サッカーには夢がある

昨今UAEの地で日本代表が激闘を繰り広げている。特にノックアウトステージに入ってからは終始緊迫したゲームが繰り広げられ、自分も一国民として固唾を飲んでテレビ画面を食い入るように見てばかりである。とはいうものの、自分がサッカーを長年続けていくにつれて、何かしら戦術的、技術的な着眼点を持って客観的に見るようになったことも事実である。実際にプロの試合から学び吸収できるものはないか、と。(自分に限らず世のサッカープレイヤー皆がそうだと思うが。)それでもなお自分の中には、サッカーという1つのエンターテインメントをただ純粋に楽しみながら見ている、小さい頃から何1つ変わらない自分の存在がある。ワールドカップ後の森保さん(同郷として光栄です)率いる新生日本代表のプレイにはワクワクさせられるばかりである。(吉田選手も同郷です)


上京してからは、J1リーグを始めプロの試合を見にスタジアムに足を運ぶ機会も増えた。その中でも10月に埼玉で行われたウルグアイ戦は今までで見た試合の中でも一二を争うほどエキサイティングな試合だった。ウルグアイDFに対して果敢に仕掛けていく前線の選手のコンビネーション、セカンドボールに対する中盤の選手のアグレッシブなアプローチ、正直今までの代表では見たこと、感じたことがあまりなかったワクワク感があった。ましてそのプレーをスタジアムの熱気、サポーターの呼吸を肌で直に感じながら観戦するとなれば、その興奮は言葉で言い表せない。その時、正直戦術とか考えるのを放棄したくなるほど無我夢中で楽しんでいる自分がいた。まるでサッカーをやったことのないちびっ子のように。



「戦術」って何だろう。「サッカー」って何だろう。


こんなことをふと考えた。サッカーとは90分という時間の中で、11人対11人で行う競技である。相手よりも多くゴールを奪うことで勝ち点3を得る。はい、みんな知っている。戦術とはその勝ち点3をいかにして手に入れるか(いかにして相手からゴールを奪い、相手にゴールを割らせないか)、そのための手段・方策である。はい、それはそうです。

現代サッカーには様々な戦術が存在する。ロングボールを多用するチーム、細かく緻密にパスをつなぎ相手をいなすチーム、ガチガチに引いて爆速のカウンターを発動するチーム、ロングスローばっかりするチーム。国によって、大陸によって、チームによって、様々なカテゴリーに様々な戦術が存在する。どれもあくまで勝つための術に過ぎない。どれを支持し、どれを批判するかは、個人の見解なので、議論しても意味はないし、そんなのは正直どうでもいい。勝ったほうが強い。偶然なんてない。(誤審の場合はまた話が違うが。)



「何のためにサッカーをやっているのだろう。」


サッカー人生で何どこの問いにぶつかったことか。多分この先も何度もぶつかることになるのだろう。何度サッカーをやめろと言われたり、自分でサッカーをやめようかと考えたりしたことか。(10回はあるかもしれないな。笑)
答えはサッカーを始めた頃の自分に問いかければすぐに返ってくるだろう。
「サッカーが楽しいから、サッカーが好きだから」って。

自分の場合、サッカーに関する知識を吸収するにつれて、この答えはいつも霞んで見えなくなってしまいがちなのかもしれない。本当の意味で楽しむことを忘れているのかもしれない。プロの試合を見ている時にはそんなことはないのに、自分がやるとなぜかそうなってしまう時期があった。勝ちを求めて、ゴールを求めて、その先にある喜びを求めて懸命にプレイしているはずなのに、何か釈然としないままピッチに立っている時間があった。何かが引っかかっていた。

「戦術」

こう表現すると語弊を生むかもしれない。まるでチームの「戦術」を否定しているかのように聞こえるが、そういうことではなくて、問題はあくまで自分自身にある。チームスポーツである以上、ピッチに立つプレイヤーにはチーム「戦術」の遂行が求められる。その「戦術」を完璧にこなすことで、勝利を手にすることができるから。つまり「戦術」はサッカーにおいて勝利の喜びを味わうためには不可欠な要素である。もちろん「戦術」を完璧にこなせずとも勝利が転がり込んでくることもあるが、チームの1員として「戦術」プランを完璧にこなすことで得られる勝利の味は格別である。

では、「戦術を完璧にこなすこと」が目的なのか。
それとも「勝つこと、その先の喜びを得ること」が目的なのか。

これこそが自分の心の内の葛藤の原因だった。いつの間にか手段が自己目的化していた。試合に出ても「自分が戦術を遂行できていたか否か」ばかり気にかけ、プレーに大胆さやアッグレッシブさがなくなり、頭でっかちなプレーしかしていなかった。表現は悪いが、その時の自分のプレーはただの「戦術のための道具」でしかなかった。それ故に、チームが点を取っても取られても、勝っても負けても、何も感じることができなくなっていた。自分が「戦術」をこなせているかどうかが重要なポイントにすり替わり、淡白なプレーしかしていなかった。最悪な心理状態だった。その時は、もはやサッカーをやる意味もなかったのかもしれない。楽しくなかったから。サッカーを始めた頃の、あの純粋で熱烈なサッカーに対する情熱はどこかへ消えていた。


この自分の心理状態が、昨年末の新人戦の大敗で爆発したと、今振り返って思う。(もちろん、チームとして、個人として、戦術的あるいは技術的な成熟度の低さが原因でもあるのだが、少なくとも、あの時の自分はそんな議論以前の問題だった。)あの大敗は屈辱以外の何物でもなかった。それはピッチに立った選手だけではなく、組織に関わる全ての人々の顔に泥を塗る結果だった。

あの時やっと、忘れかけていた大切なものをもう一度思い出すことができた。やっと勝利に対してひたむきになれた。大胆にアグレッシブにプレーし、チームと勝利の喜びを分かち合うために走ろうと思えた。その時は、いい意味でもう戦術なんてどうでもいいと開き直っていた。(実際重要な要素だが。)目の前の相手に勝てばいいとしか考えていなかった。熱くなれた。楽しかった。


サッカーというスポーツは、緻密な計算を要する、複雑で難解な競技だと思う。勝つためには多くの戦術的視点が必要で、技術レベルの向上も言うまでもなく重要である。毎日考えに考えて、練習し続けなければ、勝利を手にすることはできない。そんなに甘い世界でもない。それ故、自分は、思い描くプレーができたかどうかばかり気にして、プレーが萎縮し、根本的なサッカーに対する情熱やサッカーを楽しむ気持ちを見失いがちだった。しかし、それを失っては、サッカーをやる意味がない。自分がサッカーを始めた頃に抱いた、サッカーに対する夢や希望を失った時は、サッカーをやめる時なのだろう。


中島翔哉選手。あれほど楽しんでプレーしているからこそ見ている側もワクワクさせられるのかもしれない。それでいて結果を出すのだから、尚更すごい。もう一度現地でプレーが見たいなと思った。


考え過ぎだ。勝負を楽しめ。もっと大胆に、熱くなれ。

サッカーには夢がある




高田社長、早くJ1(ゼイワン)帰ってきてください。

(そんな自分はコンサドーレサポ)

1年  鮎瀬英郎




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