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最後の機会

  前田脩斗(1年/DF /県立浦和高校 ) 「本気でやるのが怖いのか?」 これは私が今回の feelings を書くにあたって自らの人生(主にサッカー)を振り返る中で感じたことです。実際には前から薄々感じていたのかもしれません。しかしこれまでは何となくこのことから逃げていたように思います。           ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――         私は埼玉県の北部(詳しいところはわからない)で生まれ、今に至るまで深谷市というところで育ちました。父がサッカーを好きだったこともあり私のこの名前は生まれるかなり前から決まっていたそうです。その名に応えるように小さいころからボールを蹴り、5歳の時に地元の少年団に入りました。特別強いわけでもないチームであったため人も少なく、私は4つ、5つ上の学年の試合に出してもらうこともありました。同じく5歳の時からフットサルもしていたこともあり多少うまかった私はかなりちやほやされていました。                 今思うと、小学校3年生あたりが一番サッカーにひたむきに取り組んでいたように思います。夜中に車のライトをつけてもらい何時間もリフティングの練習をし、失敗すると付き添ってくれた母のせいにしたり、毎日夜父にボールを投げてもらいトラップの練習をしたり、ブラジル W 杯は全試合録画し三周は見たと思います。このころは純粋にサッカーを楽しんでいました。以降少しずつサッカーへの向き合い方が変わっていきました。       同期は卒部までに8,9人いましたが、私のあと割とすぐ入った二人は特に良き友でありライバルでした。これまでは貯金によって多少彼らよりうまかったけれど、小5になると彼らは一つ上の代の試合に主力として絡む中私はほとんど試合に出ることはありませんでした。入団が一番早いことでキャプテンをしていたこと、これまでちやほやされていたこともありとても複雑な心境でした。 このころから、「守備ができない」「特徴がなくポジションが定まらない」と散々言われました。試合に出られずや...

ブラコン

大久保璃歩(1年/マネージャー/恵泉女学園高校) 2歳上の兄が所属していたサッカークラブでは父がパパコーチとして子どもたちを指導しており、母も兄の試合を観るためにいつも車で各地の遠征に付いていっていました。小さい私のことを1人置いていくわけにはいかないので、私も母と一緒に兄の応援に行くことが、兄が中学受験に本腰を入れ始める時期まで続きました。 他にしたいこともありませんでしたが、言わずとも毎週末の家族の予定は兄のサッカーに関することと決まっていて、私はそれが不満でした。私だってもっと両親に構ってもらいたかったのに、2人はいつも兄のことばかりで、「にいにばっかり」と母にこぼしては怒られていました。 ただ、楽しかった記憶もあります。毎週月曜日には三鷹にあるサッカースクールに母と兄と私で向かい、終わった後は帰り道の途中にあるはま寿司やららぽーとのフードコートに寄ってご飯を食べました。私と同じように試合中に待ちぼうけを喰らっている選手の兄妹と仲良くなって、一緒に遊びました。ただ、楽しかったのはサッカーにまつわる出来事であって、サッカー自体はずっと嫌いでした。ルールもよく分からないから見ていてつまらないし、両親が取られてしまうし、それでいて兄が活躍しているわけでもなかったからです。 兄が中学のサッカー部に入ってから、私まで観戦しに行くことはほとんど無くなったものの、他に変わったことと言えば父が指導する立場から観戦している保護者の1人になったことと、両親が応援に行く頻度が少し下がったことくらいで、私のサッカーに対する認識は小学生の頃から何も変わりませんでした。兄がテレビでサッカーの試合を流していたら、怒ってチャンネルを変えました。家族とサッカー観戦に行った日は、試合中ずっと座席でiPadをいじっていました。 転機が訪れたのは高校1年生の時でした。11月25日、父と一緒に父の贔屓チームで私も何度か観戦したことのある横浜FC対湘南ベルマーレの試合を観にいきました。座席に向かうために階段を登っていると、コンコースで決起集会をやっている横浜FCサポーターの集団がいて、コールリーダーが「ここで負けたら降格だぞ!」と言っていたことを覚えています。なぜか私はその言葉に奮い立たせられ、初めてちゃんと試合に注目しました。その時から嫌々サッカーを観ることがなくなりました。 案の定負けて横浜FCは降...

