単調増加人生
栗原昇太(1年/GK/立川高校)
とうとう、花粉の季節がやってきてしまった。『春は桜』とはよくいうが、『春は花粉』の方がしっくりくるという人は多いのではないか。
しょぼしょぼする目を掻きながら、僕は初めてのフィーリングスを書く。
誰?という人もいるかもしれない。
僕は一年(このフィーリングスが世に晒される頃には二年になっているかもしれないが)でキーパーをやっている栗原というものだ。一浪で東大に入り、アシキには6月の終わりに途中入部している。
自己紹介はこれぐらいにしよう。
何を書こうか。
そもそも、僕は文章を書くのが昔から苦手だ。どう繋げばいいかわからないし、最近は『、』をどのタイミングで打てばいいかがよくわからなくなる。まあ、フィーリングスは単文を繋げて書くことが多いので心配いらないか…
そんなことはどうでもいい。
何を書こうか。
思えば、今まで自分の人生を真剣に振り返るなどということはしたことがなかった。改めて振り返ってみると、僕の人生はある2つの事柄がその多くを占めていると感じている。
1つはもちろん、アシキに入っているくらいなのだから、『サッカー』だ。ただ今回のフィーリングスでは、今後またフィーリングスを書く時のネタに困らぬよう、サッカーは温存しておこうかなと思う。
では、もう一つはなんなのか。
もちろん、『受験』だろう。
東大の中には、当たり前のように東大を受験し、当たり前のように合格した人も多い。しかし、僕のような凡人には受験は大イベントだった。きっと一歩間違えていれば今この大学にはいなかったであろう。
そんなわけで、今回は一年生らしく自分の受験人生について振り返ってみようかなと思う。
ただ、それではアシキとなんの関係もなくなってしまうので、入部理由についても少し書こうと思う。
途中入部の分、より客観的に考えた末に決断しているので、今後の新歓などにもいい参考になるのでは。
では、そろそろかつての栗原少年について見ていこうか…
昔のことなのであまり覚えてはいないが、少なくとも小学低学年まで頭の良い方ではなかったと思う。
特にひらがなが読めるようになるのはかなり遅かった。
今でも鮮明に覚えているが、幼稚園年長の時、日直は次の日の日直の名前を呼ぶというのがあって、そのためには日直カードに書いてあるひらがなの名前を読めなければいけなかった。
ひらがなが読めなかった栗原少年は、字の周りに描いてあった絵を見ててきとうに誰かの名前を呼んだのだが、それが間違っていて先生にすぐに訂正されたことがあった。
幼稚園児ながら、その時栗原少年は恥ずかしさでいっぱいだった。
もっと不思議なのが、そんなにひらがなを読めないことをコンプレックスに思っていたのに、決してひらがなの勉強をしようとは思わなかったことだ。たしか小学生になるまで読めなかったと思う。
やはり興味がないと人は覚えないものだ。
これは今もひしひしと感じることだが。(特に第二外国語)
結局、小学校は遊び尽くして終わった。
徐々に頭も良くなっていったように思うが、それでもクラスで5、6番目ほどだったと思う。中学受験などということは1ミリも考えてはいなかった。
結局中学も地元の公立に通った。そこでのサッカー部での武勇伝はいくらでもあるのだが、それはまた今度話すことにしよう。
その時の栗原少年は頭がいいというより、とにかく真面目だった。宿題を忘れることはなかったし、周りよりかなり勉強していたと思う。
おかげで、定期試験でもクラスで1、2番を取ることができでいた。
思い返せば、このことが僕が東大に入れた原点だったのではないかと思っている。
僕は昔から、一度上げられた期待を裏切るのが大嫌いだった。
『あれ昔はもっとすごかったよね?』
『どうしちゃったのくりちゃんー』
こうした言葉を言われるのが大嫌いである。
こういう性格を日本語でどういえばいいかは知らないが、とりあえず現状から下がるのを嫌うということで、『減少嫌悪症』とでも名付けておこう。
テストでいい成績を取った後、周りからの期待を裏切らないため、必死に勉強した。
こういうとなんか周りのために頑張ったみたいになってしまうが、そんなことはなく、全くの自分のためであった。
そんなこんなで3年生。
塾には行かなかった。
特に理由はなかったが、兄は2年くらいからずっと塾に通っていたので、おれは塾に行かずに兄以上の高校に入ってやろう。
そんな程度の気持ちだったと思う。
高校の候補としては、地元の公立の立川高校、国立(くにたち)高校があった。
なぜ、私立の選択肢がなかったのか。
もちろんお金をかけたくないというのもあったが、一番は単純に、自転車通学に憧れていて、ちょうどいい距離にあり学力も自分にあっているのがその2つしかなかったのである。
立川高校と国立高校はどちらも進学指導重点校とはいえ、その進学実績には明らかな差があった。
