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利他の心

永田祐麻(4年/テクニカル/麻布高校) 小さい頃から、ボールを蹴ることが好きだった。 幼稚園に入る前、ロンドンにいた頃も、公園で同年代のイギリス人と3人でボールを蹴っていたし、幼稚園でもグラウンドでの遊びといえばボールを蹴ることだった。 小学校に上がると、学校のサッカーチームに迷わず入った。入った当初は、自分が一番うまかったように思う。チーム自体がそこまで強くなかったこともあり、レベルの高い相手とやる前に試合はいつも負けていたから、自分よりももっとうまい選手のことを知らなかった。上の学年に混じって練習や試合をする時も、自分の方がうまいことがほとんどで、自分は圧倒的にうまいのだと思っていた。 周りに追いつかれ、追い越され始めたのは、小5くらいの頃だったように思う。僕はただボールを蹴るのが好きだっただけで、ちゃんとサッカーに向き合って練習することもなかったし、トレセンなどの選考会に行くこともなかった。同期がトレセンの選考会を受けて刺激をもらっている間、僕は塾に通っていた。そうしているうちに、いつの間にか実力は追いつかれていた。 中学に入ってもサッカー部には入ったが、どうやったらうまくなれるのだろう、なんて考えてはいなかった。真面目に練習する時間よりも、壁に向かって自由にボールを蹴っている時間の方が圧倒的に楽しかった。当然そんな姿勢で試合に出られていたのは最初のうちだけで、中2になってうまい後輩が入ってきてからは、ほとんど試合に出ることはなかった。 中3になり、ベンチに座っているだけで最後の大会に負け、そのまま深く考えることもなく高校の練習に参加し、部活を続けることを選んだ。 高校の練習に参加するようになってすぐの中3の夏、怪我をして、一年半ほどサッカーができない時間が続いた。当時は、自分がボールを蹴れないのに毎日練習に行き、同期や先輩が練習するのを眺め、マーカーやスクイズを置き、ボール拾いをする地獄のような生活を送っていた。相変わらず、うまくなりたい、強くなりたいという気持ちを持っていなかった僕は、リハビリも適当にこなしていたので、怪我がさらに長引くという悪循環に陥ってしまった。 こんな調子だったので、今振り返ってみても、なんでやめずに毎日練習に行き続けられたのか本当にわからない。そんなこんなで高1の終わりか高2の頭くらいに復帰はしたものの、怪我をかばいながらだったため...

まっさら

歌俊亮(5年/MF/浅野高校) 卒部feelingsとなると何を書くのが良いのだろうか。   ポイントを抑えてサクッと書いたり、他の部員と違うテイストで書いたりしようと思ったが、どうも性に合わなかった。そんな器用じゃないし。スカしている感が出るのは嫌だった。国語的能力が足りなくて書けなかったとも言える。髙木の言う通りエセ読書家なのかもしれない。   ということで、自分らしくありのままの気持ちを書いていこうと思う。   一年目はただひたすらサッカーが楽しかった。高校の頃ア式に憧れる大きな要因であり、強く興味を惹かれていた山口遼監督はもう居なかったが、元プロで今では大人気解説者となった陵平さんが監督であったため、刺激的であった。A行くたびに怪我をしたし、密かに負けたくないと思っていた谷はずっとAにいたし、自分も思ってたよりは通用しなかったけど、案外やれた。とはいえ、持ってる正解は高校の時に積み重ねたものだけだった。その高校の時の正解も、受け身で、今考えるととても視野が狭いもので、リスクリターンが見合わないものも多かった。   2年目はそんな受け身のサッカーがつまらなくなった。このままで良いのかわからなくなった。4年間サッカーに捧げて良いのか悩んだ。よく考えずに入部したツケを払わされた。全くサッカーをせず1年が終わった。   3年目はその答えを表していた。結局サッカー以上のものなどなかった。辞める勇気がなかったとも言えるが。シーズン初め、本気でやることを誓った。とはいえこれまでと同じ正解でサッカーしても、限界であった。   この年は、色んなサッカーを見た。ブライトン・シティ(ギュンドアン)・レアル・往年のバルセロナ・Jリーグなどなど、、 おかぴさんやふるさん、よしもとなどの影響で、自分のサッカー観を無理やり広げられた。ようやくア式に入ったような気がしたし、ア式沼に嵌められた。サッカーおもろすぎる。   そうして知ったのだが、この世には理論的な判断を下し続けるサッカーがあるらしい。ポジショナルプレー。グアルディオラ監督率いるシティやバルセロナのサッカーがその最たる例だろう。高校で教わったものの延長線上にあるものだった。高校の時よりも体系的で、どの事象も説明をつけられるものだった。感動した。また、自分のプレー...