サッカーを一度とても嫌いになる

川上大智(1年/フィジカルコーチ/近畿大学附属和歌山高校)

2年生ごろに書くことを想定していたが、上西園さんに指名されたので書いてみることにした。

 

まず前提として自分の文章力は中学二年生レベルで、まともに本も読まないので東大生からすると幼稚な文で面白くないと思うが、最後まで読み進めてくれると有難いです。

 

 

ア式に入部してからまだ二、三ヶ月しか経っていなく、サッカーやフィジコについて偉そうに書ける立場でないので自分のこれまでの人生についてダラダラ書こうと思う。

 

 

 

 

 

小学生     (プロになる夢しかなかった)

小学一年生で大阪に引っ越し、最初はサッカーチームを転々とした。そしてある一つの地元のチームに所属を決めた。(兄も同時に)一年から四年までは順風満帆のサッカーライフを送り、学校で将来の夢を聞かれると「サッカー選手」と即答するほど「プロサッカー選手」になれる自信しかなかった。

 

5年から6年  

試合で勝てないことが続いた。周りには自分より上手な選手がごまんといて敵わないと感じていたが、自分はプロになれると思っていた。いや、言い聞かせていたという表現が正しいかもしれない。ボロカスに負けた試合の日には、自分の無力さに何回も悔しくて泣いていた。(泣く前に練習に励めと思うが)実際、自分より上手い選手を越えようと努力はしてこなかった。もしタイムスリップできるなら、もっとサッカーについて考えろと助言がしたい。6年生でキャプテンも務め、勝たなければいけないプレッシャーを感じながらプレーした。

 

 

 

現時点でサッカーは嫌いではなかった。寧ろ大好きだった。

 

 

 

 

中学   (プロへの夢は何処へ)

クラブチームと部活で迷ったが兄の誘いと授業が終わるとすぐ練習ができることに惹かれ部活の入部を決めた。(クラブチームに入ることに少し恐怖心があった。この感情を抱いていたが親には言えなかったのは恥ずかしかったからだ。)入部直後、topチームに入れてもらい少し挫折したが、楽しく部活生活を送ることができた。プロになることは薄れてきていた。

 

 

サッカーはまだ好きだった。

 

 

周りが高校について考える時期に自分も将来について考え始めた。 

 

 

 

現在の自分が勉強もできなくてサッカーも中途半端。正直、勉強に切り変えて受験を臨む気にはなれなかった。ここでサッカーも全国に出場し、和歌山では進学校とされている学校に進学することに決めた。(偏差値については触れないでほしい)その結果、近畿大学附属和歌山高校への進学を決意した。今、振り返ってみれば結果オーライだが、この決断に高校3年間は何回悔やんだ事か‥‥

 

 

 

 

高校   (何回もサッカーについて考えた)

高校での話をするが、決して悪い学校ではなく自分自身充実した濃い生活を送れたと思っている。大事なことなのでもう一度書くが「人として成長できる学校」である。

 

 

授業終了のチャイムが鳴ってほしくない。部活が始まる。勉強がしたい。みんなと一緒に帰りたい。あぁ、教室の窓からサッカー部の生徒がグランドにつながる階段を走っているのが見える。あぁ、今日も始まる。帰りたい‥‥

 

 

高校一年の4

ブカブカの制服に身を包み、慣れない電車通学(1時間)に自転車を30分で学校に着く。不安だらけだが、サッカーに対する期待を胸に入学式に臨んだ。

 

 

校長から一言

 

「明日から無期限の休校を行います」

 

 

期待していた高校ライフが幸先の悪いスタートを切った。

 

そこから約2ヶ月の自宅学習で部活にも参加できず、家で走ることしかできなかった。兄もコロナで満足にサッカーができなかったため、一緒にボールを蹴る日々が続いた。部活でいいスタートを切れるように努力した。

 

 

授業が再開したのは、615日である。部活に入りたいという勇者たちが、グラウンドに集められた。そこで、集合に入らず既に練習参加している一年生がちらほらいていることに気づいてしまった。羨ましい気持ちでいっぱいになるのと、あぁもう競争は始まっているのだと実感させられた。

 

ここから怒涛の追い込み期間が始まった。ちなみにまだ入部届は出せなかった。(この期間を生き残れば出せるのだ。)

