20歳、初めてのとうもろこし。

長谷川希一(3年/MF/福島高校)


渋谷のエスカレーターを降りたところに見える新聞紙売り場は、地下に繋がっている。

 

よく潰れないでいられるものだとずっと思っていた。多分家賃も高いだろうし、新聞もあまり売れていなさそうだし。落書きだらけで景観的にも邪魔であろう。何より店のおじさんは果たして楽しいのだろうか。ずっと座っているだけではないか。それでいうとマーク下で猫カフェのティッシュ配りをしているあのお姉さんも相当つまらなそうだ。プラカードみたいなものもぶら下げる羽目だ。あまりに単純単調な仕事をよく続けられるものだと、毎日思いながら通り過ぎていた僕であったが、ある日僕は見てしまった。

 

あの店の内側に階段があることを。

 

そして僕は知ることになる。あの不自然な位置にあの店が存在し続けている意味を。

 

 

 

午前7時の渋谷は人が少ない。午前5時から6時にかけて、朝帰りをする人々を一通り吐き出した後、渋谷は束の間の静寂を纏う。その静寂の中を、僕はGSSに向かうべく歩いていた。GSSとはア式が運営している文京区の子供たち向けのサッカースクールだ。8時には本郷に集合していなければならず、久我山住みの僕は大変な早起きを強いられる。とはいえ久我山にはなぜか急行が止まるので、以前浜田山に住んでいた時よりはマシだ。

 

井の頭線から半蔵門線へと乗り換えるために、今日もいつものように新聞紙売り場の横を通り過ぎる。その時、店の裏の入り口が空いていることに気づいた。

 

そして見えてしまった。

 

地下へと続く階段が。

 

 

 

◼️

中に入りたい衝動に駆られる。

けれどもGSSに遅れてしまいそうだ。

 

おがさんに「きいちー、遅くないか?」と言われ、利重さんに「はいおはよお、うーん😩」と渋い顔をされてしまう。僕は最近毎週遅れてしまっている。見慣れた光景だ。容易に脳内再生できる。

 

だが体はすでに少しずつ階段の方へ近づいている。無意識のうちに足が進む。

 

 

 

◼️

中に入ると、少しタバコ臭い。

 

恐る恐る階段を下っていく。下るにつれて、だんだん暗さを増していく。

 

ふと、立ち止まる。

 

何やら女性の笑い声が聞こえてくる。何か話しているようだ。

そっと耳を傾ける。

 

今思えば、浅はかだった。

入るとき、ドアを閉めるのを忘れていた。

ハッと後ろを振り向いた瞬間、頭に重鈍な衝撃が走った。

微かに目に映る人間の姿を見ながら、僕は気を失った。

 

 

 

気づくと、僕は自宅から最寄りの久我山駅への道中にいた。一瞬状況が飲み込めない。てかやばい、GSSに遅れてしまう!もっと余裕持って家を出たはずだけど!?大急ぎで駅へ駆ける。

 

 

 

遅刻してしまった。そしてしっかりと怒られてしまった。

が、GSSは今日も楽しい。朝起きた瞬間は限りなく行きたくないが、終わった時には毎回来てよかったなと思える。コロナが落ち着き、御殿下で活動を再開してから、サッカースクールの会員は増え続け、サッカーコート一面をフルに使ってもスペースが足りなくなってきている。うれしい悲鳴だ。

 

僕が担当している高学年・大人クラスにも、毎週のように体験入会の方がいらっしゃる。今週もいらっしゃった。今日来てくださった方は、30代ほどの男性で、お子さんは小学校クラスに預け、ご自身は大人クラスでサッカーをしに来たそうだ。そういった方は多い。子供も大人も楽しめる場所というのがGSSの人気の理由の一つであろう。

 

低学年クラスはみんなの元気が溢れてしまい、秩序が崩壊し混乱を極めることもしばしばだが、高学年・大人クラスともなると自治がなされ、もはや僕が取り仕切らずとも勝手に進行されていく。

 

なので体験の方がいる時は、体験の方とコミュニケーションをとり、入りやすい雰囲気を作ることに専念している。

 

 

