余裕

永原圭太(1年/DF/國學院久我山高校)



部活帰り。いつもより混雑している南北線に乗って帰路についた。駅に着くとドア付近に乗っていた僕は背中に人の降りる気配を感じ、一度ホームに降りたら乗り直せなかった苦い記憶を思い出しながら周りの人と一緒に一度ホームに降りた。僕はホームに並んでいる人の前に並び我先にと再び乗車した。乗車後に、同じように一度ホームに降りたイケおじ(短髪の白髪できっちりとしたスーツを着ており、イケおじなどという陳腐な表現を使うことが申し訳ないくらいのおじ様)が列の一番後ろに並び直して悠々と乗り直している姿を見た。負けた、と思った。余裕を感じた。正しいとか効率的とかではない。余裕を感じた。

思えば自分の人生に余裕を感じたことはない。夏休みの課題やレポートを余裕を持って終わらせれたことはないし、このfeelingsの締切も2回破って焦りながら書いている。
ただ僕の人生から余裕を失わせていた1番の要因はサッカーであったと思う。

サッカーは幼稚園の頃に兄の影響で始めた。運動神経がよく、地頭も良かったためサッカーは上手かった。周りよりもちょっと上手かったから好きになった(スラムダンクを先に読んでいたらバスケをやっていただろう)。小学校低学年の頃の記憶はほとんどサッカーしかない。小学校の少年団チームに所属し、学校の休み時間はもちろん、終わってからも公園で夜暗くなるまで兄や友達、兄の友達たちとサッカーをしていた。少年団チームの中でもトップクラスに上手く、自分は天才なのだと本気で思っていた。僕のサッカー人生に転機が訪れたのは小学5年の頃だった。仲が良く、同じくらいサッカーの上手かった友達から誘われて、三菱養和という東京の街クラブでは一、ニを争うほどのチームのセレクションを受け、合格したのだ(ちなみにその友達も合格し、あまり強くなかった少年団チームから二人も受かったのは快挙だった)。セレクションに合格したのはとても嬉しかったが、驚きはなかった。それほどまでに自分に自信があったし、天才だと思っていた。「しかし、強豪クラブへの入団を機に自分よりも才能のある人に出会い、挫折、絶望する」というお決まりのパターンに僕は少しだけ抗った。養和でも小学生年代のうちはそこそこやれたのである。もちろんスタメンで出ていたし、5年生の時には6年生の試合に呼ばれたりもしていた。天狗の鼻はなんとかして折られずに済んでいた。

しかし、この頃から少しずつ変化は生じていた。毎日のようにシャワーやロッカーの完備された人工芝グラウンドで練習するうちに、ただ楽しいから、好きだからやっていたサッカーが努力の対象となり、義務感すら生まれていた。それまでは暇さえあれば公園でサッカーの練習を(当時は練習とさえ思わずに)していたが、養和に入ってからはほとんどやらなくなった。さらに、周囲からの期待や羨望の眼差しに晒されることで自分の価値や生きる道はサッカーなのだと考えるようになり、プロになることも真剣に考え始めた。自分の価値を証明するためにはサッカーは上手くなければいけない、そのためにはもっとサッカーを好きになりもっと努力をしなければならない、そんな焦りを感じるようになった。その焦りは確実に生活から余裕を失わせた。成長期が来るのが遅く、フィジカル的なハンデを負い始めるようになったことも相まって周りとのレベル差もみるみる縮まり、さらに焦りは募った。

自分にとってサッカーに対する気持ちが明確に変わったのはやはり中学生年代だったと思う。なんとか養和のジュニアユースには上がれたものの周囲とのレベル差は明白であった。周りには自分よりも上手く、強く、速いチームメイトがウヨウヨいて自分のサッカーに対する自信は粉々に砕け散り、伸びきっていた天狗の鼻は折られるどころか穴ができるほどまで削り取られた。周囲からの怒号を恐れて消極的なプレーを繰り返してはミスをするという悪循環に陥り、毎日の練習が苦しかったし、楽しそうにプレーをする仲間が羨ましかった。何よりもそのような状況で周りとの差を埋めようと周囲以上に努力をしない自分にますます嫌気がさした。とはいえ、「サッカーが下手である自分」を認めることは出来ず、周りにはサッカーが好きで練習にも熱心に取り組んでいるように振る舞っていたし、自分にもそう言い聞かせることでプライドを保とうとしていた。そうして上手くなっている実感も、サッカーに対する熱意も失ったまま高校の進路選択を迫られる時期となった。