毎年東大が1人いるかいないかの立川に対し、国立は毎年コンスタントに20人以上東大を輩出していた。
そして、模擬試験ではどちらもS判定だった。
普通の人なら国立高校を選ぶだろう。
しかし、栗原少年は捻くれていた。
立川高校に志願したのである。
なぜか。
1つは、絶対に落ちたくなかったことだ。
失敗を恐れ、少しレベルの低い方を選んだというものだ。
これが、周りに聞かれた時にいつも答えていたものだ。
だが、本当はこれ以上の理由があった。
おそらく、先ほどの『減少嫌悪症』とも関わっていることだ。
それは
トップになりたくなかったことだ。
読者の中には、鼻で笑った人がいるかもしれない。
何がトップだよ、と。
こう思うのは当然だ。
しかし、多摩地域が自分にとっての世界だったその当時の自分にとっては自然な発想だった。
トップの高校に行ったら、それこそいい大学に進学しないといけなくなる。そのためにまたあの重圧に耐えながら勉強しないといけないのか…
また、その時高3だった兄が東大を受験することになったことも大きかった。(その年は落ちたのだが)
国立なんかいったら絶対東大に行かないといけなくなりそう。
そう思うと、自然と立川高校に志願していた。
立川でのんびりとした高校生活を送ろう。
そう、
楽しようとしていたのである。
一度『減少嫌悪症』が発動すれば、自分でもかなり我慢強く頑張るのだが、頑張りたくなかった自分は、必死に発動しないようにしていたのであろう。
そうして、難なく立川高校へ進学した。
ところで、東大に入ってびっくりしたのが、東京に住んでる人でも立川高校を知らない人がかなり多いことだ。高校受験してないとはいえ、立川ぐらい聞いたことあるだろうとショックだった。とはいうものの、僕も駒東や海城なんて知らなかったし、筑駒と筑附、渋幕と渋渋が別々の高校ということも大学に入って知ったのでお互い様だが。
早めに言っておくが、僕は立川高校に進学したことを一切後悔していない。そのおかげで素晴らしい仲間に出会えたし、立川に来たからこそ東大に入ることができたのではないかと今では思っている。
というのも、入学後一週間で、僕はまた『減少嫌悪症』を発症してしまい、その後3年間苦しむことになったのである。
たしかあれは入学式の次の日だったと思う。何が目的かはわからないが、テストがあった。中学の範囲の確認と、春休みに出されていた宿題の確認問題が出ていたように思えた。
正確には覚えていないが、たしかそのテストでクラス1位を取ってしまった。
それからというもの、クラス内で頭が良いキャラになってしまい、勉強教えてと請われることも多々あった。
その期待を崩さぬよう、勉強も頑張るようになってしまった。
そう、運悪く(良く)あの『減少嫌悪症』を発症してしまったのである。
本当は、クラス中位あたりをフラフラしていたかった。周りのように、テスト直前だけ勉強し、テスト返しの時には友達とお互いの点数の低さを見せつけ合いバカにし合う。そんな生活を送ろうと思っていた。
だが、もうその望みは叶わなかった。
結局それからもずっとクラス1、2位をキープするはめになってしまった。
ボクシングなどではよく言うが、やはりチャレンジャー側より防衛側の方が難しい。防衛側は勝つのが当たり前である一方、負けると酷く叩かれてしまう。
実際テストでも、僕が一位を取ってもとくに何も言わないが、僕より高い順位を取った時だけ酷く煽ってくる奴がいる。
そう言うやつの対応はなかなかに難しいものである。
とは言ってももともと東大を目指せる高校ではないので、東大なんて夢のまた夢だと思っていた。
そんな時、東大が身近になる出来事が起こった。
兄が一浪して東大に受かった。
正直嫌だった。
だらしない兄を反面教師に今まで生きてきたからである。
おめでとう、などの言葉も言わなかった。
だがこの出来事のおかげで、僕と東大の距離が短くなったのは事実である。
そして気づけば高3の春。
3年前の春だ。
もう3年も経ったのか…
そう、新型コロナウイルスだ。
世界中を狂わせたこのウイルスだが、皮肉にもこれも僕が東大に入れた一因となっている。
コロナが流行った春、たしか二ヶ月ほど部活はもちろん、高校への登校も禁止されていた期間があった。
その間、どこからの情報かは分からないが、周りの同級生たちがめちゃめちゃ勉強しているということを耳にした。
実は登校できるようになって発覚したことだが、全然そんなことはなかった。
周りはみんな普通にゲームなどをしていた。
そんなことは知らず、焦っていた僕は毎日必死に勉強していた。数3、物化はほぼ触れてなかったが、その2ヶ月で全部を終わらせ、気づいたら明らかに学力が伸びていた。
とは言ってもまだ東大など、僕の視界にすら入っていなかった。
初めて東大に行こうと思い始めたのは夏の冠模試の後だ。
