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私の目標

丸山凱智(1年/GK/武蔵高校)   こんにちは。 東京大学ア式蹴球部1年GK、文科三類所属の丸山です。 まず初めに、日頃から弊部を応援してくださっているサポーターの方々、様々な面で弊部を後押しして下さるスポンサーの皆様に多大なる感謝を申し上げます。 (高校の時からこれやってみたかったんですよね。明治のブログとかでこういう文章を見てからずっとやりたいなって思ってました。)  さて、今回のfeelingsですが、実はこの文章が6本目となります。 1-5本目の文では私の思っていることを赤裸々に書き出して、読んでくれるみなさんに自分を知ってもらおうと思っていましたが、締切(最初の締切はとっくに過ぎています)直前にやっぱりそれは2回目以降にとっておいた方がいいんじゃないかとの考えがよぎり、仕切り直して入部までの経緯を淡々と書くことにしました。 後から見返すと面白みのない文章になってしまったような気もしますが、最後まで読んでいただけると幸いです。  私がサッカーを始めたのは4歳の頃で、友達に誘われたのがきっかけでした。 誘われて入ったチームは市内で1.2を争う強さだったようで、学年が上がってチームメイトが増えるにつれて私の出場機会は減っていきました。  フィールドの能力に見切りをつけられた私は、小2の時に初めて背が高い、走れないというありきたりな理由からキーパーで試合に出ることが多くなりました。 そのキーパーでもAチームのスタメンとして出ることは少なく、Bチームやベンチが主戦場となっていました。 最後まで私がスタメンに定着することはありませんでしたが、後にプロになるようなチームメイト達に揉まれ、またチームの雑草魂的な雰囲気にも助けられて、サッカーをする上で大事な負けん気、勝負強さを身につけることができました。  中学では小学校の時に強いチームに入っていたのが幸いして、早くから自分たちの代の主力として試合に出ることができました。 1学年上の先輩からスタメンを奪うまでは至らなかったものの、小学校時代よりも出場機会が増え、またチームを率いる立場になったこともあり、全体を見る力が身についたように感じます。  うちの学校は中学と高校でチームの雰囲気がガラリと変わり、高校のチームは進学校にしては珍しくハードな練習をこなす真面目な性格を持っていました。 さすがにハードな練習を積み重ねている

余裕

永原圭太(1年/DF/國學院久我山高校) 部活帰り。いつもより混雑している南北線に乗って帰路についた。駅に着くとドア付近に乗っていた僕は背中に人の降りる気配を感じ、一度ホームに降りたら乗り直せなかった苦い記憶を思い出しながら周りの人と一緒に一度ホームに降りた。僕はホームに並んでいる人の前に並び我先にと再び乗車した。乗車後に、同じように一度ホームに降りたイケおじ(短髪の白髪できっちりとしたスーツを着ており、イケおじなどという陳腐な表現を使うことが申し訳ないくらいのおじ様)が列の一番後ろに並び直して悠々と乗り直している姿を見た。負けた、と思った。余裕を感じた。正しいとか効率的とかではない。余裕を感じた。 思えば自分の人生に余裕を感じたことはない。夏休みの課題やレポートを余裕を持って終わらせれたことはないし、このfeelingsの締切も2回破って焦りながら書いている。 ただ僕の人生から余裕を失わせていた1番の要因はサッカーであったと思う。 サッカーは幼稚園の頃に兄の影響で始めた。運動神経がよく、地頭も良かったためサッカーは上手かった。周りよりもちょっと上手かったから好きになった(スラムダンクを先に読んでいたらバスケをやっていただろう)。小学校低学年の頃の記憶はほとんどサッカーしかない。小学校の少年団チームに所属し、学校の休み時間はもちろん、終わってからも公園で夜暗くなるまで兄や友達、兄の友達たちとサッカーをしていた。少年団チームの中でもトップクラスに上手く、自分は天才なのだと本気で思っていた。僕のサッカー人生に転機が訪れたのは小学5年の頃だった。仲が良く、同じくらいサッカーの上手かった友達から誘われて、三菱養和という東京の街クラブでは一、ニを争うほどのチームのセレクションを受け、合格したのだ(ちなみにその友達も合格し、あまり強くなかった少年団チームから二人も受かったのは快挙だった)。セレクションに合格したのはとても嬉しかったが、驚きはなかった。それほどまでに自分に自信があったし、天才だと思っていた。「しかし、強豪クラブへの入団を機に自分よりも才能のある人に出会い、挫折、絶望する」というお決まりのパターンに僕は少しだけ抗った。養和でも小学生年代のうちはそこそこやれたのである。もちろんスタメンで出ていたし、5年生の時には6年生の試合に呼ばれたりもしていた。天狗の鼻はなんと

