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破釜沈舟

鍜治広貴 (1年/FW/開成高校) 「自分にとってサッカーとは」 ア式のHPの選手紹介にはこんな質問がある。自分はこの質問にすぐ答えることが出来なかった。と言うか、今も納得のいく答えが思いつかない。 サッカーは多分好きだ。でもその理由は上手く分からない。バスケやバレーは身長が足りないから嫌いだし、野球やラグビーは痛いからやりたくない。ところがサッカーになるとなんで自分が好きなのか上手く言い表せない。初めてのfeelingsではそんなサッカーと自分がどのように関わってきたのかについて書いていこうと思う。 サッカーに初めて出会ったのは幼稚園の時だった。園内でボールを蹴る遊びをして、初めてサッカーというものを知った。そして小学生になり所謂、昼休みサッカーを通してより熱中するようになり、休日には友達の家にピンポンしてサッカー仲間を探すようになった。ただサッカーだけでなくスポーツ全般にも興味があり、サッカー仲間が見つからない日には隣の校庭でやっていた野球チームに体験参加したこともあった。無駄に野球の知識と少しの走力があったから、周りの肩が出来上がってないことをいい事に盗塁を繰り返し、いい気になって帰った。ある時から練習に誘われなくなったのはこれが原因だった気もする。そんなある日地元のサッカーチームの存在を知り、入りたいと思うようになった。このことを親に相談したら、リフティング20回を入団の条件に出された。当時5回がやっとだった小学3年生の自分にとって20回は大きな壁だった。一刻も早く入りたかったから、とにかく練習した。小学校に行く前に自分で朝練だってやった。そしたら1.2ヶ月のうちにみるみる上達し、遂に入団することが出来た。やっとのことで入ったチームは8人制サッカーなのに9人しか居なかった。だからすぐに試合に出れた。どんどんサッカーにハマっていく感覚があった。本田圭佑の真似をしてサッカーノートや食事管理ノートを付け始めたがこれは1週間しか続かなかった。それでもW杯やJリーグを見て、プロになりたいと小学生なりに大きな夢を掲げた。9人のチームで試合に出れただけでよくも調子に乗れたなと今なら思う。その時は小学生なりに必死に生きていたんだろうな。日に日に夢だけ膨らんでいた自分が現実を見たのはFC東京のセレクションを受けた時だった。ミニゲーム大会で周りのレベルに圧倒され何も出来ずに終わ...

翫歳愒日

青田翔仁(1年/DF/日比谷高校) はじめまして。 1 年プレイヤーの青田翔仁です。提出期限当日の夜に焦って書き始めています(けいごさんごめんなさい)。 feelings の内容は完全に自由ということで、先輩方のものを見るともはや文学作品かのようなものもありますが、詩的なことを書くのは小っ恥ずかしいし、今回が初めての feelings なので簡単な自己紹介から始めたいと思います。   2006 年 4 月 12 日生まれ。一人っ子です。一人っ子っぽい性格だと思います。普通の公立小学校、中学校を経て、都立日比谷高校から文科一類に進学しました。サッカーは小学 1 年生からやっています。サッカー遍歴は、特にここで書くほど面白くはありません。小学生の時は通っていた小学校のチームに所属しており、中学高校はどちらも部活動でサッカーをしていました。好きな歌手はゆずです。たまに母親に連れられてライブにもいきます。あとディズニーに行くのも好きです。 1 年のみんな、冬オフで行きましょう。富士急ハイランドも行きたいです。   自己紹介を書けばだいぶ文字数を稼げると思ったのですが、難しいですね。少し踏み込んで、趣味の話をします。   私のことを語る上で欠かせないのが漢検です。漢検?と思った人もいるかもしれませんが、あの漢検です。日本漢字能力検定です。漢検に思い入れがある人はあんまり多くないと思います。多分大体の人は小学生あるいは中学生まででしか見ることがないと思います。あんまり興味ない人もいるかと思いますが、少々お付き合いください。 私が漢検を始めた(?)きっかけは、小学校が漢検の試験会場になっていたからです。私が小学 1 年から 4 年までは年2回、小学5年、6年のときは年 1 回の開催でした。小学 1 年から小学 6 年まで毎回落ちることなく受検し続け、最終的に 2 級まで取りました。小 6 で 2 級持っていたら結構すごいと思います。中学でも準 1 級を取ろうと思いましたが、えげつないくらいに難易度が高くなり怒涛の 4 連続不合格でした。さすがに諦めきれず、高校に入ってから 2 回目の挑戦で準 1 級に合格することができました。高 2 で準 1 級を持っていたら少しすごいと思います。大学生のうちに 1 級取得します。 今回のタイトルである翫歳愒日は、私も...

