逢魔時

鈴木潤(4年/DF/駒場東邦高校)


始めはただ楽しかった。


意味わからないくらい大きな水筒。


音の軽いサッカーボール。


桶屋が億万長者になるレベルで土や砂の舞うグラウンド。


そして、ガッツギア。



白を基調とするユニフォームはいつも無邪気さを映し出した。


母は小言を言いながらも洗濯をしてくれた。


その口元は微笑んでいるようで。


全てが懐かしく、愛おしい、自分のサッカーの原点。








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逢魔時。

 



黄昏時とも呼ばれる。


夕方の薄暗くなる、昼と夜の移り変わる時刻をそう呼ぶらしい。


小さい頃はこの時間帯が嫌いだった。



 

家の近くの公園でサッカーや鬼ごっこから派生した謎の遊びを延々と繰り返し、宴もたけなわのタイミングで5時のチャイムが鳴る。

なんなら冬だと4時半に鳴る。


かの有名なグルコサミンと同じく世田谷育ち。


そんな我ら一行はルールを守ることを美徳としていたので、自分にとってチャイムの強制力は凄まじいものだった。

 


チャイムが鳴ればピクミンかのように皆慌てながら帰りの支度を始める。遊びの時間が終わり、赤らんだ中を自転車で爆走して家に帰る。

小学校低学年の頃は、家に帰れば9時には寝ろと親に言われ、月9も見ずに寝ていた。


そのおかげか身長は伸びた。


ようやく月9を見られたのは9歳の時で「ブザービート」が初めてだった。

北川景子はめちゃくちゃ好きで相武紗季は嫌い。



当時の自分からすれば夜というのは大人の時間。

この夕暮れの時間帯は友達とは遊べないわ、塾に行かなければならないわ、嫌なことが始まる合図のようなもの。


日が沈めば沈むほど心も沈んでいった。



そんな中でも救いの光はあって、夕暮れ時から始まるサッカーの練習は特別な意味を持った。


免罪符というと聞こえが悪いが、暗くなっても外で楽しいことができる。


朝から楽しみで、その日の給食は係と結託して大量に摂取していた。牛乳も三本くらい。


そのおかげか身長は伸びた。



長期休みに入ればずっと校庭開放でサッカーをしていた。


2010年南アフリカW杯の熱狂冷めやらぬまま朝から無回転。

2011年アジアカップの興奮冷めやらぬまま朝からボレー。


チャイムが鳴るまでボールを蹴り続けた。


あんなに夢中になれたのは何故なのだろうか。


そう感じて昔の自分を振り返る。



我ながらよく発言する子だったと思う。


授業中先生が問題を出せば恵まれた体躯を活かし発言権を得ていた。

刺されてないのに話していた気がする。


 

よくチャレンジする子だったと思う。


小さい頃マクドナルドのプレイルームで見知らぬ同い年くらいのガキンチョに煽られて、いかに高いところから飛び降りられるかで張り合っていた。


自転車に乗っては両手離しを嗜む。




あの頃の自分には確かな熱があり、自分が楽しいと思えばそれに熱中していた。


Creepy Nuts的に言えば、苦手だとか怖いとか気づいておらず、頭が悪いなんて全く思ってない。

すれ違ったマサヤに笑われてもどうでもいい。 

 

今は出来ないことだろうといつかきっと出来るようになる。


自分の直感と能力を信じて生きていたのかもしれない。




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中高生になると、この夕暮れの時間が好きになっていた。


自由に行動する時間帯がずれただけなのかもしれないけれど。


昼間は授業。

夕方になれば部活に精を出しながら、オフの日に渋谷のエストで球技に興じてはtohoシネマズで何度も映画泥棒を観る。あの口だけの怪物みたいなキャラも。


しまいには黄昏時を題材とした映画「君の名は。」を5回も観に行く始末。



一方で、重要なのは人間性の変化。


授業中に手を挙げることがめっきり減った。気がつけば、誰かを指す瞬間を見計らって挙げるのが特技になっていた。


気絶させられる手刀くらい速い。見逃してしまうのも無理はない。




発表などの類は「面倒臭い」の一言で煙たがるようになった。


自分が出来なそうなことはやらないように立ち回るのが上手くなっていた。


能ある鷹は爪を隠すの対義語があればぴったり当てはまりそう。

能がないくせに爪を隠す。自分が能どころか爪すらないスズメのように矮小な存在だと思われたくなかった。


いや、「思いたくなかった」の方が正確かもしれない。


俗に言うコンフォートゾーンってやつなんだろう。

 