「お上手ですね、サッカーやられてたんですか?」

「そうなんです。もう何年も前の話しですけどね」

「現役かと笑。ここら辺にお住まいなんですか?」

「いえ、全然。家は久我山なので結構遠いんです」

「え僕も久我山です!どうしてわざわざここに?」

「近くにこういうのが無くて、探していたんです」

「急に親近感湧きました笑。最近引っ越してきて」

「じゃあペルタンにはまだ行ったことないですか」

「ペルタン?お店ですか?聞いたことあるような」

「ガールズバーです。駅からちょっとの所にある」

 

閑静な住宅街に輝きを放つネオンの看板には見覚えがあった。しかも毎日夜になると可愛い女性たちが店から出てきてティッシュ配りをし始める。僕も何度か見かけたことがある。というか最近タイプの店員さんを見つけた僕は、毎日早めに帰宅してティッシュをもらいに行っている。もう8日程経っただろうか。これはもちろん誰にも秘密だ。

 

「あ、あれか!ちょうど帰り道の途中なんです!」

「そうなんですね。あの店の噂、聞きましたか?」

「噂ですか、?裏で暴力団が関わっているとか?」

「違います笑あの店ティッシュ配ってるでしょ?」

 

そこでその男性は一呼吸おき、僕に近づいてヒソヒソ声になる。

「あのティッシュ、10日連続でもらうとV I P席に招待されるんだって」

「え!そうなんですか?」

そんな噂があったことを初めて知った驚きはもとより、もうすでに8日程連続でもらっているためゴールがもう目の前に迫っていることによる驚きで、少し大袈裟な声を出してしまった。

 

「僕も何回も試しているんだけど、絶対どっかのタイミングで途切れるんだよ。ある時は帰りが遅くなっちゃってもうティッシュ配りが終わっていたり、ある時は他の人と話していて貰えなかったり。それで、こんなに貰えないってことは、やっぱり本当なんじゃないかって思い始めてね。」

「そんな小説みたいなこと本当にあるんですね」

「長谷川くんも試してみてよ。そしてVIPルームの感想を教えてほしい。ほら、僕は奥さんも娘もいるし、もし招待されたとしても怒られちゃうからさ」

 

だったらなぜ何回もトライしているのかと言いたくなるが、初対面なので我慢しつつ、やってみますと社交辞令風の返事をして、その場を収めた。

 

 

 

その日の夜、久我山駅に着くと、いつものようにガールズバーの店員さんがティッシュ配りをしていた。僕はあと2回貰えば何かが起こるらしい身であるが、そんな動揺並びに興奮は一切表面に出さず、いつものようにまるで興味がないように通り過ぎようとする。すると狙い通り声をかけられる。

 

「飲み放題4000円でーす、どうですかあ?」

 

僕は反省している、いつもより食い気味に受け取ってしまったことを。

平常心を保つのは難しい。

とはいえこれでリーチとなったらしい。

家までの帰路を、ドキドキしながら歩いた。受け取ったポケットティッシュの中身を念入りに調べたが、入っているのはティッシュだけだった。

 

明日も受け取れば、本当にVIPルームに招待されるのだろうか。

少し楽しみにしている自分がいる。

 

 

 

次の日は、いつもより少し早めに起きた。今日は大学で学科ガイダンスの日だ。学科の人とは初めて顔を合わせる。少し念入りに準備をして気合いを入れたくもなる。

 

ようやく僕も後期課程が始まるのだな、と感慨深くなる。

 

せっかく久我山に引っ越したというのに、駒場には急行が止まってくれない。そのせいで永福町で急行乗り換えを待つ羽目だ。ちなみに永福町で乗り換えても下北沢で乗り換えても着く時間は一緒だということは付言しておく。

 

「えー全員集まりましたかね!じゃあ始めていきましょう!」

 

会場に指定された駒場8号館の教室で、主任らしき教授が話し始めた。この場の中で明らかに一人だけテンションが高い。元々こういった役職が好きなのだろう。PTAとかも積極的に参加するタイプに違いない。

 

僕が通う教養学部表象文化論コースは、学部生が10人ほどしかいないので、全員集まったと言われてもそんな実感がしない。比較的小さめの教室でも、容易に空席を見つけることができる。

 