 

 

頭に入れといて欲しいことは、まだ15歳であくまで高校の部活であるということである。

 

 

 

一年生は名前を覚えてもらうため、白Tの前後に大きく名字を書きその服を二ヶ月ほど着用して走りまくった。(一時期、一年のLINEグループ名が近和歌陸上部に変更される程だった。)追い込みの期間は、昼は勉学に追い込まれ、放課後は走りで追い込まれ、夜は辞めるor辞めないという葛藤が一年生達を追い込んだ。友達が辞めると決めて泣きながら電話してきた夜は印象に残っている。毎晩、次の朝が来ることを悲観的に考えながら眠りにつき、朝起きると、全身筋肉痛でベットから起きることができなかった。朝、学校に行くのが嫌で泣いた日もあった。けど、頑張れと言ってくれる親や、期待して送り出してくれた小・中のコーチを裏切れないと思い、死ぬ気で食らいついた。

 

 

 

なんとか乗り切ることができた。これで練習ができるとホッとしていた。嬉しかった。監督にビビり散らかしながら入部届を提出し、無事入部に漕ぎ着いた。少し認められた気がして誇らしかった。

 

 

 

次の日、練習に行くと走った。トレシューを履いてこいとコーチが指示をした。あれ、陸上部に入部したかと一瞬脳裏を過ぎった。コーチは嘘つきだと思いながら黙々と走った。しかしコーチは嘘つきではなかった。いつもの走りに後にパスとトラップを練習した。この時楽しかった。足は疲労で震え、おぼつかない足元で行う練習は楽しかった。洗脳完了である。さらに、自主練の解禁が言い渡された。とても嬉しかったが体は常に悲鳴を上げていた。

 

 

文武両道を掲げて入部してきたが、「武」しか頭になかった。(この時の自分に高校とはと聞かれたら、笑顔でサッカーと言っていただろう)定期テストが始まった。東大生には、無縁の存在だと思うがテストには、赤点が存在する。我が近和歌は、成績表を監督に見せに行くイベントが開催されるのだ。もちろん赤点を大量獲得した勇者がサッカー部には多く存在する。言わずもがなブチギレの嵐である。勇者たちにはペナルティが多く言い渡される。勉強がいかに大事か監督は教えてくれていた。当時の勇者はこの教えを理解できないので不満の嵐である。

 

 

このような日々の練習をこなしているとサッカーについて考える機会が増えた。いや、正直に言おうサッカー部をやめたくなった。みんな口を開けばネガティブな発言しかしなかった。

 

 

今、書いていて思い出したので一つ事件を加えようと思う。

 

「おい、お前。靴下なんやそれ事件」である。

 

一年の夏(振り返りながら書いているが、いまだに思い出すと震える)

 

自分の体育担当が監督だった。その日はバレーの試合でアピールのチャンスで皆燃えていた。自分のスパイクが決まった。アピールできたと思い満足していると、監督に呼ばれた。褒められるのかと期待したが、声が怖かった。おかしい、目がキレている。冷や汗が止まらない。膝が震え、視界がぐらぐら揺れる。そして「おい、お前。靴下なんやそれ」と一言。見てみると白の靴下にニューバランスのワンポイント悪いところはない。(寧ろニューバランスはチームのウェアのメーカーなので高評価である。)問題はくるぶしが出ていることだった。完璧に校則違反だ。理由を言えと問うてくる監督。頭真っ白でイカれちまった自分。理由など出てこない。沈黙が続くのはとても辛く、苦し紛れの言い訳をしてしまった。監督は怒鳴りつけることもせず。「もう練習にくるな。お前はサッカー部ではない」と一言。面と向かって初めて話したのが、生活指導である。選手としての評価は地に落ちた。昼休憩に体育教官室に謝りに行った。体の全細胞が震えているのを感じる。意識は遠のいていく。正直記憶がなく、その後はしっかり覚えていない。なんとか罰走で落ち着いた。走りながら自分の無能さと許して貰った嬉しい気持ちで溢れ、ただ走った。

 

 

サッカー部にはルールがいくつかある。

その一つにサッカー部ではすぐに練習に入れるよう移動は小走り、着替えは3分以内。一年のうちは、よく着替えのやり直しを命じられた。とても楽しいイベントである。(今でも着替えは3分を心がけている。)