小さな絶望の積み重ねが人を大人にするとはよく言ったもので、純粋に物事を楽しめなくなっていた。


変に冷めた大人。


頑張って頑張り抜いたのちに結果が出ないことを無駄のように感じ、効率が悪いと呟く。


周りの目を気にして自分を消すことも増えた。

やりたいことを自信を持って「やりたい」と言えなくなる。



つまらなすぎる。

心の中の自分が「お前はつまらん」と言い出すくらいにはつまらない人間になっていた。

まるで宿儺。「頑張れ頑張れ」とは言ってくれなかった。



次第と何かを選択することが苦手になった。

選ぶ前に本当に正しいのか、他に選択肢はないかと悩む。

至極真っ当なことのように思えるが、あまりにも考え込んでしまうのが問題だった。


敷かれたレールの上しか歩けない。


ファーストペンギンならぬラストペンギン。

名前だけなら格好良いが要は腰抜け。

ラストエンペラーとかラストサムライの格好良さには遠く及ばない。


 


今までは悩みもしなかった。

強いて挙げるとすれば、進学する中学を共学か男子校か選ぶ時。


男子校というものが全くイメージできず、6年間でとんでもない性犯罪者になるのではないかと泣きながら先生に相談した時くらい。


もちろん杞憂だった。

 



何かを選ぶことは他の全てを捨てること。そんな考えに頭は蝕まれていた。


最短の道は何か。最適な道は何か。


石橋を叩いては止まり、もう一回違う箇所を叩いては止まる。







そんな自分にとって、ボールを蹴っている時だけは周りの目も気にせず、夢中になれた。


今も昔も変わらないサッカー小僧に戻れる。


心の底から震える感覚。


公式戦の会場に向かうバス。


緊張と興奮半々の中音楽を聴いて気持ちを高める。


キックオフ直前はハラハラしているのに試合が始まると緊張などとうに忘れてしまう。あの感覚。


明らかな非日常。


それが楽しい。


サッカーは変わらず救いの光で、確かな熱を感じられた。






はずだった。






高1の時に怪我をした。


何かきっかけがあったわけではなく、部活の合宿でのとある夜中に痛みで目を覚ました。


股関節、より詳細に述べるとすれば恥骨結合部がズキズキと痛み出し、眠れない日々が続いた。


病院に行くと、自分のアレより少し上あたりをグッと押され、「痛い?」「痛いです」とやりとりをした結果恥骨結合炎と言い渡された。


世が世なら通報ものとも思ったが的確な診療だったので目を瞑った。




加えて腰痛も発症したことで、高校時代のサッカーは痛みの記憶に埋め尽くされた。


ボールを蹴るどころか走るのですら痛みが伴う。


そんな状態では次第と熱は冷めていった。


なんでこんな痛い思いをしてやっているんだろう。


純粋な疑問に答えられない。


 

 

大学に入学。



ウイルスの影響で自宅で全てが完結する生活を強いられた。



そんな日々にも飽き飽きし、色々な団体が活動を再開し始めた頃、何をしたいのか自分に問いかける。



さて、どうするか。





真っ暗だった。




サッカーができず、勉強もひと段落した。


ゴールから逆算して今すべきことを考えようとするが、肝心のゴールが決まらない。


文系か理系かすら選べる状態は自由すぎて不自由だった。


同期たちは、やれラクロス部やアメフト部に入っただの、やれ留学に行くだの、次々と歩き出していた。中にはホストになった奴までいる。


そんな同期の背中を見て、疑問しか湧かなかった。


なぜそこまで思い切れるのか?

本当にその道でいいのか?

やる前に思考を限界まで巡らせたのか?


何を持って物事を決断したらいいのかわからなくなってしまった。




何かをしたい。その活力は余っている。


でも何をしたらいいんだ。


高校の恩師と話しては泣き、大学の教授と話しては泣き、大学の先輩と話しては泣いた。


毎日のように眼は赤く腫れていた。巨人師匠の弟子くらい。


自己実現の場所を失い、アイデンティティを失った。


お前は何がしたい?お前には何ができる?お前は何をしてんだ?