僕は受ける気がなかったが、親がどうしても受けろ受けろとうるさいので仕方なく受けた。
判定は…
A判定だった。
めちゃめちゃびっくりした。
東大など優秀な中高一貫校の上位の人たちだけが行くものだと思っていたからだ。
『こんなものなのか…』
しかし、このことが裏目に出た。
勉強に身が入らなくなったのである。
もちろん、人並みには頑張ったと思う。
だが、足りなかった。僕のような凡人が東大を受験する天才たちに立ち向かうには、人並みでは到底足りるはずもなかった…
そして追い討ちをかけるように、共通テストではかなり良い点数を取ってしまった。
その後の2次までの一ヶ月半は多分かなりダラダラ勉強していたと思う。
受験本番も焦りでうまく行かず、終わった瞬間に落ちたとわかった。
悔しかった。
不合格だったことにではない。
本気でやらなかったことにだ。
その時に改めて、自分がいかに楽な道を今まで選ぼうとしていたのかを感じた。
僕は強くなれた。
現役の時は東大一本だったので、浪人することになった。
ちなみにだが、現役の2次試験の時、前の座っていた人が貧乏ゆすりをしていて、ずっと僕の机が揺れていた。しかも上下ではなく、左右に揺らす珍しいタイプの貧乏ユスラーだったのでおそらく読者が思っているより大きく揺れていただろう。またその時は感染対策でアクリル板が目の前にあったのだが、貧乏ゆすりでアクリル板が揺れ、アクリル板に反射して問題用紙や答案にあたる光がずっと振動していた。
僕はどうしたら良かったのだろう。
直接いえば良かったのか、前の椅子を蹴れば良かったのか、それとも振動に合わせて自分も揺れていれば良かったのか。
点数的にそのハンデがなくても合格出来なかったのは認めるが、僕は一生あいつを許さない。
そんなくだらないことはおいといて、浪人期は案外充実したものだった。
週1で地元の友達とサッカーをしつつも、毎日6時に起き、一日中勉強し、夜12時に寝る。
予備校内でも割と優秀な方だったので、やはりあの『減少嫌悪症』に苦しめられながらも、ひたすら机に向かっていた。いや苦しめられたと言うより、今では利用していたという方が正しいかもしれない。
もう昔の楽な道を選ぼうとする自分はいない。
そんな単調な生活を1年間続けていたわけだが、意外とそこまで辛くもなく、あっという間に赤門の前を通り、2次試験会場の東京大学法学部館の中にいた。
緊張はあまりなかった。
自信があったからだ。
自分の学力に対してではない。
自分の1年間の努力に対してだ。
2回目は…余裕だった。
合格者を発表するサイトに自分の番号があったときは、一瞬膝カックンをされたように足に力が入らなくなった。そしてまるで重力がなくなったかのように体が軽くなり、うまくバランスが取れなかった。
そして僕はすぐに応援してくれていた友達に連絡した。親も含め、みんなが祝福してくれた。それまでは重圧でしかなかった周りの声が、その時は僕に浮力を与えてくれた。
この場を借りて、感謝を伝えたい。
きっとみんなが期待してくれなかったら、僕はここまで這い上がれて来れなかった。
結局、負けず嫌いなのであろう。
『みんなの期待する自分』というライバルに負けたくないがために、あんなに頑張れたんだと思う。
ありがとう。
こうして振り返ってみると、僕の受験人生には数えきれないほどの分岐点があり、その時は間違っていたと思うような判断も、今となってはじめて正解だと分かることも多い。
過程が先か、結果が先か、
鶏が先か、卵が先か、のようだが、僕は結果が先なのではと思う。
結果が出たからこそ、その結果につながる過程は意味を持ちはじめる。
僕が東大に入ったからこそ、今までの判断は『東大に入るための判断』になるのだ。
そういえば、ずっと『減少嫌悪症』などというダサい言葉を使っていたが、僕はずっとこの症状に苦しめられている、
と、思っていた。
が、今となってはこの症状がなければ僕は東大になど入れていなかっただろう。
今は、自分の長所なのではないかとも思ってきている。
そうすると、『減少嫌悪症』というのはどうしてもネガティブに聞こえてしまって相応しくないかもしれない。
もっとポジティブに聞こえるいい言葉はないかな…
…
…『単調増加症』…
うん、こっちの方がいいかもしれない。
さらにダサくなってしまったが。
まだまだ話し足りないが、このままでは終わりそうにないので、そろそろアシキに入った理由について話そうと思う。
もともと、テント列などで説明を受ける前まではサッカー部かフットサル部に入ろうとしていた。
少し次回号のネタバレになってしまうのだが、実は僕は高校の時、満足のできる引退をできていなかった。
そんなわけで、まだ本気でサッカーをやりたい気持ちが強くあった。
だがテント列の時に、週6であることと、授業後毎回本郷まで行かないといけないことを聞き、少しずつアシキへの気持ちは薄れていった。