一通り説明が終わったタイミングで、自己紹介をする流れになった。ぐるっと周りを見渡すと、可愛い子が一人いる。僕はこの子だけを見て自己紹介をしようと決意した。

 

まず最初に教員が自己紹介をしていく。この際教員には興味がない。早く終われと思いつつ、どうやってあの子に近づこうか考えている。まずは自己紹介で笑いでも取って一発かましてやろうか。

 

「えー、主任の田中恵美です。主任と言っておきながら大変申し訳ないのですが、今年から急遽サバティカルを一年間いただくことになりまして、みなさんとお会いするのは今日が最初で最後なんです。なのでせめて明るく振る舞おうと思って!なんでも聞いてくださいね」

 

司会役を務める主任が、自己紹介でも先陣を切る。主任という役職を持つにもかかわらず、この人はサバティカル(研究休暇)を取るらしい。明るい人なのかと思っていたら、無理して明るく振る舞っていたのか。心なしか雰囲気も重めだ。元々あまりこういう役割は得意でないのかもしれない。

 

ふと、主将を務めながら途中で退部した高校時代を思い出した。一月に成人式でサッカー部員と再会を果たしたが、依然気まずさを感じてしまった。

 

そんなことを思っているうちに、気づけば僕の番が回ってきた。やばい何も考えていない。

 

「えーっと、、長谷川希一です、。えー、文科三類で、えー、サッカー部に所属していてサッカーばかりやっています。今は、新歓頑張ってます、。えー、そうですねえ、えー、あ、以上です。よろしくお願いします、。」

 

最悪だ。何もできなかった。強く意気込んだ分落ち込みも激しい。自己紹介でかますことはできず、かえって陰キャを晒す結果となった。

 

あの子に醜態を晒してしまった。その子は僕の二人後くらいに、堂々とした挨拶をした。美鈴ちゃんと言う名前らしい。まるで世界中の人と自己紹介をこなしたかのような落ち着きが伺える。

 

あの子との距離が一層離れていく感覚がする。昨日殴られた頭がズキズキと痛む。

 

 

 

「床に頭をぶつけた!?お前もっとマシな嘘つけよ」

「いやほんとなんです。だから今日はDLします、。」

 

マーク下の新聞売り場の裏口に隠された階段を下っていたら、後ろから殴られました。なんて言う訳にもいかないので、今日部活を見学する口実は、床に頭をぶつけた、の一点張りで行くことにした。もっとマシな嘘をつけというのはごもっともである。DLというのはdisable listの略で、要するに離脱するということだ。

 

いつもはドが付くほどのSな米田さんも、頭を打ったとなるとキツいリハビリメニューを課してはこない。

初めて、外からただぼーっと練習を眺めた。

 

学科のあの子、どこかで見たことがあるんだよな。。主にそのことを考えていた。結局部活中はそのことばかり考え、部活が終わった後も、電車の中でも考え続けた。

そして久我山駅に着いた時、分かった。

 

「飲み放題4000円でえす!どうですかぁ〜?」

「あの、、、今日ガイダンスにいましたよね、?」

「え??あ、長谷川さんじゃないですか!」

「え、名前、、。はい、長谷川です、、」

「ちょっとお店で話しましょうよ!二人で話したいって思っていたんです!」

「え、あ、はい、、。わかりました」

 

あんなに渋い自己紹介をしたのに、なぜか彼女は僕の名前を覚えていてくれた。正直テンションが上がる。そして噂通りというべきか、はたまた偶然というべきか、僕は10回目にV I P席に通されたのだった。

 

 

 

店内は意外に広く、奥まで繋がっている。そしてV I P席はフロアの一番奥にあった。V I P席に着くまで、彼女は一瞬も話を絶やす事なく会話を続けさせた。ガイダンスの自己紹介で見せたトークの落ち着きと体力は、このガールズバーで培ったものなのだろうと今更納得する。

 

V I P席、というかV I Pルームは、二人で使うのには勿体無いくらい広かった。ガールズバーらしからぬ、壁一面の書棚が印象的だった。その書棚と向かい合う形で置かれた