わからん。


挑戦しないから自分の価値は上げられない。

他人を下げることでしか自分の価値を守れない。

そんなつまらない大人に近づいている気がして嫌だった。






時間は何も解決してくれなかった。 


時間が解決してくれるのはつまらない授業と八代の破局くらいなものだ。


実際のところ時が経っても解決はせずにただ忘れることで気にしなくて良くなっているだけだと痛感する。


忘れられるくらい些細なことならよかったのに。




そんなある日。

 

当時は高校同期の筋トレお化けにあてられジムに通っていた。


下半身をいじめ抜いた後横断歩道に差し掛かるとそこには左折車の姿があり、その車は歩行者優先を律儀に守った。

さすが世田谷。


礼には礼を。義には義を。

お辞儀をしてから駆け足で渡る。


縁石につまづいて転んだ。





後十字靭帯断裂。





は?



思わずザコシショウのような声が出た。



右足がズレるようになり、スポーツをやるには支障をきたすと診断された。

かなり気にはなるが日常生活を送る分には問題ないとのことだった。


そう診断された時、


「ここでリハビリしないとサッカーをやることは2度とないだろうなぁ」


ふとそんな考えが脳裏をよぎる。



は?



とろサーモン久保田のような声が出た。


なぜそんなことを考える必要がある。


サッカーはもうしていないし、他の怪我で諦めている。


それでもサッカーのことが第一に浮かんだ。




サッカー。



今まで俺の熱をぶつけられた、感情の受け皿。


それが喜びか、悲しみか、嬉しさか、悔しさか、


形は様々だが掛けたものの分だけ何かを返してくれる。


それがサッカーを好きな理由。



もう冷めたと思っていた。


後十字を切ってみたらほんの少し火種が残っていた。


この期に及んでもまだやりたいのか。


終わったと思っていたら続きがあった。


まるでスパメッツァ名物ドラゴンロウリュの3回目。


もしくは島くんお得意のアフターバーナーのように。




サークルは受け皿にはならない。

もちろん楽しくはあるがベクトルが違う。

勝つことにそこまで意味がないのならそこに自分の求める熱はない。



部活として、真剣にやらなければあの感覚は味わえないだろう。


やりたいと思えたならやるしかない。

でもリハビリからはキツいなぁ。



同じ思考を何度も辿り、獣道どころかバカデカい国道が脳内にできた頃。


一周回ってアホな自分が「結局やってみないとわからなくね?」と気づいた。


きっと気づいていたけれど、目を背けていただけなんだろう。




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お待たせしました。


ここからがア式蹴球部に入ってからの話。





はじめはDLに所属した。故障最速記録保持者の地位を確立した。フライングという説もあるが。


「DL所属、鈴木潤です。」


聞き覚えのない自己紹介に皆戸惑っていた。


流石に最初の日は緊張していて、龍吾に連れられてオガさんと最初に話した。


マーカーやビブスをマネージャーがやってくれていることに感動しながら見学した。



途中バリバリコーチをやっている最中のおかぴに「ポジションどこなん?」と聞いたり、孤高の男八代と気まずい感じになったり。


特に母校の評判がどうやら地に堕ちていたようで、「つまらない人」のレッテルを貼られかけた。


来る日も来る日もリハビリ。


当時育成では山田と聡がたまにDLとして横に来てくれたし、オガさんの就活話や歌の漫談を聞きながらDLができたのもあり、苦ではなかった。


始めは自分でメニューを決めてやっていたが途中から新家にずっと付き合ってもらった。感謝してもしきれない。


一方でエノと重田のプレーで気になった箇所を楓さんに送りつけては聞いていた。

重田は参考にならなかったが。

動画を見れば見るほどサッカー熱は高まっていき、リハビリにも身が入った。



そんなこんなで3ヶ月ほどのリハビリを経て遂にロンドに参加。

コバトレーナーでも加速走ランナーでも切り返し認知ありナーでもなく、遂に正真正銘のフットボーラーに昇格することができた。


やっとプレイヤーにまで辿り着いた。サッカーができる。




だが、それだけで満足するほど幸せの閾値は低くなかった。


理想とは程遠い復帰。


体が全く思った通りに動かない。全てのフォームが完全に崩れていた。


トラップもズレるわ、パスもズレるわズレズレの実のずらし人間。

そして何よりも、自信のあったロングフィードの質が酷く使い物にならなくなったことが1番心にきた。


でも自然と前を向いていた。


今はできなくても良い。いつか絶対できるようにする。


久しく忘れていたマインドが戻ってきたと感じた。


実際そのための材料は豊富で、練習動画を見漁りミスの瞬間だけを切り取って見続けた。


ロンボの質が落ちたことから、逆に一列ずつ越すためどうするかに集中できた。


試合後には飯を食いたい山田を待たせて楓さんと動画を見た。実は優しいところもあって、結局一緒に見てくれた。




結局この一年は最長15分しか出られなかったと記憶している。


でも試合に出て、たった15分の試合動画をフィードバックするのも、少しずつ成長していると実感できて悪くなかった。



いやー上手くなってるやん。



満足満足。






ほんとに??