最初はフットサル部に何度か練習参加に行った。
そこでもキーパーをやったのだが、思ってたよりも奥が深く、サッカーのキーパーとは少し違っていた。
特にサッカーに比べ、足でボールを触る頻度が極端に少ない。
ゴールキックもなくゴールラインから出たらスローで初め、またキーパーへのバックパスの回数も限られている。
体験練習では、一度も足でボールを触る練習をしなかった時もあった。
やはりサッカーをやっていた以上、足でボールを扱いたかった。
綺麗にトラップできた時の気持ちよさ、ロングボールをぴったり相手の所へ落とせた時の気持ちよさ、そして何よりミドルシュートがサイドネットに突き刺さった時の気持ちよさ…
そうしたものを求めていた自分にとって、フットサルのキーパーは少し違っていた。
結局、フットサル部はやめ、サッカーのサークルに入ることとなった。
そこではFWをやっていた。
やはりキーパーにとってFWというのは最も憧れるポジションだからだ。
そのサークルはつまらなかったわけではない。
だが飲みサーだったそのサークルは、当然僕のような人間は受け付けていなかった。
結局2回しか行けなかった。
そうしてどのサークル部活にも入らず、ぶらぶらした時期が数週間続いた。
友達に誘われ、フットサルサークルとバドミントンサークルにも行った。
フットサルサークルではキーパーではなくフィールドをやった。
まあまあ楽しかった。
けどやはり、ロングボールを蹴れず、サークルレベルでは本気で体を当てるのも躊躇われたので、少し物足りなさはあった。
しかし、この、フットサルサークルに体験に来てなければ、もしかしたらアシキには入ってなかったかもしれないがまあその話は後ほどしよう。
バドミントンサークルの方は普通に楽しかった。同クラの人と週2くらいで通っていた。一万ほどするラケットも買い、本気でコミットしようかなと思っていた。
だがしばらくして、やはりサッカーボールが恋しくなった。
そんな時だった。
上クラの先輩の(今となってはもう同期だが)Uから、アシキの練習に参加してみないかと連絡が来た。
その時はまだ入る気はあまりなかったが、一度参加してみることにした。
一度参加してみて入らないと決めた方が、後から後悔しなくて済むだろう。
その程度の気持ちだった。
その何日か後、まだアシキの練習に参加する前である。
先ほど話したように、フットサルサークルに行った。
そしたらそこに、アシキ一年(新2年)のD橋本がいた。
実はD橋本とはフットサル部の新歓練でも会っていたので、すぐに仲良くなった。
そこでアシキについて色々聞いていくうちに、徐々にアシキに気持ちが傾いていった。
そして迎えた初めてのアシキの練習見学。
恥ずかしいことに、僕はバドミントンで肩を痛めていたので参加はせず見学したのだが、全てが思ってたのと違った。
なんといっても一番驚いたのが、その練習環境だ。
中高公立だったので当然人工芝などではなく土のグラウンド。しかも高校に関しては土というより砂のグラウンドであり、特に汗をかきやすい夏の時期などは、髪の毛に砂がくっついたり、鼻水が砂で黒くなったりと大変だった。そんなわけで、たまに人工芝で試合できるような時はとても楽しかった。
その人工芝で毎日練習できるなんて信じられなかった。
しかも運のいいことに、アシキの練習を見学したり参加した時は毎回決まって水曜日の御殿下グラウンドだったので、その時はまだ農グラの存在を知らなかった。
その日は見学しかしなかったが、どんどんアシキに入りたい気持ちが強くなっていった。
そして次の週の水曜日。
その日は普通に参加したのだが、練習が始まる前に先輩に入りたいですと言って入った。
別に練習前から入ることを決心していたわけではない。
だが、気づいたら『入ります』と口に出していた。
きっと本能的に、ここが自分の居場所であると感じたのだろう。
他のキーパー陣は、僕が最初見学しに来た時もただボール拾いをしていただけだったので、まさか入らないだろうと思っていたらしい。
まさか僕も入るなんて思ってもいなかった。
そうして、僕のアシキライフが始まったのだった。
さて、今までのサッカー人生について、そしてアシキについてもっと語りたいことはあるのだが、字数も多くなってきたしそろそろ締めようと思う。
東大に合格したことにせよ、アシキに入ったことにせよ、今まで数え切れないほどの分かれ道があり、その一つでも違う方に進んでいたら今の自分はいなかったかもしれない。
もちろん、違う方を選び、異なる人生を生きていたとしてもそれはそれで楽しかったのかもしれない。
しかし、こうして東大アシキに入り、素晴らしい仲間たちに出会うことはなかったであろう。
そう考えると、サッカーと人生は似ている。
サッカーも試合中幾度となく選択を迫られ、その選択の積み重ねによって結果が決まる。
