人間は考える葦である
水木郁士(2年/テクニカル/高岡高校)
2025年6月某日。入部から8か月。feelingsの締め切りが近づき、パソコンと向き合う時間が増えた。これまで自分の思いを文章にすることがなかった私にとって、何を書けばいいのか分からず、筆が止まり続けた。けれど、この機会に一度、自分のサッカー人生を振り返り、「なぜ今ア式にいるのか」、「なぜ“考えるサッカー”にこだわるのか」を言葉にしてみたいと思う。
私は富山県砺波市出身。年中からフットサルを、小学2年生からスポーツ少年団でサッカーを始めた。所属していたチームは正直言って弱く、負け慣れてしまい、悔しさを感じなくなっていた。一方、選抜チームのトナミサッカーアカデミーに入ったときは違った。合宿での高揚感、勝利の味、そのすべてが今も記憶に残っている。
「もし強いチームにいたら、今もプレイヤーとしての道を進んでいたのか?」そんな問いがよぎったこともあった。しかし、負けの中で育ったからこそ、私は「なぜ勝てないのか」や「勝つチームはどんなチームか」を考えるようになった。それが私の原点となった。
中学時代は、私にとってサッカー人生の大きな転換点だった。顧問の先生が来てから部は強化され、私の入学時には県大会上位に入るようになっていた。戦術的には4-1-4-1が多用され、サッカーの原理・原則が教え込まれていた。それまで感覚だけでプレーしていた私は、「考えてプレーする」ことの重要性に衝撃を受けた。
この頃から私は、育成年代の指導者となって、「考えてサッカーをする」こと、「サッカーは〈知性〉のスポーツである」ことを子どもたちに伝えたいと思うようになった。
さらに、一つ上の先輩にはその後富山第一高校で1年生から選手権に出場し、3年次には10番を背負う選手がいた。彼の放つ20~30mのパスをピンポイントで受けた感覚は、今でも忘れられない。
さて、私自身はと言えば、本職SH、サブポジにSB・FW・OMF。特徴は足が速く、体力はあるが、足元の技術は凡庸。要するに、身体能力に頼る少しサッカーが分かる程度の平凡な選手。ほとんどが先輩で構成されていたメンバーだったので、2年でベンチ入りできるかできないか、3年でスタメン格になるパターン。ポジションを見ても「便利屋」的な立ち位置だったことがよく分かる。
高校は富山県内トップ3の進学校、高岡高校に進学。「サッカーはもういいかな」と考えていた私は、大学進学を見据えて緩いと噂の弓道部に入部した。(ちなみにそこそこセンスがあった)
だが、1年の秋。担任との進路相談の中で、「指導者になるなら高校サッカーの経験は必要じゃない?」という一言に背中を押され、サッカー部を“兼部”するという奇行に出た。
そして、復帰後の私は、一つの疑問を抱いた。「頭のいい人間なら、頭のいいサッカーができるんじゃないか?」と。
そして、復帰後の私は、一つの疑問を抱いた。「頭のいい人間なら、頭のいいサッカーができるんじゃないか?」と。
結果は明白。全くそんなことはなかった。
プレー中に受け取る情報量は膨大で、それを瞬時に判断・行動に移すのは、決して机上の学問のようにはいかない。しかもそれを“足で”実行するのだから、なおさらだ。つまり、頭の良さだけでどうにかなる世界ではなかった。
一方で、「頭で戦える」領域があることも発見した。プレーを支える「知性」にこそ、自分の可能性があると知った。
そうして私は、サッカーを「考える」対象として見るようになった。
中学でサッカーの考え方を学び、高校で知性の限界と可能性を感じた私は、「サッカーを考えること」に魅了されていた。そして、「アナリストの知識を持たない指導者では、データを活かせず、来たる次の時代に置いて行かれる」と考えるようになった。必然的に、大学ではスポーツ系の学部を志し、家庭事情もあり国公立に絞られた。
共通テストの英語が崩壊し、第一志望を断念。「田舎の強豪」広島大学か、「都会の古豪」東京学芸大学か。迷った末に、選択肢の多さから東京学芸大学に進学した。
入学後、学芸大サッカー部に見学に行くも、分析活動を行う集団はなかった。コーチから個別に教えてあげると声をかけていただいたが、学生同士で切磋琢磨できる「ア式」の存在を知っていた私は、迷わずア式を選んだ。
続いて、私のサッカー観について述べていこうと思う。興味のない人もいるだろうが、少々お付き合いいただきたい。
私の哲学は、元々「勝てるサッカー」だった。負け続けた少年時代の反動か、「勝ったサッカーが正しい」という、教員免許取得を目指す者としてはいただけない極端な“勝利至上主義”に陥っていた。
それを変えたのが、小説『レッドスワンシリーズ』(興味ある人いたら貸します)との出会いだった。以来、私の考えは「負けないサッカー」へと変わった。技術的に劣るなら、ボールを持たず、守備から構築し、セットプレーに力を入れる。時間をコントロールし、APTを短縮することで失点の可能性を最小化する。観る人には退屈かもしれないが、失点さえしなければ、たとえ格上だろうとリーグ戦では勝ち点を得られ、トーナメントではPK戦に持ち込める。極端だが、現実的で合理的な考え抜かれたものだと思う。
「人間は考える葦である」
アオアシで知ったパスカルの言葉が示す通り、私たちは脆くとも、考える力を持つ。サッカーもまた、〈知性〉のスポーツだ。「考える者」が強くなれるこの世界で、私はこれからも問い続けていく。
ア式の一員として、私は今日もサッカーについて考え続ける。
葦のようにしなやかに。思考することをやめずに。勝利へ、そしてその先へ。
コメント
コメントを投稿