賽の河原
4年 田中秀樹
あぁ、まただ….
彼はいつものように侮蔑の表情を浮かべ、石を積む私の元へ歩いてくる。そして、私が積み上げた石の前に立つと、無残にもそれを叩き壊し、立ち去る。
私は崩れた落ちた石を拾い上げ、また積み上げる。もう何度目かわからない。それでも私は石を積む。
今回は上手くやれるかもしれない。
そう思った矢先、彼はどこからともなく現れ、またそれを破壊する。
現れては壊し、現れては壊す。
そこには残骸しか残らない。
いったい何故こんな罰を受けさせられているのだろうか。
そう嘆きながら、私はひたすら同じことを繰り返すが、結局は無駄になる。
もう積まなくてもいっか…
いつも思い出すのは少年時代である。小学校1年の頃に地域のサッカーチームに入り、私のサッカー人生がスタートした。
今では笑い話だが、当時は足が速く、6年生の時には身長が160を超え、フィジカルに頼ったプレーをしていた。上手くもないし、頭を使っているわけでもないが、それでもある程度は活躍できた。
早熟なのは見て明らかであり、周りの大人達は将来フィジカルで戦えなくなった時のことを心配した。そして技術を身につけることを私に勧めた。
しかし私はその必要性を感じつつ、気付けば他のことをしてしまっていた。細かいことが苦手だった私にとって、足元の技術を身につける練習はいささか退屈であったからである。
中学生になり、縁があって私はクラブチームに入団した。そこには上手い奴らがたくさんいて毎日刺激をもらった。
大人達の予言は的中し、身長は見事に止まったが、足は順調に速くなり県内で走り負けることはあまりなかった。足の速さはあくまで一要素に過ぎないが、それでも大きな武器である。おかげでチームとしては県2位、個人としては県トレのバックアップに入るくらいの成績は残せた。
高校は県内のいわゆる進学校に入学した。その高校のサッカー部は県2部3部を行き来するくらいのレベル感であるが、一方クラブのチームメイトは県1部以上の学校に進学する者も多く、選手権やプレミアリーグにチャレンジした者もいて、その環境を羨ましく思った。しかし、私は勉強もやると決めてその高校を選んだ。そう決めた以上自分がその高校のサッカー部に入り、2部昇格・残留に貢献するのだと本気で意気込んでいた。
さぁ、早く活躍して試合に出よう。
まずはこいつのボールを取り切ってと。
あれ…。
振り切られた…。
落ち着け、偶々だ。
あれ、また……
明らかに動きが鈍かった。自分の感覚に遅れて体がついてくる。ボールを完全に取り切れると思っても、気付いたら相手が前にいた。
受け入れられない。受け入れたくない。
もっと上手い奴、速い奴と戦ってきたのだ。ここで負けるわけにはいかない。負けるはずがない。
そんな歪んだプライドが現実を追い払う。そして私は心地の良い殻に閉じこもった。何かの間違いである。そうやって自分を誤魔化した。
しかし、いつまでもそう思い込めるはずはない。ある日の体育の授業でその誤魔化しも利かなくなった。
数字というものは残酷で、体育の先生の口から発せられた50m走のタイムは、躊躇なく私の殻を突き破り、そこから現実が流れ込んできた。中1の自分より遅いという事実はじわじわと私を蝕んだ。
きっと受験で鈍ったのだ。すぐに元に戻るはず…。
そう思いながら、いや、そう願いながら練習に取り組んだ。
しかし何日経っても、何か月経っても結果は変わらなかった。
今まで積み上げてきたものが音を立てて崩れ落ちた。そこには残骸しか残っていなかった。
上手くもない足元、何も考えない頭。
それでも私は残骸を積み上げた。昔の自分ができていたのだからきっと元に戻れるはず。そう思って色々調べて実践した。
しかし何も変わらなかった。こうなった理由すらわからなかった。
手を伸ばせば伸ばすほどに遠くへ行く。今にも届きそうなのに、掴もうとすればその手は空を切った。1年前の自分なのに、こんなにも近いのに、自分はあまりにも遠かった。
目の前が真っ暗になった。
もう彼とは違う。今の自分にできることをしよう。何度もそう思い、練習した。しかし、その度に彼の姿が現れる。ふとした瞬間に昔を思い出し、情けない今の自分に嫌気がさす。
彼の前では、私は自らを悲劇の主人公に仕立て上げて保身した。自らの悲運を憐れみ、仕方のないことだったと慰める。だがふと我に返ると、そうして保身だけする自分はあまりに醜く映り、自らを嫌悪した。