追いつきそうにない

  永田怜音(3年/FW/浜松北高校) 人生は自分が選んだ道を正解にしていくことだと誰かが言った。 今の自分が歩んでいる道は不正解であり、歩を進めるたびにそれは不正解であると裏付けられていく。   小学生の時車の中で、「サッカー習いたいんだよね」と母に言った 「うーん、女の子はサッカー難しいんじゃない」 基本やってみたらいいんじゃないと何でも肯定してくれる母が渋い反応をした 幼い頃特有の鋭い勘のようなものが、これは NO であると感知していた。 世の中を覆う黒いものに立ち向かうための勇気の大きさを母は知っていたんだろう。 今思えば、自分がもっともっと本気でやりたいんだと伝えられていたら、結果は変わっていたのかもしれない。   だけど、それ以上懇願して否定されたら 自分の大好きなサッカーがもうできないという決定打を、 扉を、完全に閉ざされてしまう気がして、 サッカーが汚れてしまう気がして、 言われるくらいなら、 傷がつかないままそっと置いといてしまった方がいい 知らないうちに忘れてしまう方がいい と思った     それ以降口にすることができなかった。 どうでもいいことには何でも言えるのに、 好きなものこそ、本当に必要なことこそ、あと一歩が出ないちっぽけな人間だ   その時に涙を流すこともできず自分の心の奥底に埋葬した想いに、 どうにか報いてやりたいと思って、今サッカーをしている   文京の L の人たちを見ていると時々思うことがある。 「もし、あの時もう少し自分が強くて、サッカーを始めていたなら あのくらい上手くなれていたんだろうな」   タイムスリップで戻れるとしたら、絶対その地点に戻ってやり直したい。 私の人生は、確実にあの地点で分岐した。 サッカーを始める方を選んだ人生と、選べなかった今の人生。 自分のライバルは小学生からサッカーを始めていた自分である。   今を正解にするには、そのもう 1 人の私よりもサッカーを上手くなることにしかない。 だから今は不正解なのである。そして今の努力量では到底追いつくことができない。 1 年生の頃は自分はなんだってできるんだと信じることができた。 3 年になって現実を見てしまうようになり、 4 年の最終節の自分像がどんどん悪いものになっていっ...

錨を上げろ

村上悠介(1年/テクニカル/横浜サイエンスフロンティア高校) テクニカルは、どうすればチームの勝利に貢献し続けられるのか。入部当初、漠然と描いていたその問いへの答えが、数か月の活動を経て、今は明確な道として見え始めている。以前書いた文章は、その変化を表現するにはあまりに未熟だった。先輩の背中、そして初めて担当したスカウティングの経験を元に、今考える全てをここに記したい。 東大ア式には、他クラブではありえないほどの数のテクニカルがいる。球を蹴ったことがなくても、これだけピッチ内に関わることができる環境はない。入部してすぐ、テクニカルコーチについて 怜雄那 から聞いた。彼は一年生のはやい段階から懸命にフットボールを考え続け、実力で自分にふさわしい立場を獲得していたのである。 それからはできる限り練習に行った。何かする仕事があるわけではないが、グラウンドにたくさん足を運んだ。とにかく戦術的な理解を深めようと思った。練習に行って、指導者のプレーヤーへの話を聞いたり、直接疑問をぶつけたり、自分から学ぼうとしたことは、自分の中で確実に新しい視点として蓄えられた。例えば、これまで漠然と良いプレーだと感じていたものが、どの立ち位置から、どんな体の向きでボールを受けたから成立したのか、という戦術的な文脈で、時間をかけながらだが、理解できるようになった。 こういった日々が続き、ずっとフットボールのことを考えるようになった。 双青戦、京大との親善試合、天祐さんのもとではじめてスカウティングを担当した。彼はなるべく対面で集まる機会をつくって認識をすりあわせた。映像の集め方や伝え方は、背中で見せつけるスタイルだった。すりあわせの元となる土台にはとにかく考え抜かれた形跡があって、細部までこだわるという基準の高さをまさに感じさせられた。おんぶにだっこの状態だが、誘導に乗りながらはじめて、このスカウティングという嫌になるほど対戦相手と向き合う仕事をやり遂げた。 引き分けた。悔しさの反面、はじめて自分が試合をつくった感覚を得られた。そしてなにより、この日を境に新入生教育という枠組みを超えて、東大ア式の一員になったと実感した。 その後、今度はいろいろな人のフィードバックを聞き、自分だったらプレーヤー相手にどんな対話をするか、理想を追い求めた。フィードバックは、認識を強要させるものではなく、局面ごとのあ...