The Sun Also Rises

  清水怜雄那( 1 年 / テクニカル / 麻布高校) feelings を書き始めたのは、ア式に入って1ヶ月たたないくらい。入部式の前あたりだったと思う。その時はいつ提出するかも知らず、ただひたすら入部に至った経緯とか、高校時代のこととかを書いていた。 feelings の提出期限は結局 8 月中旬となった。ほとんどの同期はしっかり提出期限内で提出し、遅れた数人も僕以外は 9 月中旬には出し終わっていた。そんな中で、僕は 9 月 29 日に二十歳になり、チームは一橋戦に快勝し、 9 月がとっくに終わってしまったのに全然提出できそうな気配がない。同期の中でもかなり最初の方から書いていた気がするが、ずっとダラダラと書いていたせいでただ長いだけの一貫性のかけらもない文章になったので全て書き直すことにした。   タイトルはヘミングウェイの処女作から引用した。日本語タイトルでは、「日はまた昇る」と訳され、暗闇に再び光が降り注ぐような、希望を与えるような印象を覚える。しかし実際の内容はというと、快楽に溺れ、堕落した若者たちを描いたものであり、タイトルの意味は、空虚な日常が明日もまたやってくるというような意味である。   もし僕がア式に入っていなかったら、何か没頭できるものを見つけていなかったら、ヘミングウェイがその小説で描いた若者のように、不毛な 1 日 1 日をすごしていたかもしれない。大学に入って改めて実感したのは、自分を律して、興味のないことを実直に頑張れる人間ではないということだ。週に三日くらいはサークルなどに行って他の日でバイトや進振りの勉強をしようかな、などと考えていた自分が恐ろしい。空いた日があれば、友達と街に出て遊んでいただろう。   しかし、幸運なことに僕はこの部活に、サッカーに出会うことができた。   僕はア式に入るまで、中高でサッカーをやったことがない。それもあって大勢の部員と違い最初からア式に入るつもりではなかった。   僕とサッカーの関わりは、休み時間の校庭サッカーや授業でのサッカー、海外サッカーを見ることだけだった。戦術とか、フォーメーションとかには自然と興味が湧いていったので、 YouTube や Twitter でマッチレビューや戦術ブログ、分析記事などを見たりして次第に知識がある程度ついていった。リヴァプールが好きだったので、リヴァプールに

ありのままの自分

宮野隼輔(1年/DF/桐朋高校) 入部して何ヶ月か経った今、feelingsを書く 自分と向き合う、自分のこれまでの人生を振り返るいい機会として出来るだけ見栄や虚勢を排除して書く。 まずは今までのサッカー人生について。 サッカーを始めたきっかけは保育園の友達からだろうか、5歳くらいの時に親にやってみたらということで始めた。 まっすぐなドリブルすらもままならない、そんな0からのスタート。リフティングも1、2回がせいぜい。(今もリフティング上手くないが…)中でも1番のやりがい、嬉しい、楽しい瞬間はゴールを決めた時だった。DSのカセットを買ってもらう約束だったが、それ以上に決めるのが嬉しかった。 小学校低学年の頃、アニメの影響もあってかゴールキーパーにハマっていた。チームは味方の超上手い子が点決めまくってそれで勝つ。そんな割とあるある?な感じである。 小学校中学年では、その上手い子が6年生とかの試合に帯同し始めて、自分たちは一気に弱小チームになった。本当にずっと負け続けてた。それでもサッカーがずっと好きだったし、チームメイトとの時間も楽しかったからやめる選択肢は一ミリもなかった。 小学校高学年、受験と重なり始めて段々と参加することが減っていった。それでも、受験のネガティブな感情をサッカーはいつも和らげてくれた。 中学入学後は小学生の時やっていた楽器を続けるという選択肢もあったが、なんだかんだで1番サッカーが好きでやりたいということでサッカー部に入った。みんな自分よりもずっと上手くてびっくりした。ずっとミスばっか。ディフェンスラインの繋ぎで自分のとこでボール取られて失点。そんなことが何回も続いた。上手い奴のやり方を真似しようと頭では思っても、どうすれば良いか結局のところボール持った瞬間から分からなくなった。一年生では自分のクラスがサッカー部自分1人だったのもあったり、自分がめちゃくちゃ下手くそだったりで、馴染むのにはかなり時間がかかった。正直言って一年の頃は全く馴染めてなかったし、ずっと馬鹿にされながらプレスに怯えてプレーしてた。 二年生以降、同じクラスにサッカー部の人がいるようになったのもあって、また一緒に帰るのを受け入れてくれた仲間がいたのもあって、段々と馴染めるようになった。ただ、今一言で自分の当時のキャラを言うなら良くも悪くも滑稽な奴である。ベンチ外は当たり前、変な