広いソファに二人で座って、それはそれは楽しい時間を過ごした。ガールズバーなのでお酒も飲んで、気分も上がり話も盛り上がる。特に後期教養学部についての悪口で盛り上がった。つまり、なぜ後期教養学部は駒場キャンパスにあるのか、ということについて。後期教養は底点も高く進振りも難関なエリート学部であるのに、たった一点、駒場にあるという理由だけで平凡極まりない本郷の民から馬鹿にされている。

 

「本郷に行けなかった者たち」「本郷足切り乙」と馬鹿にされるのはかなり腹立つ。実際、本郷の建物はかっこいい。あの建物で学んでみたいなと思ってしまうから厄介だ。しかも本郷で活動しているア式部員の私ともなれば、なおのことだ。毎日の移動時間も馬鹿にならない。帰りが24時近くになることもしばしばだ。

 

一通り盛り上がったところで、僕は美鈴ちゃんに「どうしてここで働いているの?」と聞いてみた。するとその瞬間、美鈴ちゃんの顔が曇る。一瞬で部屋の空気が重くなる。地雷を踏んでしまったようだ。一瞬でお酒が抜けていく。

 

「あ、お酒なくなっちゃったね。取ってくるね。」そう言って美鈴ちゃんは席を立った。

 

僕はぐったりと背もたれに寄りかかる。やってしまった。金銭的な理由とか、理由はきっとあって、でもそれは聞いちゃいけないことだったんだ。一度トイレに行って落ち着こう。そして美鈴ちゃんに謝ろう。

 

ヨイショと立ち上がって、かなり酔っていることに気づく。足がモタつく。そもそもお酒を飲むこと自体久しぶりだ。体が思ったように動かない。バランスを取ろうと向かいの書棚に手をかけた瞬間、僕は誤って転んだ。

 

転んで下がった視点から、見上げる形で書棚を見ると、書棚の奥に何やら部屋のようなものがあるのが見えた。

 

急に脳がクリアになる。本日2度目の酔い覚めだ。僕は立ち上がって奥に進む。そこで僕は知ることになる。彼女がここで働いている意味を。

 

 

 

奥に入ると、思わず絶句してしまった。渋谷の新聞紙屋で見たのと全く同じ、地下への階段があったのだ。そして近くには地図もあった。東京都の地図だ。そこに2本の線が引いてある。これはもしかして、と考えていた瞬間、背後に悪寒を感じた。

 

「見ちゃった、?」

 

振り返ると美鈴ちゃんが立っていた。呆れた、というより諦めたと言ったような表情でこちらを見ている。

 

「ねえ、この地図ってどういう意味?」

「あなたにも関係することよ。だからあなたを待っていたの。毎日ティッシュ配りなんかしてね。」

「それってつまり、、」

僕に急に眠気が襲う。どうして。視界がぼんやりとしていく。

「ごめん、睡眠薬入れちゃった笑。この件に関わること、あまりおすすめはしないわ」

 

 

 

太陽の光が肌に刺さって痛い。さらにLUSHの甘い匂いが鼻を刺す。目を覚ますと渋谷にいた。

 

 

いつの間にか、僕は決意をしていた。そして分かった。渋谷で目覚めるだろうとも。

 

人通りはまあまあ多い。昼頃だろうか。僕は再びマーク下に向かう。

 

 

 

新聞紙売り場が見えた。だが目的はそこじゃない。さらに進む。今日もやっている、ティッシュ配り。

 

「猫カフェです。いかがですか?」

「あの日、僕を殴ったのはあなたですよね?田中教授」

 

強めの語気に、周りの人もどうしたと振り向く。

 

頭から爪先まで舐めるように僕を一瞥した後、彼女は何もなかったかのように

「ティッシュ、どうぞ」とぶっきらぼうに言った。

 

配られたティッシュを一瞥し、

「ありがとうございます」と僕も冷静さを取り繕って、マーク下のパチンコ屋の方向に歩き出す。そして角をすぐ曲がりぐるっと回って、新聞屋の裏口へとそっと近づく。

 

「待っていたわ。少し話しましょ。」

受け取ったティッシュには、そう書いてあった。

 

 

 

猫カフェのプラカードを脱いだ田中教授が、新聞屋の例の地下階段に案内をする。非常に慣れた手つきだ。そして階段をどんどん下っていく。数分して、地下に出ると、トンネルの中に出た。

 

