バックスピン
石田ちひろ(4年/MF/市川高校)
引退してからはや3ヶ月が経った。
今まで練習に費やしていた時間の大半は、研究に充てるようになった。
引退してからも、時々、文京LBの練習に顔を出しては、現役のみんなと一緒に練習に打ち込んでいる。
引退してからのサッカーは、とっても気が楽だ。
今までもプレッシャーをものすごく感じていたわけではないが、チームに貢献したい、上手くなりたい、その想いが強かったのかもしれない。
気楽にサッカーができるようになった一方で、代替わりをして新チームとして始動し始めているア式を見ると、どこか寂しい気持ちが残る。
ア式女子での4年間に、なんて名前をつけたら良いのだろう。
ありきたりだが、卒部というこの機会に4年間を振り返ろうと思う。
『水から陸へ、個人からチームへの1年目』
高校まで水泳しかやってこなかった私と、ア式女子との出会いは、女子オリだった。
懇談会で最初に座った席のチューターがざわさん。次のチューターはかおりさんだった。
お二人に勧誘してもらい、吸い込まれるように体験練習に参加した。
ア式のアットホームな雰囲気が自分に合っていると感じ、3回目には入部を宣言した。
初めは、何もかもが新鮮で、新しいことに触れられる喜びとワクワクでいっぱいだった。
陸上のスポーツに慣れるまでは、肉離れを繰り返した。それでも、グラウンドを駆け抜ける時の爽快感に魅了された。
個人競技特有の「自分との戦い」みたいなものに苛まれることもなかった。チームでコミュニケーションを取ることの楽しさと難しさの両方を感じた。
だが、徐々に「プレーすることの楽しさ」より「貢献できていない悔しさ」が勝つようになった。
自分のトラップミス一つで、パスミス一つで、チームとしての戦術練習が途切れてしまった。
初心者で基礎力が伴っていないから、多少は仕方がなかったのかもしれないが、ミスすることに怯えるようになった。
自分がフリーでも、ボールを要求することができなかった。
1年目は、サッカーをしていたというより、グラウンドを走り回っていた、という表現の方が正しいのかもしれない。
『自分のサッカー観を変えた2年目』
コロナ禍、グラウンドでの練習を行えない日々が続いた。
多くの部員にとっては、練習したくてもできない、制限の多い、もどかしい1年だったように思う。
でも、私にとっては少し違った。
私にとっては、特にア式と文京LBのチームメイトに力を貸してもらった1年だった。
きっかけは、通常練習とは別でやっていた2〜3週間の特訓だったけれど、そのおかげで基礎練に向き合うようになった。
まずは、パス練習から。
当時の私は、トラップの収め方がわからなかった。強いパスも出せなかった。
コロナ禍、グラウンドでの練習を行えない日々が続いた。
多くの部員にとっては、練習したくてもできない、制限の多い、もどかしい1年だったように思う。
でも、私にとっては少し違った。
私にとっては、特にア式と文京LBのチームメイトに力を貸してもらった1年だった。
きっかけは、通常練習とは別でやっていた2〜3週間の特訓だったけれど、そのおかげで基礎練に向き合うようになった。
まずは、パス練習から。
当時の私は、トラップの収め方がわからなかった。強いパスも出せなかった。
特訓1日目。
トラップを収めるために、バックスピンをかけている、と教えてもらった。
とはいえ、私の脳内はもちろん、
「バックスピン?どうやって?笑」
という感じだった。
そんなことは、考えたこともなかった。
これを試して、あれを試して、、、。
1日目は、パス練習だけで4時間。
あっという間の4時間。
でも、その4時間だけでも大きな変化が生まれようとしていた。
自分がいかに経験者にとって当たり前のことをできていないか、そしてできていないことにさえ気づけていないか。
パス一つ、トラップ一つにしても、どこを意識しているか、そしてそこを意識する理由。
そういうことを教えてもらった。
それは、基本中の基本のパス、ボールタッチ、リフティング、ドリブルだったが、この2〜3週間で得たもの、それは計り知れないほど大きかった。
チームとしての活動ができない間も、毎日2時間は近くの公園で自主練をした。
それぐらいモチベーションが高かった。
「上手くなりたい」はもちろん、それ以上に「サッカーが楽しい」「できることが1つ増えるのが楽しい」でいっぱいだった。