Yapping

  三ツ國涼央(1年/FW/天王寺高校) Hi, I'm Leon Mitsukuni. There isn't much I wanna write about, but I'll start off with why I decided to join this football club. The reason is quite simple. I just wanted to enjoy playing football and get better at it, so this was the perfect place to do that. I had a look at Speranza as well but didn't really like it. I say "perfect," but it's not quite perfect. There are a few things that annoy me. Not having enough time to rest is one of them. Having only one day off a week is not enough for me. My legs get more fatigued every week, and this is not helping me at all. Maybe I need to massage or stretch my legs after training or something, but how tf am I supposed to know what to do? No one has ever told me what I should do to help my body recover quickly. I'm sure others have had the same problem, so something's gotta change. And I'd love to have the freedom to miss practice for a week or two and travell abroad or go snowb

本音

  大石浩哉(1年/テクニカル/浜松北高校) 「ああ 辞めたくないよな」 そんな声が聞こえてくる。サッカーから離れていた高校時代、それでも心は未練で一杯だった。このままサッカーを辞めて、サッカーから離れてしまうのが嫌だった。そんなとき、あの歌詞を、あのメロディーを思い出した。 生い立ちを述べると自分の文章力からして、冗長になってつまらなくなるのが目に見えているから簡潔に。 幼稚園のとき、園庭で週1回行われていたサッカースクールに親の勧めで入ったのがすべての始まり。そこから中三まで約10年ずっとサッカーと一緒だった。小学校の時も中学校の時も何度もやめようかと悩んだ。それでもサッカーを続けて、一旦高校で離れたのにまた戻ってきた。何がそこまで自分を惹きつけるのか、それはいまだにわかっていない。でもその答えの一端はやはりあの曲にあると思う。 サッカーに打ち込んだ中学時代。といってもおよそ二年の活動のうち合計一年を怪我で棒に振った。悔しかった。「ああ 辞めちまおうかな」何度もそう考えた。それでも部活の仲間とサッカーをするのが楽しくて、怪我をしている間も部活に顔を出して手伝いをしていた。部室の埃と土が混ざったような独特のにおいは鮮明に思い出せる。中学時代は生徒会でもお世話になった一つ上のキャプテンに憧れていた。めちゃくちゃイケメンでサッカーも上手かったから、「天は二物を与えず」は嘘だと思い知った。 初めての公式戦だった1年生大会で、10番をもらってやる気に満ち溢れていたのに、直前の練習試合で鎖骨を骨折した。この時の事は忘れられない。地元のある中学のグラウンド。右サイドでボールを受けた自分は縦に突破した。前にいるディフェンスに気を取られていたので背後から近づく怪しい影に気付かなかった。一瞬何が起きたのか理解できなかったが、後ろから人が覆いかぶさってきて押し倒されたことだけは分かった。転んだ自分に慈悲な味方DFは「たて!!」と叫ぶ、何とか立ち上がってあげたクロスは皮肉にも最高のボールでアシストになった。そんなことはどうでもいい、痛い。それしか感じなかった。 公立中のグラウンドあるある、ピッチの中にマウンド、のせいである。もうおわかりいただけただろうか、後ろから追いかけてきた相手DFは、マウンドの傾斜につまずいて転び、自分に覆いかぶさってきたのだ。二人分の体重を受け止めた可哀そうな鎖