いつだったか、山田と亮と屋上からAの試合を見ている時、目標の話になったことを思い出す。



亮は自分が上手くなれればそれで良いんすわといつもの陽気な口調で語る。

 


俺は?



その時なんて言ったんだっけ。

 



シーズンが終わり、4年生が引退して新しいシーズンが始まった。

 

 

1月はインフルエンザと肋軟骨の骨折で棒に振り、2月に復帰した。



そして3月の理科大との練習試合。


ビルドがかなり上手くいき、縦パスを島に何本か刺した。


屋上から見ていたおかぴの声が動画にめちゃくちゃ入っていて思わず笑みがこぼれた。


当時DLだった章にもパスのタイミングずらすのうまいやんみたいなことを言われ、こいつほめるんやなと思った記憶がある。

今思えば副将のロビー活動だったのかもしれない。



おかぴの声で印象が良かったのかAチームに練習参加することになった。



Aチームは育成チームと全く異なったものだった。

練習の一つ一つに緊張感がある。育成ではミスにならないプレーもAでは見逃してくれない。

自分の基準がいかに足りてないかを痛感した。


これこそ俺が求めていた環境。

悟空のようにワクワクしてた。


でも上手くやれる自信はなかった。

チャオズくらいのレベル感。


Aチームに参加して初めての木曜日の紅白戦。前半は酷いものだった。


いつのまにか自分のことで手一杯になり、コーチングを怠った。

ビルドアップでも自信の無さから焦り、ミスを冒した。


前半終了後、駿平と話した。


「外から見ててどうだった?」


「んー、潤さん元気ないっすね笑」


カッチーン。

吹っ切れた。


間違っても良い。クソコーチングしたろ。

ミスしてもいい。縦パス刺したろ。


そう思ってから割と調子は上がっていき、会話禁止のかるまるにて一平に「最近良い感じだと思うわ」と言われるまでは順調だった。

絶対本人は覚えてないけど。


しかし怪我の方は順調ではなかった。


後十字が無い右膝を庇ってか、左膝に異常が出始めた。


切り返しやジャンプでの着地の瞬間。キックの軸足。


少しずつだが明らかに痛みが増していた。


テーピングを巻くも痛みはあまり改善されなかった。



また同時期に勉学面では、研究室抽選で外れたことで本郷ではなく柏キャンパスに強制送還されることに決まった。

あの時の絶望感ときたら。


根津とかいう謎かけおじさんみたいな駅が御用達に。


柏と本郷の往復。

北千住での階段ダッシュも恒例になった。


練習前のストレッチもろくに出来ない。

ギリギリに来てテーピングを巻き、練習する。

コンディションはみるみる落ちていき、メンタルも弱くなっていた気がする。


ミスから立ち直れなくなった。


次第と焦りが生まれる。焦ると迷うようになる。


全ての判断が遅くなる。


そもそも自分の武器とは何なのか。


Aチームにおいて自分が誇れるものは何か。


俺が上がったのってビルドアップが評価されたから?

ってことはビルドが武器?縦パス刺せるから?


んー、わからん。



迷うやつは弱いとガープも言ってたし疑わないことが強さだとレイリーも言ってた。


迷いに迷い、弱くなっていた。


忘れもしない明海大学との練習試合。


最寄り駅に着くと東京とは植生が異なり、ヤシの木が生い茂っていた。

ここは本当に日本か?