 

イベントといえば、「電柱挨拶」がある。

 

先輩たちから伝説の逸話として語り継がれていて、さすがに伝説だと信じていた。しかし存在した。

 

3年のいつかは忘れた。とても暑い日、一年の挨拶が怠惰だと指導を受けた。また、ペナルティが一年に降りかかるのだろうと期待していた。が、伝説の「電柱挨拶」が言い渡された。(連帯責任で)ここで分からない人に説明すると、一人一本担当の電柱を決める。その電柱に大きな声でハキハキと「おはようございます」「こんにちは」‥‥etc とてもいい練習である。興味があればやってみてほしいのだが、最初はただ大きな声を出すことを意識する。だんだん時間が経つと頭がバグってくる。電柱が人に見えてくる。自分は担任に見えたのを覚えている。そして今何をしているか分からなくなる。終わりが見えない挨拶は、新手の洗脳方法である。あいさつや礼儀は人として当たり前のこと、それを徹底的に叩き込まれるのが近和歌のサッカー部。

 

 

このような話はいくらでもあるが、書いていると長くなるのでこれくらいにしてサッカーについて書こうと思う。

 

 

1年の終わりにアキレス腱が悲鳴を上げた。

痛めていたのは、前からだった。だが、競争率が高いチームでは怪我で離脱することは致命的であった。「まだまだできる・ここでは終われない・周りは我慢している」そのような気持ちが自分を動かした。だが、自分はただの人間だった。体は嘘をつかない。

 

まあまだ2年生だ。少し休んでプレーを見直して復帰しよう。しかし、サッカーの神様は優しくなかった。固定2ヶ月、装具をつけて4ヶ月、歩行練習2ヶ月。いつからサッカーできるかは見積もれないと診断された。あまりにも長かった。周りからは「きつい練習しなくて羨ましい」「俺なら辞める」などと言われた。表向きは笑って対応した。心の中では、同期や後輩に差をつけられるのが怖かった。みんなは日々練習をこなし、だんだん上手になっていく。自分は左足が痩せ細って、何もかもが衰えているのが感じられた。いざサッカーを奪われると何も気力が出なかった。部活に顔を出し、同期や後輩がサッカーをしているのを見ることも辛かった。同期が自分から離れていく夢を見て幾度と泣いた。地獄の日々が続いたが、復帰だけを目標に必死にもがいた。ある程度回復し、2年の冬に復帰の目処が立った。最高のコンディションで復帰するため、努力を怠らなかった。監督も笑顔で喜んでくれ、遅めのスタートだが自分の高校サッカーが始まった。まだ間に合うと意気込んでいた。

 

 

 

 

サッカーの神様に自分に微笑まなかった。

 

 

 

1ヶ月もしないうちに痛みが再発した。医者には「痛みをゼロにするのは無理かもしれない。サッカーをやめて切り替えるのも考えてほしい。」自分の中で何かが折れた。あぁもうサッカーは忘れよう。自分のサッカー人生を終わらせよう。先輩の引退と共に退部を決めた。

 

 

サッカーが嫌いになった。

 

 

先輩たちの代で全国が決まった。まぁ全国の雰囲気を味わい辞めるつもりだった。初戦は流通経済高校で、世間は、次のシードの静岡学園と流通経済高校のビックマッチに沸き、近和歌は見向きもされなくて腹立たしい気持ちになった。結果は、1-1のpkで勝利した。全身に鳥肌が止まらなかった。ピッチ上で闘っている選手。スタンドで一致団結し応援している選手。東京まで駆けつけてくれるOB。毎日支えてくれている保護者の方々。全ての人の歓喜で溢れたスタジアムは自分を圧倒した。言葉が出なかった。

 

 

自分は今までサッカーをすることだけにしか重きを置いていなかった。

全く周りを見ていなかった。

サッカーをできることは日常で、嫌になったら逃げればいい。そんな考えを持っていた。

いろんな人の応援・支えを感じれずにいた。

サッカーで輝くのは背番号を貰った25人だけだと思っていた。

 

 

 

自分の中の全てが変わった。

 

 

 