養和にはユースチームもあるが試合に全く出れていなかった僕が上がれるわけもなく中三の夏頃から高校の進路選択を考え始めた。ユースに上がれなかった人であってもJユースや強豪校に行くという話を聞いていた当時のプライドだけは高かった僕はサッカーを辞めるという選択は取れなかった。そうして周りに流されるように強豪校への進学を考え、國學院久我山高校への進学を決めた。理由としてはスポーツ推薦でなくてもサッカー部に入ることができ、中学の成績は良かったため勉強によっての進学はほぼ確実にできることがわかっていたからである。コーチからはセレクションがあるから受けてみれば?と言われていたが自分は勉強で行くからと受けにすら行かなかった。プライドだけは高かった僕でも流石にセレクションに受からないことは分かりきっていて、今思えばこの時から勉強を逃げ道にしていたのだろう。

そうして國學院久我山への進学が決まった。

久我山には名だたるJ下部や強豪クラブから選手が集まっており、高校でもトップチームの試合には全く絡むことができなかった。

この頃から頻出度Aである一問一答の「将来の夢は?」という問いの答えを失った。本当にプロになるような選手をみて、それまで必死に耳を塞いでいた「プロになんかなれるわけない」という言葉に耳を傾けるようになった。現実を見るようになった。サッカーを続ける理由は無くなった。ただ、やめられなかった。

選手権のメンバーにも入れず、あれよあれよと言う間に引退が決まった。3年の11月に引退してからの半年間は心が軽かった。受験勉強というサッカーから離れられる大義名分を得たし、自分が出られないと決まっていた選手権の応援は初めて楽しいと感じた。
高校サッカーには苦い思い出が多いものの、久我山での学校生活は楽しかった。面白い友達にたくさん出会えたし、人生でも最も濃い3年間であったと思う。勉強というサッカーに代わる新たなアイデンティティーも見つけられた。

元々得意で結果も伴っていた受験勉強もそれほど苦ではなかった。模試ではB判定以上しか取ったことがなかったし、特にこれといった苦労もしなかった。とはいえ本番の日はやらかして本気で不合格を覚悟した。東大に入れなかったら早稲田に行く予定だった。高校の友達もたくさんいるし別に早稲田でもいいと思っていた。でもふと早稲田に行ったらサッカー人生はもう終わりかぁとどこか残念に感じていた。東大には受かっていた(これを読んでいる文系の受験生へ、数学は8点でも受かるよ)。嬉しかった。まだ本気でサッカーを続けられるということが嬉しかった。そう思っている自分に驚いたし、それが何よりも嬉しかった。

ア式に入って早くも半年ほどが経過した。正直入った当初は舐めていた。ただ、練習参加や試合見学で想像以上のレベルの高さに驚いた。選手、スタッフを含めた部員全員のサッカーに対する熱量の高さに驚いた。試合はもちろん練習まで映像が残っていて、振り返れる環境が揃っているし、フィードバックをしてくれるスタッフもいる。そんな状況で今はサッカーを始めた頃のように純粋にサッカーを楽しめているし上手くなっている実感もある。

高校時代、いくら成績が良くても勉強は僕にとって「逃げ」の選択肢であり、サッカーが下手であるということに引け目を感じていた。高校でサッカーを辞めていれば、サッカーは一生心残りとしてあり続けただろう。ただ、幸運にもア式に入りリベンジの機会と恵まれた仲間、環境を手に入れた。中高時代のチームメイトの多くは関東リーグにいる。つまり、関東昇格しなければリベンジは果たせない。昨シーズン、都リーグに何試合か出させてもらった。当然、レベル差は感じたが、どうにもならない差とは思わなかったし、ア式で活動していれば必ず追いつき、追い越せると感じた。

僕自身のリベンジのためにも、ア式のサッカー、活動をサッカー界に広めるためにも関東昇格という目標を必ず達成したい。

後日、再び満員電車に乗った。チャンスだと思いドア付近に乗った。駅に着いた。ホームに降り、一番後ろに並んだ。誰も降りてこなかった。
余裕。

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