そんなクソ暑い浦安で行われた試合。



縦パスを刺そうとムキになりボールを何度も失った。

育成に落ちたのはその後すぐだった。


まぁそりゃ落ちるよなぁ。

妙に腑に落ちたが、同時にそんな自分が許せなかった。


自分のことを信じられる、やることを貫ける強さ。

競技スポーツをやる上でそれが欠けてはいけない。

またつまらない自分になっていたことが悔しかった。



プレーの課題はわかっていた。


安定感。要は変なミスを減らせば良い。


できることは全部やろう。


今はできなくてもいい。できるようにすればいい。



育成に落ちてからはとにかく人に聞くことに注力した。


残された時間の中でどうやったらAチームに昇格し試合に出られるのか。


自分の強みと弱みは何なのか。

もう二度と迷わないように。


その一環として6月の中旬くらいからOBコーチの久野健太を毎週月曜日に部室に呼び寄せ、

土曜日に行われた試合を見返す習慣ができた。



ア式の部員にとっては非常に貴重な月オフに、こいつ暇すぎやしないか?と思ったこともある。


でもそれはあまりにもデカすぎるブーメランだと気付き、そっと胸にしまった。


一方で水本はプライドがあるのかいつも忙しいふりをしていたが結局来てくれた。


同じく暇で準レギュラーとなったしゅんすけと、たまに章。


ごく稀にスペシャルゲストの高口さんが登場した時は盛り上がった。

当時は特にスペシャルだった。まさしくスペシャリスト。




皓大と話し合うようになったのもこの頃。


「いくらでも付き合いますよ」そう言ってくれた皓大は本当に心強かった。


今となっては一周回ったのか喧嘩サッカーに傾倒してしまっているが、時にチアゴシウバの動画を見ながらサッカーを語り合った。


毎試合後に自分の考えていたことを言語化して皓大の所感とフィードバックを受ける。

頭が少しずつ整理され、やるべきことが明確になっていくのを感じた。




そんな中、7月の頭に行われた育成チーム対セカンドチームの紅白戦。


ただ良いプレーをして勝ちたい。頭の中はクリアだった。


セカンドの前2枚が大輝と陶山で2人ともバテていたのも影響し、大活躍した章君のおこぼれでaに上がった。

章君は上がらなかったけど。



ただ状況とは裏腹にメンタルはついてきていなかった。

あんなに迷わないようにとやってきたのにもかかわらずだ。


上手くなりつつはあったが自分としてはそこまで手応えがなかった。

前回育成に落ちた頃より明確に何か変わったか、自分でも自信がなかった。


次第に練習への足取りが重くなり、プレー中も息苦しくなった。

カタパルトを外しても息苦しかった。


7/6の木曜日。

東大前駅から部室へ向かう途中、ふと思った。


なんでせっかくプレーしてるのに思い切りやらないのか。

気付かぬうちに評価ばかりを気にしていた。一回落ちたことで怖がっていたんだろう。





何を縮こまってんの。


痛みに耐えながらやってるんだったら全力で楽しみながらやれよ。


「俺を使ったらええ。」で有名な先輩がそう言っているように思えた。


また吹っ切れた。


その日の紅白戦はラファエルレオンくらいニコニコしてプレーした。


確かイシコもちょうど復帰していて、トップをぶっ倒したいとぶち上がっていた。

めちゃくちゃ楽しかった。やっぱイシコよ。



評価は適度に気にすることにして、まずは俺がサッカーを全力でやること。

それを最優先にした。


陵平さんにどうやったら使ってもらえるかを聞きに行った。


「安定感。」


皓大と話し、5月に落ちた頃よりセーフティーさを心掛けてきただけに、まだ足りないか。

そんな印象だった。

攻撃陣は明確な結果が残るが守備陣は難しい面もある。

実際試合では守備陣の方が代えづらいだろうし、信頼を勝ち取るためには積み上げるしかないんだろう。


やるしかねぇ。


メンタルがバチバチに決まった頃。



痛みがあまりにも強くなり、アップですら激痛が走った。



ロンドに至っては地獄。



元々ロンドは痛かったが我慢はできていた。

そのダムも決壊寸前。



痛すぎて痛すぎて初めてヨネにだけ弱音を吐いた。


メンヘラ女子のように「もうマジで無理。きつい。つらい。」とのたうちまわる。

既にメンヘラのヨネとピッチ脇でメンヘラ2トップを形成した。


永田町の上りエスカレーターで歩くことはなくなった。なんなら動く歩道も歩かない。

とりあえずオフまで耐えよう。ヨネ、新家、大智のトレーナー三銃士と相談して乗り切った。




オフ明け。


オフ明けと言えばサジェストで「走り」が出るくらいには走る。



もちろんダムは崩壊した。


走り切ったはいいものの次の日からの練習はボロボロだった。


まだ正式昇格ではなく、「練習参加延長」という謎制度の状態だったため、何としても離脱したくなかった。


結局その思いも届かず。ヨネと話して離脱を決めた。

「痛いなら言わないと。、無理してやるもんじゃない。」

陵平さんはそう言った。

言ったら絶対落としますやんけ。心の中で思った。


ここに来てまた故障者リストかい。

育成に落ちて復帰してAチーム昇格して試合出場?