原点

加藤俊(1年/テクニカル/東大寺学園高校) 長い受験生活を終えて、自分が大学での生活で選んだのが高校と同じサッカー部だったのは、高校生の自分には理解できない選択かもしれない。 正直言ってとても辛かった高校サッカーは、県大会の2回戦で、今年ついに全国大会にも返り咲いた強豪にボコボコにされて終わった。 サッカーはそこで区切りだと思った。やっと終わったとさえ思った。 なのになぜ、サッカーをやめられなかったのだろうか? それもわざわざ選手ではない形で続けることを選んだのだろうか? そんなことを考えながら書いているのだが、自分でもよくわからない。 ア式のテクニカルユニットは、サッカーのことが大好きな人たちの集まりだ。自分ってその温度感に合ってるのかな?と思うことも時々ある。 そしてとても論理的だ。今までの自分のサッカーとはまるで違う。 ここでサッカーをしていれば、自分ももっと上手くなれたのかな、と思ったことも何回かある。 ア式のテクニカルユニットに入ることを選んだ理由は、浪人して、身体を戻す自信がないという消極的なものだった。 テクニカルの存在を知ったのは、忘れもしない高校2年の冬の東京遠征、東大fes。 関東圏の高校にボコボコにされ、最後の最下位決定戦にPKで勝ち、かろうじて最下位を回避した。 自分としても、最高学年になって、多分唯一スタメン落ちしたのがこの時だった。ベンチにいるキャプテンってなんだよ、と思って悔しくてたまらなかった。 件の最下位決定戦でも、PK戦のPKを外した。中学生以降チームのPKキッカーだった自分にとって、初めてのPK失敗だった。 総じて最悪の遠征だった。 この時自分たちのチームを見てくれたのが、同じ高校OBのテクニカルの先輩だった。 これが今に至るきっかけである。 小学校の頃、サッカーノートを書くのが好きだった。この日はこんな練習をした、どんな相手とこんな試合をしてどんな結果だった、とかを、図付きで書き溜めていた。自分にとっては宝物だった。 練習をして、ポイントを可視化する。 試合をして、出来たことや出来なかったことを言語化する。 これって今の自分の原点かもしれないなとふと思った。 ア式にテクニカルとして入部することを決めた時から、コーチになると言ってきた。 実際に戦う選手たちのすぐ近くでチーム...

失った熱を、もう一度

エイシー 埜亜ミチオ(1年/DF/ 横浜翠嵐高校 ) はじめまして。一年プレイヤーのエイシーです。初めてのfeelingsでは自分の今までのサッカー人生を振り返ってア式に入部しようと思った経緯を書こうと思います。ア式に入って9ヶ月ほど経ち、いろいろなことがありましたがそれは次のfeelingsで書こうと思います(次のfeelingsのネタが少なくなってしまうので)。色々思い出しながら書いたので、少しまとまりのない文章になってしまいましたが、最後まで読んでもらえると嬉しいです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー あれは、まだ幼稚園生のとき。偶然、近所の小学校の横を車で通りかかった。校庭に目を向けると、そこでは地元のサッカークラブが練習をしていた。夕暮れの校庭を駆け回り、夢中になってボールを追いかける自分と同じくらいの年齢の子たち。その姿を見た私は、親に「あそこでサッカーがしたい」とお願いをした。 その頃の記憶は、今となってはほとんど残っていない。何をして過ごしていたのか、どんな日々を送っていたのかも曖昧だ。それでも、あの校庭でサッカーをする人たちを見て、自分もあの輪の中に入りたいと思ったことだけは、不思議なほど鮮明に覚えている。振り返れば、あの瞬間が、私とサッカーとの長い付き合いの始まりだった。 クラブに入ったばかりの頃は、ただボールを蹴ることが楽しかった。上手くなりたい、試合に勝ちたいという思いよりも、仲間と一緒に走り、ボールを追いかけることそのものが純粋に楽しい。私が入った当初は少なかった同学年の仲間も、少しずつ増えていった。気の合う仲間と肩を並べ、コーチの指導を受けながら練習に励む。その時間が、当たり前のように日常の一部となっていった。 練習のない日でさえ、私たちの頭の中からサッカーが離れることはない。放課後になると公園に集まり、誰からともなくボールを蹴り始める。気がつけば時間は過ぎ、空が暗くなり、ボールを追うことさえ難しくなる。あの頃の私は、夢中になるということを知らず知らずのうちに経験していた。   そんなある日、試合の予定がなかった私は、ふと高学年の試合を見てみたいと思い、試合会場となっていた近くの河川敷まで足を運んだ。自分が試合に出たいなどとは、そのとき考えてもいなかった。ただ、年上の選手たちがどんなプレーをするのか見てみたかったのだと思う。と...