投企

鈴木武尊(1年/MF/栄光学園高校) 初めまして。1年プレイヤーの鈴木武尊です。始めにこの場をお借りして、いつも僕が楽しんでサッカーをできるように支えてくださっている部内外のすべての方々に感謝申し上げます。 初めてのfeelingsなので、ア式に入った経緯を中心に書こうと思います。 4月の時点で、ア式で本格的にサッカーをやろうなどとは、全く考えていなかった。高校までのサッカー人生に悔いがなかったわけではない。中高どちらもキャプテンを務めたが、中学最後の大会は1日で敗退し、高校最後の大会には怪我で出られなかった。むしろ後悔ばかりである。それでも今までの後悔は、サッカーをやる中での後悔である。今後4年間サッカーを続けた場合の後悔は、サッカーをやったことそれ自体への後悔になるかもしれないと漠然と感じてしまったのである。 大学では、時間を何に費やすかについて、以前より段違いに自由度が増した。急にその重みを知覚させてくるようになった時間を、サッカーのために擲つだけの、サッカーへの執着心と情熱を、十分に持ち合わせている自信がなかった。でもア式の新歓練習に参加しているうちに、(始めは高校サッカー部の同期が行きたそうだったから一緒に行っていた)サッカーへの執着心と情熱が、みるみるうちに僕の中で膨れ上がってしまったのである。 僕の中の変化を生んだのは、ア式で接した「人」と「環境」だった。 新歓練習では、すでに入部を決めている人たちも多く参加していて、その人たちと話したのが、まず大きかった。高3の7月までサッカーを続けていた自分は、東大生の中だとサッカーを頑張った方だろうと漠然と思っていたが、同期の皆と話して、その認識は間違っていたことがすぐに分かった。同期では、僕より上のレベルでサッカーをやってきた人が多く、11月くらいまで続けていた人も少なくなかったのである。極端な例では、泰斗は藤枝東出身だし、大知は共通テストの4日前まで社会人に混ざってサッカーをしていた。これは僕の性である負けず嫌いを刺激するのに十分だった。ア式の先輩と話して、先輩方が、本気でサッカーを愛していて、情熱を注いでいるのを肌で感じられたことも良い刺激になった。 ア式の環境は、僕にとって夢のようだ。入部してから3ヶ月経っても続いているこの高揚感を、うまく抑えてまとまった文章にできる気がしないので、箇条書きさせてもらう。...

まだまだやめられない

上田知祥(1年/MF/栄光学園高校) 1年プレーヤー/ポジションMF 上田知祥です。 双青戦が終わり、feelingsを書いている。双青戦は出場することはできたが、訪れたシュート機会も決めきることは出来ずに引き分けに終わってしまった。普段に増して結果が強く希求される試合で勝てなかった悔しさを感じている。来年の双青戦は京都であるので、上のカテゴリーで試合に出て勝利したい。 そもそも、なぜ僕は東大ア式蹴球部に所属しているのだろうか。 僕は6歳の時にボールを蹴り始めた。地元の少年団に入り、友人と楽しくサッカーをしていた。僕の近所の友達はみな同じ小学校に通い同じチームでプレーしていたので、とても仲がよかった。彼らはとてもうまく、一緒に練習していてもよくドリブルで抜かれた。先日大学サッカーの練習試合でこの友達の一人と対戦することができたときは、懐かしく様々な感情を覚えた。サッカーを続けていてよかったと思えた瞬間でもあった。僕は当時DFをやっていたが、もともと得意だったGKも少しやっていた。6年間楽しくボールを蹴り続けることができた。 中学生になってサッカー部に入った。中学からはAチーム、Bチームなど分かれていて、Aチームにはなかなか入ることができなかった。高校に上がっても、Aチームでプレーする機会はあまりなく、遠藤先輩や同期の鈴木武尊が活躍しているのを見ているだけだった。先輩が引退した後も自分が怪我をしてしまったこともあり、試合に出ることができないまま時間が過ぎていった。練習の積み上げが現れたのかもしれない。高2の終わりにやっと、Aチームに昇格して、試合に少しずつ絡み始めた。なぜかはわからないがこのころには、DFからMFへとポジションが変わっていた。 5月には高校総体の予選があった。1回戦に先発で出場したのだが、人生で一番緊張した試合だった。自分はやっと試合に出ることができるようになった立場なのに、チームを負けさせてしまったら...というネガティブな感情であふれていた。結果としてこの試合は僕なりに活躍することができて、チームの一員になれたと感じた試合でもあった。試合に勝利した後は何物にも代えがたいくらいうれしかった。 7月に入り、選手権予選が幕を開けた。この試合で高校サッカーが終わるかもしれないという経験したことのない恐怖を感じながら戦った。6月の試合で負傷した鈴木武尊を欠い...