークルで予定が

いつか、私も。

奈良友花(1年/スタッフ/女子学院) 5/14( 火 )  大変すぎない??????   初めて部活に行った日、帰ってきて 1 番に日記を書いた。   なんでもそつなくこなせるタイプを自負していた。勉強も、 運動も、友達関係も、特別困った記憶はない。 ( 何でもかんでもす ぐ忘れる性格のせいかもしれないが。 ) だが、東大に入って、 そんな自信は粉々に砕け散っていた。 授業は何言っているかわからないし、 クラスメイトはなんだか私とはレベチで運動神経が良かった。 理科一類、 そもそも女子の少ない東大でさらにダントツに女子の少ない場所で 、友達を作るのも一苦労だった。そんな状況で週 5.6 も部活に時 間を使えるわけないよ!!!と思い、 高校の時から憧れていた部活のマネージャーもあきらめた。 そんな踏んだり蹴ったりな日々で、 少し不貞腐れかけていた時だった。「ア式シフト制らしいよ」 とクラスメイトが教えてくれた。神様に、 ここに入れと言われた気分だった。二つ返事でやりたいと言って、 マネの先輩と LINE を繋げてもらった。 そしてはじめての見学の日、練習を見学したその足で部室に行き、 入部届を書いて入部した。 今振り返るともう少し考えても良いんじゃない?と思う。 私の人生は、いつもこんな感じだ。   正直基本女子で構成されるマネージャーの仕事がそんなに大変なわ けないとも思っていた。仕事内容の説明を受けたとき、 半分くらい聞き流していたことをこの 2 ヶ月何回後悔したことか。 というか、 聞いていたけど大変さを想像できなかっただけだろうか、 もうあまり覚えていないけれど。そんなわけで初日は、 ほとんど何もできなかった。 何をすれば良いかを整理するのに私にとって十分な時間はなかった し、唯一できたボトルとやかんの重さに、心を砕かれた。   向いてないかもしれない。   日記にはそんな言葉が続く。 ポジティブが売りだった私の日記にしては珍しいネガティブ様だ。  でも実際、この言葉はすごく的を射ているのかもしれない。 昔から、ちょっと鈍臭いところがあった。塾で 1 番最後まで荷物を 片付けているタイプだったし、 その上で忘れ物をしているタイプだった。友達を待たせている時、 みんなは話しながら片付けできるかもしれないけど私は無理なの! !!と心の中で叫んでいた。マルチタスクが

選択と責任

中村綾(1年/FW/姫路西高校 )   七月某日、とうとうfeelingsの執筆依頼が来た。 正直入部してからfeelingsというものにあまり興味を抱い ていなかったし、詳しく知らなかった。 過去のfeelingsを参考にして、 ということなので見てみることにした。 初めてみる皆のfeelings。 「みんな文章うますぎないか」  真っ先に思った。 feelings執筆のハードルが爆上げされた。題材も皆、 面白い。何人かのfeelingsを読み終わり、 いざfeelings執筆に取り掛かろうとした。が、 何を書くかが思いつかない。 上がりすぎだハードルを越えようとあれこれ考えたが結局思いつか ず、気づいた時には締め切り最終日。まあ最初だから、 無難にこれまでのサッカー人生とア式での生活を振り返ろうと思う 。何度も書けば次第と面白くなることを祈って。  きっかけは兄が地元のサッカークラブに入団したことだった。 兄を追って自分もサッカーを始めた。小学一年生のとき、 お風呂場で父親にサッカーを始めたいと言ったことを今でも覚えて いる。人生でサッカーの分岐点は2つあったと思う。 一つ目は中学入学時。小学生の時の友人たちはほぼ全員、 クラブチームに入団した。自分も入りたかった。 しかし両親は練習時間などを理由に許してはくれなかった。結局、 中学校のサッカー部に入ることにした。 結果的に部活動は楽しかった。仲の良い同期ができ、 顧問にも恵まれた。が、その選択が正解だったのかはわからない。 クラブチームに入っていたらどうなっていたのだろうか。 少し考えることもあった。結果オーライだからいいが…。 二つ目はア式蹴球部に入る決断をしたことだ。 入学以前から部活動であれ、サークルであれ、 何かしらの形で大学でもサッカーを続けようとは考えていた。 しかし、高校までのサッカーで、 一つ一つの試合結果で一喜一憂をするのにうんざりしていた。 また、高3の5月に部活動を終え、浪人をし、 丸2年サッカーどころかまともな運動をしていなかったので、 サッカーサークルに入ることを概ね決めていた。 サーオリではもちろんまずはサッカーだ。 サークルとア式の両方の説明を聞き、体験をしに行った。 まずサークルへ。 サークルではみんな和気藹々とサッカーをしていて普通に楽しかっ た。無難にありだなあと思った。次に