そうしてドロドロ湧き出してくる群青色の腐った感情は私の小さな器をすぐに満たし溢れ出す。
なんだかどうでもよくなってきた。
あぁ、そんなもんさ、これでいい。
気付いたら高校サッカーが終わっていた。
引退試合後私は泣いた。
しかしそれは負けた悔しさからではない。高校3年間に思いを馳せ、虚しくなってきたからである。
自分を誤魔化してやり過ごしても何ら意味のないことはわかっていた。わかっていたのに勝手に気力をなくし、すべきことをせず、3年間を棒に振った。やはりもっと行動するべきだったと後悔した。あれほど諦めたのに今更だ。
そうして私は気付いた。私はこの3年間何度も諦めた。でも諦めきれてはいなかったのである。努力すればまた思うようにプレーできる日が来るのではないかと、そんな気持ちを知らず知らず隠していた。
幸いにして、大学には学生としてサッカーができる最後のチャンスがあった。ここで終わったら、きっとこの先の人生もこれらの感情を引きずって歩むのであろうと思い、その選択肢を自ら消すことはできなかった。ただ先延ばしにしたかっただけなのかもしれない。でも、最後にもう一度チャンスが欲しかった。
引退後は必死に勉強し、1回の不合格を挟んだが次の入試では何とか合格を頂くことができた。そうしてようやくたどり着いた場所で、すぐにア式の門を叩きにいった。門はすぐに開き中に入れてもらえたが、そこに広がっていた世界は思っていたものと違った。
当時のア式は東京都2部で圧倒的に勝ち続け、優勝した。とにかく強かった。いや、それだけではない。観ていて楽しかった。当時は、起きている現象を理解できてはいなかったが、それでもわくわくした。想像以上であった。
もしかしたら、新たな自分に出会えるかもしれない。
東大ア式はそう思わせてくれた。
3年までは山口遼元監督の体制であった。遼さんは非常に緻密なサッカーを志向しており、遼さん自身や、遼さんが教えたOBコーチの方々が指導を行うことで、チーム全体にその哲学は波及した。
もちろん他にもサッカーを考えている人はたくさんいた。4年目には林陵平監督にも来ていただき、そうした人達から色々なことを吸収させてもらった。本人達からしたらほんの一部しか私に伝わっていなかったと思う。でも私からしたらその一部ですら貴重であった。
私はプロの試合を見て、自分達の試合を見るということを繰り返した。最初はただ漫然と見ていた。恥ずかしながら高校までの私はサッカーを全然知らなかったから、そこで何が起きているのかがわからなかったのである。
しかし、そうやってア式で過ごしていく内に、少しずつ起きている現象を観ることができるようになった。試合を観るのが楽しくなってきた。
それが試合に活きるようになったのは結局最後の1年間ではあったが、試合中プレーをしながら起こっている現象を把握し、それを修正するということが少しだけできるようになった。身体能力が低くても、下手くそでも、思い通りにプレーできることがあった。その時の快感は今まで感じたことのないもので、とにかくサッカーが楽しかった。
戦術に偏りすぎで、対人能力を軽視しすぎていると言われることもあった。決して対人能力を軽視しているわけではないが、下手くそだから何も言い返すことはできない。
しかし、同じ対人能力なら戦術理解がある方が良いと考え、ボールを受けた自分や仲間が少しでも楽にプレーできるように頭を使うことはやめなかった。
4年間で多少なり上手くなったとは思うが、やはり1番変化したのはこの頭の部分だろう。
それは過去の自分にはなかったもので、新しい自分のプレーの基礎となった。
長らく後退と停滞に陥っていた私にとって、そこから抜け出せたことはかけがえのない喜びであり、サッカーを続けてきた意味であり、目標であった。もうあの日の私ではない。
視座が低すぎて笑われるかもしれない。笑ってもらって構わない。
私は誰に何と言われようがかけがえのないものを得たのだから。
囚われのない新しい自分が今ここにいる。
引退試合の終了のホイッスルが私の学生サッカー人生の終わりを告げた。
振り返ってみると、なんだかんだよくできた17年間だったな。
私の前には石が積み上がっている。
もう彼が来ることはない。
ようやく、私は次の世界に行けるらしい。
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