だからサッカーはやめられないのかもしれない。
早くサッカーがしたい。
誰?という人もいるかもしれない。
僕は一年(このフィーリングスが世に晒される頃には二年になっているかもしれないが)でキーパーをやっている栗原というものだ。一浪で東大に入り、アシキには6月の終わりに途中入部している。
自己紹介はこれぐらいにしよう。
何を書こうか。
そもそも、僕は文章を書くのが昔から苦手だ。どう繋げばいいかわからないし、最近は『、』をどのタイミングで打てばいいかがよくわからなくなる。まあ、フィーリングスは単文を繋げて書くことが多いので心配いらないか…
そんなことはどうでもいい。
何を書こうか。
思えば、今まで自分の人生を真剣に振り返るなどということはしたことがなかった。改めて振り返ってみると、僕の人生はある2つの事柄がその多くを占めていると感じている。
1つはもちろん、アシキに入っているくらいなのだから、『サッカー』だ。ただ今回のフィーリングスでは、今後またフィーリングスを書く時のネタに困らぬよう、サッカーは温存しておこうかなと思う。
では、もう一つはなんなのか。
もちろん、『受験』だろう。
東大の中には、当たり前のように東大を受験し、当たり前のように合格した人も多い。しかし、僕のような凡人には受験は大イベントだった。きっと一歩間違えていれば今この大学にはいなかったであろう。
そんなわけで、今回は一年生らしく自分の受験人生について振り返ってみようかなと思う。
ただ、それではアシキとなんの関係もなくなってしまうので、入部理由についても少し書こうと思う。
途中入部の分、より客観的に考えた末に決断しているので、今後の新歓などにもいい参考になるのでは。
では、そろそろかつての栗原少年について見ていこうか…
昔のことなのであまり覚えてはいないが、少なくとも小学低学年まで頭の良い方ではなかったと思う。
特にひらがなが読めるようになるのはかなり遅かった。
今でも鮮明に覚えているが、幼稚園年長の時、日直は次の日の日直の名前を呼ぶというのがあって、そのためには日直カードに書いてあるひらがなの名前を読めなければいけなかった。
ひらがなが読めなかった栗原少年は、字の周りに描いてあった絵を見ててきとうに誰かの名前を呼んだのだが、それが間違っていて先生にすぐに訂正されたことがあった。
幼稚園児ながら、その時栗原少年は恥ずかしさでいっぱいだった。
もっと不思議なのが、そんなにひらがなを読めないことをコンプレックスに思っていたのに、決してひらがなの勉強をしようとは思わなかったことだ。たしか小学生になるまで読めなかったと思う。
やはり興味がないと人は覚えないものだ。
これは今もひしひしと感じることだが。(特に第二外国語)
結局、小学校は遊び尽くして終わった。
徐々に頭も良くなっていったように思うが、それでもクラスで5、6番目ほどだったと思う。中学受験などということは1ミリも考えてはいなかった。
結局中学も地元の公立に通った。そこでのサッカー部での武勇伝はいくらでもあるのだが、それはまた今度話すことにしよう。
その時の栗原少年は頭がいいというより、とにかく真面目だった。宿題を忘れることはなかったし、周りよりかなり勉強していたと思う。
おかげで、定期試験でもクラスで1、2番を取ることができでいた。
思い返せば、このことが僕が東大に入れた原点だったのではないかと思っている。
僕は昔から、一度上げられた期待を裏切るのが大嫌いだった。
『あれ昔はもっとすごかったよね?』
『どうしちゃったのくりちゃんー』
こうした言葉を言われるのが大嫌いである。
こういう性格を日本語でどういえばいいかは知らないが、とりあえず現状から下がるのを嫌うということで、『減少嫌悪症』とでも名付けておこう。
テストでいい成績を取った後、周りからの期待を裏切らないため、必死に勉強した。
こういうとなんか周りのために頑張ったみたいになってしまうが、そんなことはなく、全くの自分のためであった。
そんなこんなで3年生。
塾には行かなかった。
特に理由はなかったが、兄は2年くらいからずっと塾に通っていたので、おれは塾に行かずに兄以上の高校に入ってやろう。
そんな程度の気持ちだったと思う。
高校の候補としては、地元の公立の立川高校、国立(くにたち)高校があった。
なぜ、私立の選択肢がなかったのか。
もちろんお金をかけたくないというのもあったが、一番は単純に、自転車通学に憧れていて、ちょうどいい距離にあり学力も自分にあっているのがその2つしかなかったのである。
立川高校と国立高校はどちらも進学指導重点校とはいえ、その進学実績には明らかな差があった。
毎年東大が1人いるかいないかの立川に対し、国立は毎年コンスタントに20人以上東大を輩出していた。
そして、模擬試験ではどちらもS判定だった。
普通の人なら国立高校を選ぶだろう。