楽しむ

和田隼人(1年/DF/市立浦和高校) 今日も東大のグラウンドでへとへとになるまでサッカーに励んでいた。なぜ単位も怪しく、高校でサッカーをやめるつもりだった自分が走り込みをしてまでサッカーをしているのか。    サッカーを始めたのは幼稚園の年長のときだった。特にやることもなく、運動もしないでいた自分をみかねて、両親が地元の少年団の体験に連れて行ってくれたのがきっかけだった。そこからサッカーのとりこになり、そのまま小学生になっても同じチームでボールを蹴り続けた。 転機となったのは小学3年生のときだった。それまでは比較的緩い雰囲気だったが、3年生から卒業まで指導してくれたコーチは本当に厳しかった。練習内容もきつかったし,それをみているコーチの態度も怖かったので、毎朝駐車場で車を確認し、そのコーチの車がなかったらみんなでこっそり喜んでいたほどだった。そんな厳しいコーチだったが常に選手のことを思ってくれていたし、教わった技術や姿勢は今でも役立っている。このころから、より一層サッカーに真剣に向き合うようになった。小学生時代は練習もきつく苦しかったが、地域の少年団らしく友達や親のつながりも強く、楽しい時間だった。 中学でももちろんサッカーをするつもりだったが、どこでサッカーをするか結構迷った。悩んだ挙句、1学年30人越えの、試合に出られるかわからないクラブチームに行くことにした。小学生の頃はCBや中盤でプレーしていたが、身長的にCBは厳しいと思ったし、中盤は上手い人が多くて無理だと感じたので、SHを中心に前線でプレーすることが多かった。しかし、多少足元が上手くても仕掛けるドリブルは得意じゃなかったし、特段足が速いわけでもなかったので当然のように埋もれていった。 そして迎えた初めての公式戦。32人中25人もベンチ入りできて、怪我人もいる中で自分はベンチ外。小学生時代は人数的にも試合に出られるのが当たり前だった自分にとって、ベンチにすら入れない悔しさは初めてだった。試合に出られる部活に入ればよかったかもと思ったこともあったが、小学生時代に培った忍耐力のおかげで腐らずに踏みとどまることができた。 転機となったのは、SBへの転向だった。最初はSBが好きじゃなかったが、試合に出ることが優先だと思い不本意ながらやっていた。しかしやっていくうちにSBの楽しさなどにも気づいてい...