はじめての1歩

遠藤雅仁(1年/MF/栄光学園高校)   1年プレーヤー/ポジションLWG 遠藤雅仁です。 双青戦が終わった。自分が思っていた以上に楽しかった。双青戦ユニットの方々、侮っていた自分をお許しください。大好きです。 何を書けば良いのかわからなかったので、とりあえず他の人が書いたfeelingsを見てみた。誰のとは言わないが文才がエグすぎて僕もこんなのを書かなければいけないのかと思い、絶句した。まあ、僕には書けるはずもないし、日記のような語り口調でア式に入った経緯から今までのことを書くとしよう。 東京大学に合格したことが分かったとき、僕は東大ア式蹴球部に入ることを決意していた。高校の時はもう大学以降サッカーをするのをやめようと考えていたが、受験勉強をしている時、高校のサッカー部を引退してからボールを全く蹴っていなかったので無性にやりたくなり、そう決意した。他の選択肢はない、そう考えていた。 そんな中、ア式の新歓の最も大きなイベントの一つであるミニゲーム大会に行った。当初は、自分が入るア式の同級生のレベルがどれくらいなのか知るために行ったが、そのレベルが高すぎた。まじで高かった。高校サッカーなんて比にならない。 その時、僕は思った。俺、このレベル感についていけるの?? そこから、本気で悩んだ。ア式に入るのかどうか。僕の高校のサッカー部の友達で、東大に受かった子はほとんどがラクロス部に入ったので、僕も一緒にラクロス部に入ろうかと考えたし、アメフト部など他のカレッジスポーツにも魅力を感じ、迷いに迷った。それに何より、部活の苦しさを恐れていた。高校時代、僕は部活での他選手との競争に疲弊し、軽い鬱状態となっていたこともあって、部活は苦しいという印象を再び思い出してしまったのだ。また、部活に入れば、大学生は部活など熱血系なことをするのではなく、とにかく遊びまくって生活がとにかく楽しいという自分が持っていた固定概念から大きく離れてしまうのではないかと危惧してもいた。 それでも、ミニゲーム大会の後に何回か練習にも参加して、自分はサッカーが好きであることを再確認し、やっぱりア式に入らず、他の部活に入ったら自分は後悔するんだろうなと思い、結局消去法的な考え方でア式に入部した。 入部したのはいいものの、いまだ僕は悩んでいた。入部したのち、すぐに新入生練習が始まったが、やはりみんなうまい。基礎技