「あなたもきっと気に入ってくれるわ。」

 

目の前には、路線が伸びていた。

 

「東大直通線、ですか」

「よく知っているのね。ええ、そうよ」

「どうしてこんなことを」

 

井の頭線駒場東大前駅と南北線東大前駅を直通させる。東大の二つのキャンパスを地下でつなげるという計画が、実行されようとしている。

 

「正直言って、あなたたちは邪魔なのよ」

「え、邪魔?」

「あなたたち後期教養学部生が駒場キャンパスにいると、雰囲気が下がるわ。駒場は溌剌とした一年生と、知り尽くした顔をして本当は何も知らない二年生で構成されるべきよ。本当に知り尽くしたあなたたちがいると興ざめなの。」

 

「そんなこと僕たちに言われても。」

でも、確かに温度差を感じることはあった。

 

「もともとあなたたちは、駒場の秩序を守るために駒場に配置されたわ。でないと駒場は茶髪男子ばかりの下品なキャンパスに成り下がってしまうから。でもその体制を変えようとした男がいるの。それが」

 

「私だ。」

 

背後から声が聞こえた。トンネルの反響で、不気味に聞こえる。

 

振り返ると、見たことのある顔があった。

 

「新聞屋のおじさん!?」

 

「来たんですね。総長」

 

「ああ、早くエレベーターを整備しないとな。ここまで階段でくるのは年寄りには堪える」

 

「総、長?」

 

「長谷川君、かね。話は聞いていたよ」

 

「この人が、元67代東大総長の赤井さん。」田中教授が口を挟む。

 

「東大線建設計画の発案者。この計画のために、総長をやめたのよ。」

 

「それで新聞屋で働いていたんですか?」

 

「まあ、働く必要はなかったんだけどね、あの新聞屋はカモフラージュみたいなものだし、政府が管理しているから売上も必要ないし。でも総長はもともと人と関わるのが好きで、どうしても店頭にいたい、っていうもんだから、働いてもらってるのよ」

田中教授の説明に、赤井総長が微笑みながら頷く。

「息子とは話したかね?」

 

「え、?」

そして気づく。あ、やっぱりそうだ。赤井さんという名前には聞き馴染みがあった。

 

「!サッカースクールに体験にきた方ですか!?」

 

赤井総長はまたしても微笑みながら頷く。

 

「もともとは息子さんのための計画だったの」またも田中教授が話す。

 

「ほら、教養学部って本郷の学部生から馬鹿にされがちでしょ、赤井総長の息子さんも後期教養だったんだけど、息子さんはいじられすぎて不登校になってしまってね。一種の登校イップスに陥ったわ。」

 

田中教授が更に続ける。

「今まで10年間、この計画を進めてきたわ。でも、私たちには時間がないの。赤井総長の娘さんが卒業する前に、どうしても実現させたいの」

 

「美鈴はわしの唯一の希望だ。美鈴も後期教養に入って、協力してくれると言っている。卒業する前に、なんとか実現させたい。そのためには協力者が必要なのだ。そこで君に白羽の矢を立てた。」

 

「美鈴ちゃん、、!やっぱりあなたたちの仲間だったんですね。」

 

「ガールズバーなんかで働かせたくはなかったのだがな。美鈴には申し訳ないと思ってる。でもそれも全て君のためだ、長谷川君。」

 

「、、僕に協力しろってことですか?」

 

 

 

今日聞かされた情報はあまりに膨大かつ濃密で、

その日の授業中、部活中、さらには帰宅後まで、今日の話を何回も思い起こした。

 

それだけ時間がかかった。理解するために、そして受け止めるために。

 

ただの住宅街に過ぎない久我山に急行が停車するのは、久我山に代々根を下ろす赤井家の影響であること。

 

駒場東大前に急行が止まらないのは、赤井総長の意向で、東大線が直通した際に賛同を得られるよう、あえて急行を止めずに東大生の不満を掻き立てていること。

 

そして、僕たちには時間がないこと。

 

 

 

ここからの話を、僕はすることができない。

 

 

ただ、いま、この瞬間も、教養学部が本郷に近づいているのは確かだ。















※この物語はフィクションです。実在する人物名、地名、特に大学名には一切関係がありません。

 

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