そんなこんなで、2年目はサッカー熱がすごかった。ゴールに対して貪欲だった。
とにかくシュートをして、ゴールを決めたかった。私も得点したかった。
実際、このシーズンはFWでプレーさせてもらった。
前線でのプレーの臨場感も新鮮だったが、自分の性に合っている感じはしなかった。
この頃からボールに触る機会を増やそうと、文京LBの練習では中盤でプレーすることを心がけた。
そして、地道に基礎練習を重ねた成果も出てきた。
足元の技術が少しだけ伴ったために、周りを見る余裕も少しだけ生まれた。
太陽の日差しがジリジリと照りつける小石川運動場での夏の紅白戦。
DFが飛び込んでくるのが初めて見えた、そしてそれを交わせた、あの光景が今でも記憶に新しい。
『アンカーにはまった3年目』
執行代になった3年目からは、ア式でも中盤を任せてもらえるようになった。
特に、アンカーとして起用してもらうことが増えた。
藤岡さんは、無理して前を向かない、慎重プレーを評価してくれていたのだと思う。
アンカーとしてプレーするのは、今までやったポジションの中で1番楽しかった。
スペースがある分、自分でプレーを選択できた。チームの攻撃を落ち着かせるきっかけになれた。
崩れたチームのバランスを取る役割は、ただの穴埋めにも見えたが、意外と悪くなかった。
初めてチームに少し貢献できた気がした。
今までプロの試合なんてまともに見たことがなかったのに、ブスケツと田中碧のプレー動画をひたすら見るようになった。
バルサのパスサッカーが好きになった。
藤岡さんの言いたいことが理解できるようになった。
こういうプレーがしたいという意図を持てるようになった。
この年のマイベストプレーは、福田さんにブスケツ呼ばわりされた西が丘での練習試合。
相手にマークされていなかったというのも大きかったが、良い位置でDF陣からボールを受け、前線にスルーパスを供給できた。
にしても、ブスケツはなぜあんなにプレス回避が上手いのか、楔のパスを入れられるのか、今でも謎である。
3年目も2年目とは違った成長を遂げられた気がした。
『後悔が残った、ラスト4年目』
ピッチ外では、無力だった。
詳細は省くが、4年生になって自分自身の生活リズムが変わったことなどもあり、練習に対するモチベーションが下がってしまった。
早く卒部したいとさえ思った時期もあった。
当然、部活へのコミットも落ちてしまった。
(本当にごめんなさい)
その殻をようやく破れたのは、夏ごろ。引退まではもう4ヶ月を切っていた。
もったいないことをした。
早く気付けば良かった。
そんな後悔ばかりが残った。
そんな後悔ばかりが残った。
失ってしまった時間を取り戻そうと、残り4ヶ月は必死だった。
ピッチ内では、最後までアンカーとして起用してもらった。
ラスト1年だったから、
4年生という立場だったから、
「みんなに頼られる、攻撃の起点となれる、安心してパスを出せるアンカー」
になりたかった。
3年目は、「ただパスを受けるだけ、落ち着かせるだけ」だったものを、
4年目は、「自分でもボールを運べる、前も向ける」にしたかった。
実際はどうだったか。
バックパスが雑すぎてDF陣をピンチに導いてしまった。
CBからパスをもらえても、前を向けなかった。プレーの幅が狭く、わかりきったことしかできなかった。
攻撃陣を活かせるようなパスを入れられなかった。得点にも絡めなかった。
後輩たちには「アンカーはちひろさん」と言ってもらえていたけど、自分では納得のいかないことばかりだった。
後輩たちがどんどん上手くなっていくのを見て、危機感を感じた。
そんな4年目だった。
そんな4年目だったけれど、
特別すごいコミットやプレーはできなかったけれど、
かわいい後輩たちに囲まれながら、
同期6人で引退試合を迎え、
自分自身も今までとは違ったプレーに挑戦しつつも、
W杯にめちゃくちゃ熱くなった、
そんな締めくくりの1年だった。
ア式女子での4年間。
それは、なんだかんだサッカーが好きで、上手くなりたくて、楽しかった4年間だった。
例え、大学入学からやり直したとしても、
バックスピンのかかったボールのように、
またこの場所に戻ってくる気がする。
最後に、
この4年間を通して、関わってくださった皆様に、この場を借りて感謝申し上げます。
ありがとうございました。
女子部4年 石田ちひろ
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