青春中毒

田島誠志郎(1年/MF/海城高校)   高校3年の初夏、僕は青春に魅せられてしまったのかもしれない。シーブリーズのcmにできるほど爽やかではなかったし、ポカリスウェットのcmにできるほど甘くはなかった僕たちの日々。されど、その日々は紛れもなく青春そのものだったのだ。 思い返せば僕が心の底からサッカーを楽しめていた期間はほとんどなかった。 僕がサッカーを始めたのは幼稚園の年長のときだ。友達に誘われて訳も分からずボールを蹴っているのが楽しかった。この時は自分が世界一のサッカー選手になるのだと信じてやまなかった。だが、小学校に上がり、地元では強いと評判のチームに入ると、その日々は一変した。ほぼ毎日厳しい練習をして、週末は毎週遠征に行くようなチームだった。ブラジルでプロ経験のあるコーチはとても怖く、コーチに怒られないようにとばかり考えてサッカーをするのは小学生の僕には少々苦しかった。ボールを楽しく蹴っているだけでは意味がない。試合に出て、勝たなければいけないと思い始めたのはその頃だったろう。 だけど、その時には自分にサッカーのセンスがないことに僕は薄々気づいていた。どこから敵が来るのか分からない。咄嗟に敵をかわすことができない。それなのに上手い奴は僕ができないプレーを軽々とやってのけた。チームを勝たせることができないどころか試合に出ることすらできなかった。 ベンチにいながら努力を続けられるほど我慢強い人間ではなかった小学生の僕がどうにかして試合に出られないかと考えた結果見つけたのがゴールキーパーと言うポジションだった。運動神経だけは良かったし、身長も今ほど低くはなかった。何といっても足元が下手くそでも出場できるのがゴールキーパーだったのだ。そんなこんなで小学生の頃はゴールキーパーとして試合に出場することはできていたが、足元の技術の上達から逃げて選んだポジションでサッカーが上手くなるわけがなかった。 中学に上がってゴールキーパーはやめた。ゴールキーパーは嫌いじゃなかったけど身長が足りなかったし、ゴールも決めてみたかった。それに、何といってもゴールを最後に守るという重大な責任を負うのに疲れてしまっていた。中学校のサッカー部に入部して最初に監督にポジションを聞かれるのだが、そのときにはミッドフィルダーと答えた。別に本当にミッドフィルダーをしたかったわけではないし、ミッドフィルダー

情熱の続き

堀内健伸(1年/MF/麻布高校) 私がfeelingsを書く番が回ってきた。早すぎる…まだ入部して3ヶ月しか経っていない。そんな私がア式について語ることはできない。そのためありきたりではあるが、私がア式に入部した経緯を書き連ねていこうと思う。  私は5歳の時にサッカーと出会った。最初は始めたきっかけである兄と同じチームでプレーしていたが、8歳にして一丁前に隣町のチームに移籍した。移籍先のチームはその地区では強いチームだった。最初はその中で切磋琢磨するのを楽しんでいたが、ベンチの時間が増えると試合に出場できるかばかり気にするようになり、サッカーを純粋に楽しめなくなった。高学年になると、チームメイトがトレセンに選ばれるようになり、近くで見ていた私はこのままでは何もないと危機感を持った。そんな中、自分と似た境遇の仲間が中学受験をすると聞きサッカー以外の生き方を知った。こうして私は小5の冬にチームを辞め、勉強に逃げた。その後は麻布学園から合格をもらい進学した。  中学時代はMFとして試合に出場し、チームも地区では負けない程度には強かったので楽しかった。ただ、この時の楽しさはサッカーに向き合った故の楽しさではなく、友人と集まって行うフットサルのような遊びの楽しさであったと思う。この時既に私の中で最も優先順位が高いのは勉強であった。実際中3 の頃に鉄緑会に入った。そんな中、その年の冬にコロナウイルスが流行りサッカーどころではなくなった。最初の3ヶ月は学校に行くことすらできなかった。学校が再開した後もマスクの着用が義務付けられ、接触プレーが禁止された。そのため、練習メニューは走り、筋トレ、シュート練に限定された。正直言ってつまらなかった。なんのためにサッカー部に残っているのか分からなくなっていた。それでも惰性で部活に残った。高1の冬くらいから試合ができるようになったが、クラブチーム出身の選手にポジションを取られて試合に出られない期間が続いた。ここでも私は勉強に逃げた。そんなこんなで気づいたら高2の秋の新人戦を迎えていた。サッカーに身が入ってなかった私は対戦相手すら曖昧なレベルだった。結果は1−3の敗戦。あっけなかった。麻布サッカー部ではこの秋の新人戦が一つの区切りとされており、半数以上がサッカー部を辞める。チームメイト同様私もサッカー部を辞めるか決断しなければいけなかった。惰性で