無理かもしれん。


そう思っていたら、なぜか正式昇格した。


まだチャンスはある。

怪我は流石にメンタルにきたがやるしかない。


何回目かもうわからないDLが始まった。


リハビリメニューは日に日に追加され、Aチームの練習が終わって育成練が始まってもなお続いた。


サッカーは帰納法だがリハビリはフィボナッチ。

そう言っても過言ではないくらいマジで日に日にメニューが増えた。


でもそれだけやれば復帰後もっと良いプレーができる。

やれることを積み重ねることしか今の俺にはできない。


そう信じて三銃士に付きっきりで見てもらった。



その後、ア式陸上部と言われるほど走った。

せいじろうと植田と走りまくったあの日々はマジで忘れない。

こんなに走れるならもう戻れるやん。


そう思ったけどなかなか戻ることは許されず、9月に復帰。

もう時間はない。


ただ復帰してからは明らかにプレーが昔より良くなったと感じた。


思考は整理され、メンタルも上々。

痛みは出るが、気合いで何とかなるレベル。


ゲームでは守備で潰せるようになり調子はかなり良かった。


最終節の1週間前、セカンドチームは理科大と対戦した。


怪我の影響で45分のみ。


もちろん実力差もあったが、個人的には満足のいくプレー。

試合動画を見返していた時におかぴがベストプレーと言った。


ラスト一週。ゲームではトップを倒してなんとしても試合に出る。

気持ちは固まった。


水曜日、セカンドはトップに勝ち、気分も高まった状態で臨んだ木曜日。


セカンドの一本目、副審。


CBにはジンが入った。

怪我を考慮したのか、ジンの方が良かったのか、今となってはどうでもいいが、

こんなにイライラしたのは久しぶりだった。




そして結局最終節は手にメガホンを持っていた。


セカンドは組まれず、先週の試合で引退となった。



 

 

最終節の後、一平が泣いていた。


4年間頑張ってきたこいつ。

ベンチ入りし最後までアップして結局呼ばれなかった。


そんな奴の前で泣くのは失礼だと、自分に泣く資格なんてないと思い、堪えた。




みんなで写真を撮る中で膝に手をついてドチャクソ泣いている植田を見つけた。



思い返すDLの日々。



涙が出てきた。

めちゃくちゃ悔しかった。




これだけ掛けた結果返ってきたのは悔しさ。



結果を見てみるとどうだろう。



選手として満足のいく結果だったか?



全くそんなことはない。


誰が自分の出ていない試合を純粋に応援できようか。


土曜日にメンバー発表されるたびに悔しかった。




でもそれだけ本気だった。


まだ自分にも確かに熱があったのだと、それだけは誇らしかった。


少しだけ子供の頃に戻れたように気がした。





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新御殿場を通り過ぎ、富士山に向かって進む車の中。


助手席に座るヤジのかけた曲がやけに耳に残った。



『いつからか失敗を避けるのにむきになって


本当に欲しいもの諦めて何がしたいか


見えなくて見過ごして、絶望だけ得意になって


それをもう手遅れと決めるにはちょっと早いね

 

(羊文学「more than words」)』



逢魔時。



日が暮れ、夜が始まる時間帯。


妖怪やら幽霊やらが多く出る時間らしい。


大人になると見なくていいものも見えてしまう。

周りの目を気にして、怖がって。


悔しさに蓋をする。


笑って誤魔化す。


失敗に慣れる。


まぁこんなもんか。しょうがない。


そう自分に言い聞かせて。



いつのまにか冷めた人間になっていた。


なろうとしていた。


熱を持ってやった分だけ心は大きく揺さぶられる。

それはプラスな時もあるしマイナスな時もある。


最後にマイナスにならないように必死になって怖がっていた。



未来に重きを置きすぎると今を動けなくなる。

足元が疎かになる。


多分縁石に躓いたのもそういうことなんだろう。

 

子供だろうと大人だろうと誰しも熱を持っているはず。


たとえどうなろうと熱を持ってやるべきなんだ。


マイナスになったとしても、それを犠牲と取るか経験と取るか。


どんなに迷ったとしても歩み続けること。



そんなことを考えながら熱を持って卒論を書き終えた。



島よ。お前のアフターバーナーを見せてやれ。



遠回りこそが最短の道。



星、ほんまごめん。

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