しかし、栗原少年は捻くれていた。
立川高校に志願したのである。
なぜか。
1つは、絶対に落ちたくなかったことだ。
失敗を恐れ、少しレベルの低い方を選んだというものだ。
これが、周りに聞かれた時にいつも答えていたものだ。
だが、本当はこれ以上の理由があった。
おそらく、先ほどの『減少嫌悪症』とも関わっていることだ。
それは
トップになりたくなかったことだ。
読者の中には、鼻で笑った人がいるかもしれない。
何がトップだよ、と。
こう思うのは当然だ。
しかし、多摩地域が自分にとっての世界だったその当時の自分にとっては自然な発想だった。
トップの高校に行ったら、それこそいい大学に進学しないといけなくなる。そのためにまたあの重圧に耐えながら勉強しないといけないのか…
また、その時高3だった兄が東大を受験することになったことも大きかった。(その年は落ちたのだが)
国立なんかいったら絶対東大に行かないといけなくなりそう。
そう思うと、自然と立川高校に志願していた。
立川でのんびりとした高校生活を送ろう。
そう、
楽しようとしていたのである。
一度『減少嫌悪症』が発動すれば、自分でもかなり我慢強く頑張るのだが、頑張りたくなかった自分は、必死に発動しないようにしていたのであろう。
そうして、難なく立川高校へ進学した。
ところで、東大に入ってびっくりしたのが、東京に住んでる人でも立川高校を知らない人がかなり多いことだ。高校受験してないとはいえ、立川ぐらい聞いたことあるだろうとショックだった。とはいうものの、僕も駒東や海城なんて知らなかったし、筑駒と筑附、渋幕と渋渋が別々の高校ということも大学に入って知ったのでお互い様だが。
早めに言っておくが、僕は立川高校に進学したことを一切後悔していない。そのおかげで素晴らしい仲間に出会えたし、立川に来たからこそ東大に入ることができたのではないかと今では思っている。
というのも、入学後一週間で、僕はまた『減少嫌悪症』を発症してしまい、その後3年間苦しむことになったのである。
たしかあれは入学式の次の日だったと思う。何が目的かはわからないが、テストがあった。中学の範囲の確認と、春休みに出されていた宿題の確認問題が出ていたように思えた。
正確には覚えていないが、たしかそのテストでクラス1位を取ってしまった。
それからというもの、クラス内で頭が良いキャラになってしまい、勉強教えてと請われることも多々あった。
その期待を崩さぬよう、勉強も頑張るようになってしまった。
そう、運悪く(良く)あの『減少嫌悪症』を発症してしまったのである。
本当は、クラス中位あたりをフラフラしていたかった。周りのように、テスト直前だけ勉強し、テスト返しの時には友達とお互いの点数の低さを見せつけ合いバカにし合う。そんな生活を送ろうと思っていた。
だが、もうその望みは叶わなかった。
結局それからもずっとクラス1、2位をキープするはめになってしまった。
ボクシングなどではよく言うが、やはりチャレンジャー側より防衛側の方が難しい。防衛側は勝つのが当たり前である一方、負けると酷く叩かれてしまう。
実際テストでも、僕が一位を取ってもとくに何も言わないが、僕より高い順位を取った時だけ酷く煽ってくる奴がいる。
そう言うやつの対応はなかなかに難しいものである。
とは言ってももともと東大を目指せる高校ではないので、東大なんて夢のまた夢だと思っていた。
そんな時、東大が身近になる出来事が起こった。
兄が一浪して東大に受かった。
正直嫌だった。
だらしない兄を反面教師に今まで生きてきたからである。
おめでとう、などの言葉も言わなかった。
だがこの出来事のおかげで、僕と東大の距離が短くなったのは事実である。
そして気づけば高3の春。
3年前の春だ。
もう3年も経ったのか…
そう、新型コロナウイルスだ。
世界中を狂わせたこのウイルスだが、皮肉にもこれも僕が東大に入れた一因となっている。
コロナが流行った春、たしか二ヶ月ほど部活はもちろん、高校への登校も禁止されていた期間があった。
その間、どこからの情報かは分からないが、周りの同級生たちがめちゃめちゃ勉強しているということを耳にした。
実は登校できるようになって発覚したことだが、全然そんなことはなかった。
周りはみんな普通にゲームなどをしていた。
そんなことは知らず、焦っていた僕は毎日必死に勉強していた。数3、物化はほぼ触れてなかったが、その2ヶ月で全部を終わらせ、気づいたら明らかに学力が伸びていた。
とは言ってもまだ東大など、僕の視界にすら入っていなかった。
初めて東大に行こうと思い始めたのは夏の冠模試の後だ。
僕は受ける気がなかったが、親がどうしても受けろ受けろとうるさいので仕方なく受けた。
判定は…
A判定だった。
めちゃめちゃびっくりした。
東大など優秀な中高一貫校の上位の人たちだけが行くものだと思っていたからだ。