そして同時に自分の代で、今はメンバー外で応援していた同期も全員で来年の全国に出て勝ち上がりたいと思えた。

 

そのためには、自分はこんなところで辞めるのではなく、どんな雑用もこなし選手がサッカーに集中できる環境作りのサポートがしたいと思えた。

 

監督の弟でコーチでもある人に学生コーチを提案してもらい、学生コーチの役職をもらった。(この人のおかげで学生コーチになれた。)

 

監督も初めての学生コーチの立場にも親切に時に厳しく自分に指導のノウハウを教えてくれた。三年生の1年間で自分のサッカーへの価値観は変わった。気づけば大学でもサッカーに関わりたいと思い、将来の夢も定まりつつある。

 

結果的に全国に行けたものの、初戦敗退だった。

 

別に選手に感謝してもらうために学生コーチを志願したわけではないが、敗退後選手が泣きながら「ありがとう」「勝てなくてごめん」と言われると、緊張していたものが取れ号泣した。夢は叶わなかったが、満足はしている。自分はやりきったのだと実感した。

 

サッカーが好きだ。

 

高校サッカーは幕を閉じた。

 

 

 

自分は大きく分けて二つの大事なことに気づいた。

 

一つ目は、好きなことは(自分ならサッカーだが)必ず壁にぶち当たると思う。その時、一回離れてみたりすることは大事なことで離れることで解決できることがある。だが、解決することを辞めてしまえば必ず後悔する。だからゆっくりでいいから自分に合った最善の判断をすること。

 

二つ目は、自分は必ず誰かに助けられていること。今で言うと、兄のおかげで東大ア式の存在を知り、入部までサポートしてくれた。早稲田に行きたいと言うと全力で応援しサポートし、不自由ないよう考えてくれる親。無知で使い物にならない自分を快く受け入れてくれるア式のスタッフ陣・プレイヤー陣。大学のサッカー部の相談に乗ってくれる監督・コーチ陣。自分のことを応援してくれた友達。もう19歳にもなるのにまだまだ子供だと実感する。この恩は必ず返さないといけない。

 

現在、監督には現状報告の電話はしていない。なぜ、電話をしないのかと思っただろう。少しタイミングを逃したのもあるが、自分はまだ成長していないからだ。成長した姿で会い、高校の時の感謝を改めてしたい。今年の夏は帰れそうにないが、冬あたりに会いにこうと考えている。喜んで話してくれるか、電話をしていないと指導されるか。賭けである。母校では今もグランドで汗水垂らして練習する後輩たちに会いたい。

 

 

監督は読むのだろうか、ふと思った。

読まれると考えると、手に汗握る。手も震えている。こんなチャランポランな文章だがいいのだろうか。しかし、これだけは自信を持って書くことができる。監督がいないと今の自分は楽しくサークルに入り、嫌なことから目を逸らし挑戦することもしない川上大智だっただろう。(別に普通の大学生)すなわち、今の自分はない。

 

 

一応指導者にもなれるように教育学部に所属している。監督さんの指導方法を身近に学んだ経験から監督さんのようになりたいと考える。まず手始めに排気音がとても大きいバイクを自分も乗りたい。どこからでも居場所がわかる。あの排気音はいい思い出である。

 

 

 

 

 

高校時代は、考えもしなかったトレーナー・コーチへの道。今は将来の夢へとなっている。実際、米田さん・新家さんにはまだまだ追いつかない。二人と自分の差はかなり遠く果てしない。現状、学ぶことの多い日が続くが、グランドに入り選手とコミュニケーションをとる日々はたまらなく楽しい。

 

 

 

最後に

 

 

時々、練習を見ているとサッカーをできない自分に絶望し、思い悩んでしまうことがある。

 

 

なぜ、最適なケアをしなかったのか。

 

 

なぜ、練習をすぐに離脱しなかったのか。

 

 

なぜ、コーチに相談しなかったのか。

 

 

今でも後悔する。

 

 

 

この後悔は一生自分に付き纏うだろう。

 

 

 

フィジカルコーチになった今、選手にこのような経験をさしてはならない。

 

 

 

 

 

 

この考えを忘れることなく、日々精進していきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に監督の言葉を残しておく

 

 

「順境に自惚れず、逆境に卑屈しない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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