『こんなものなのか…』
しかし、このことが裏目に出た。
勉強に身が入らなくなったのである。
もちろん、人並みには頑張ったと思う。
だが、足りなかった。僕のような凡人が東大を受験する天才たちに立ち向かうには、人並みでは到底足りるはずもなかった…
そして追い討ちをかけるように、共通テストではかなり良い点数を取ってしまった。
その後の2次までの一ヶ月半は多分かなりダラダラ勉強していたと思う。
受験本番も焦りでうまく行かず、終わった瞬間に落ちたとわかった。
悔しかった。
不合格だったことにではない。
本気でやらなかったことにだ。
その時に改めて、自分がいかに楽な道を今まで選ぼうとしていたのかを感じた。
僕は強くなれた。
現役の時は東大一本だったので、浪人することになった。
ちなみにだが、現役の2次試験の時、前の座っていた人が貧乏ゆすりをしていて、ずっと僕の机が揺れていた。しかも上下ではなく、左右に揺らす珍しいタイプの貧乏ユスラーだったのでおそらく読者が思っているより大きく揺れていただろう。またその時は感染対策でアクリル板が目の前にあったのだが、貧乏ゆすりでアクリル板が揺れ、アクリル板に反射して問題用紙や答案にあたる光がずっと振動していた。
僕はどうしたら良かったのだろう。
直接いえば良かったのか、前の椅子を蹴れば良かったのか、それとも振動に合わせて自分も揺れていれば良かったのか。
点数的にそのハンデがなくても合格出来なかったのは認めるが、僕は一生あいつを許さない。
そんなくだらないことはおいといて、浪人期は案外充実したものだった。
週1で地元の友達とサッカーをしつつも、毎日6時に起き、一日中勉強し、夜12時に寝る。
予備校内でも割と優秀な方だったので、やはりあの『減少嫌悪症』に苦しめられながらも、ひたすら机に向かっていた。いや苦しめられたと言うより、今では利用していたという方が正しいかもしれない。
もう昔の楽な道を選ぼうとする自分はいない。
そんな単調な生活を1年間続けていたわけだが、意外とそこまで辛くもなく、あっという間に赤門の前を通り、2次試験会場の東京大学法学部館の中にいた。
緊張はあまりなかった。
自信があったからだ。
自分の学力に対してではない。
自分の1年間の努力に対してだ。
2回目は…余裕だった。
合格者を発表するサイトに自分の番号があったときは、一瞬膝カックンをされたように足に力が入らなくなった。そしてまるで重力がなくなったかのように体が軽くなり、うまくバランスが取れなかった。
そして僕はすぐに応援してくれていた友達に連絡した。親も含め、みんなが祝福してくれた。それまでは重圧でしかなかった周りの声が、その時は僕に浮力を与えてくれた。
この場を借りて、感謝を伝えたい。
きっとみんなが期待してくれなかったら、僕はここまで這い上がれて来れなかった。
結局、負けず嫌いなのであろう。
『みんなの期待する自分』というライバルに負けたくないがために、あんなに頑張れたんだと思う。
ありがとう。
こうして振り返ってみると、僕の受験人生には数えきれないほどの分岐点があり、その時は間違っていたと思うような判断も、今となってはじめて正解だと分かることも多い。
過程が先か、結果が先か、
鶏が先か、卵が先か、のようだが、僕は結果が先なのではと思う。
結果が出たからこそ、その結果につながる過程は意味を持ちはじめる。
僕が東大に入ったからこそ、今までの判断は『東大に入るための判断』になるのだ。
そういえば、ずっと『減少嫌悪症』などというダサい言葉を使っていたが、僕はずっとこの症状に苦しめられている、
と、思っていた。
が、今となってはこの症状がなければ僕は東大になど入れていなかっただろう。
今は、自分の長所なのではないかとも思ってきている。
そうすると、『減少嫌悪症』というのはどうしてもネガティブに聞こえてしまって相応しくないかもしれない。
もっとポジティブに聞こえるいい言葉はないかな…
…
…『単調増加症』…
うん、こっちの方がいいかもしれない。
さらにダサくなってしまったが。
まだまだ話し足りないが、このままでは終わりそうにないので、そろそろアシキに入った理由について話そうと思う。
もともと、テント列などで説明を受ける前まではサッカー部かフットサル部に入ろうとしていた。
少し次回号のネタバレになってしまうのだが、実は僕は高校の時、満足のできる引退をできていなかった。
そんなわけで、まだ本気でサッカーをやりたい気持ちが強くあった。
だがテント列の時に、週6であることと、授業後毎回本郷まで行かないといけないことを聞き、少しずつアシキへの気持ちは薄れていった。
最初はフットサル部に何度か練習参加に行った。
そこでもキーパーをやったのだが、思ってたよりも奥が深く、サッカーのキーパーとは少し違っていた。
特にサッカーに比べ、足でボールを触る頻度が極端に少ない。
ゴールキックもなくゴールラインから出たらスローで初め、またキーパーへのバックパスの回数も限られている。
体験練習では、一度も足でボールを触る練習をしなかった時もあった。
やはりサッカーをやっていた以上、足でボールを扱いたかった。
綺麗にトラップできた時の気持ちよさ、ロングボールをぴったり相手の所へ落とせた時の気持ちよさ、そして何よりミドルシュートがサイドネットに突き刺さった時の気持ちよさ…
そうしたものを求めていた自分にとって、フットサルのキーパーは少し違っていた。
結局、フットサル部はやめ、サッカーのサークルに入ることとなった。
そこではFWをやっていた。
やはりキーパーにとってFWというのは最も憧れるポジションだからだ。
そのサークルはつまらなかったわけではない。
だが飲みサーだったそのサークルは、当然僕のような人間は受け付けていなかった。
結局2回しか行けなかった。
そうしてどのサークル部活にも入らず、ぶらぶらした時期が数週間続いた。
友達に誘われ、フットサルサークルとバドミントンサークルにも行った。
フットサルサークルではキーパーではなくフィールドをやった。
まあまあ楽しかった。
けどやはり、ロングボールを蹴れず、サークルレベルでは本気で体を当てるのも躊躇われたので、少し物足りなさはあった。
しかし、この、フットサルサークルに体験に来てなければ、もしかしたらアシキには入ってなかったかもしれないがまあその話は後ほどしよう。
バドミントンサークルの方は普通に楽しかった。同クラの人と週2くらいで通っていた。一万ほどするラケットも買い、本気でコミットしようかなと思っていた。
だがしばらくして、やはりサッカーボールが恋しくなった。
そんな時だった。
上クラの先輩の(今となってはもう同期だが)Uから、アシキの練習に参加してみないかと連絡が来た。
その時はまだ入る気はあまりなかったが、一度参加してみることにした。
一度参加してみて入らないと決めた方が、後から後悔しなくて済むだろう。
その程度の気持ちだった。
その何日か後、まだアシキの練習に参加する前である。
先ほど話したように、フットサルサークルに行った。
そしたらそこに、アシキ一年(新2年)のD橋本がいた。
実はD橋本とはフットサル部の新歓練でも会っていたので、すぐに仲良くなった。
そこでアシキについて色々聞いていくうちに、徐々にアシキに気持ちが傾いていった。
そして迎えた初めてのアシキの練習見学。
恥ずかしいことに、僕はバドミントンで肩を痛めていたので参加はせず見学したのだが、全てが思ってたのと違った。
なんといっても一番驚いたのが、その練習環境だ。
中高公立だったので当然人工芝などではなく土のグラウンド。しかも高校に関しては土というより砂のグラウンドであり、特に汗をかきやすい夏の時期などは、髪の毛に砂がくっついたり、鼻水が砂で黒くなったりと大変だった。そんなわけで、たまに人工芝で試合できるような時はとても楽しかった。
その人工芝で毎日練習できるなんて信じられなかった。
しかも運のいいことに、アシキの練習を見学したり参加した時は毎回決まって水曜日の御殿下グラウンドだったので、その時はまだ農グラの存在を知らなかった。
その日は見学しかしなかったが、どんどんアシキに入りたい気持ちが強くなっていった。
そして次の週の水曜日。
その日は普通に参加したのだが、練習が始まる前に先輩に入りたいですと言って入った。
別に練習前から入ることを決心していたわけではない。
だが、気づいたら『入ります』と口に出していた。
きっと本能的に、ここが自分の居場所であると感じたのだろう。
他のキーパー陣は、僕が最初見学しに来た時もただボール拾いをしていただけだったので、まさか入らないだろうと思っていたらしい。
まさか僕も入るなんて思ってもいなかった。
そうして、僕のアシキライフが始まったのだった。
さて、今までのサッカー人生について、そしてアシキについてもっと語りたいことはあるのだが、字数も多くなってきたしそろそろ締めようと思う。
東大に合格したことにせよ、アシキに入ったことにせよ、今まで数え切れないほどの分かれ道があり、その一つでも違う方に進んでいたら今の自分はいなかったかもしれない。
もちろん、違う方を選び、異なる人生を生きていたとしてもそれはそれで楽しかったのかもしれない。
しかし、こうして東大アシキに入り、素晴らしい仲間たちに出会うことはなかったであろう。
そう考えると、サッカーと人生は似ている。
サッカーも試合中幾度となく選択を迫られ、その選択の積み重ねによって結果が決まる。
だからサッカーはやめられないのかもしれない。
早くサッカーがしたい。
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