まだまだ

左右田慶(1年/MF/武蔵高校)  はじめまして、一年プレイヤーの左右田慶(そうだきょう)です。科類は理科一類、出身 高校は武蔵高校です。はじめての feelings なので、今までのサッカー人生について振り返 ろうと思います。 サッカーをチームに入ってやるようになったのは、小学二年生の夏から。それまでは兄と 父が公園で練習するのにたまについて行って、ボールを蹴っていたくらい。父によるとそ の頃は全然練習が好きそうじゃなかったらしい。自分としては一年生のとき、のちに入る ことになるチームの見学に行ったとき、いわゆる団子サッカーをみて、チームに入るのが 嫌になったのが思い出に残っている。小学校の頃は人数も少なく、負けてばっかだった。 でもチームの方針で、とりあえずどんどんよせて、球際にガツガツいくようになると、少 しずつ闘えるようになっていった。練習でいえば、放課後、公園でコンドリをしたり、チ ームメイトの一人としょっちゅう一対一をしていた。六年生の3月の最後の大会では、下 の学年が試合で呼ぶことができず、7人で試合をすることになったけど、結果8チーム中 3位になれたことは嬉しかった。 中学、高校は武蔵のサッカー部でプレーをした。武蔵に入った大きな理由のひとつはサッ カーの環境が整っていたからだった。人工芝を持ち、すごい実績を持った指導者が二人も いて、さらには人数も多くないが、そこそこ強いという自分にとっては最高の学校だった 。もちろん自由な校風も最高だった。そんな学校を見つけてくれた父には感謝している。 入ってみると、トレーナーもいる上に、ちゃんとしたジムまであり、環境は本当に最高だ った。中学の試合での一番の思い出は新人戦の予選一回戦、つまり武蔵に入って初めての 自分たちの代の試合だ。なんと前半0対3だったところを、後半4点取って、4対3にひ っくり返した。ハーフタイムのときは、まじでまずいと思ってたからさすがに勝ててめっ ちゃうれしかった。中学のときはこんな風に逆転する試合ばっかだった。 中 3 の 10 月、そのときの高 3 が引退して、高校の部活で練習することになった。高 1 の 時は、インターハイには途中出場でそこそこ出れたけど、選手権ではほとんど出れなかっ た。高 2 になっても、インターハイはスタメンで出れたけど、新人戦や選手権は途中から が...

熱のそばで

水野 佑莉亜(2年/マネージャー/ 横浜サイエンスフロンティア高校 ) 入部して半年が経とうとしている。 Feelings を書くにあたって、色んな選手の文章を読ませてもらった。 サッカーへの熱い気持ちや、人生を通して考えていることが、綺麗な文章で、何行も綴られて いた。 ひとつのことに本気になれる人がいるこの場所に、強く惹かれたことを思い出す。 私はずっと、自分で目標を立てて、自分のやりたいことだけをやってきた。 でも大学に入ってからは怠惰な日々だった。課題はAIに頼りきり、アルバイトをしたりサーク ルに入ってみたり、友人に恵まれて、試験を除けば本当に楽しかった。 別にいままで頑張ってきたし、少しくらい遊んでいいだろう、なんて甘えていた。その一方で 、こんなことをするために苦労して大学に入ったのかと思うこともあった。 本気になれるものがなかった。 そんな中、10月、高校の友人からLINEが来た。 マネージャーをやらないか。 大学から近かったのと、本当に尊敬している子からの誘いだったこともあり、軽い気持ち で返信した。 話を聞いてみると、シフトは最低週 3 らしい。 参加自由週1のサークルにすら顔を出さなくなっていった私は、週3なんて無理だと思いな がらも見学に向かった。 部室でマネージャーの先輩から丁寧な説明を受け、頷きながらもどう断ろうかソワソワして いた。 サッカーなんて体育でやったくらいで、男子ばかりだった高校ではほとんど参加しなかった のを思い出す。 銀杏を踏みながら、電光灯に照らされたグラウンドへ向かった。 人工芝を駈ける選手をぼんやりと眺めながら話を聞いた。 選手は授業を受けながら週 6 でサッカーに打ち込んでいるという。 その姿を前にして、週 3 のシフトすら無理だと決めつけていた自分が恥ずかしく思えた。 ここに来ると、頑張ろうと思える。 そんな先輩の言葉が印象に残った。 サッカーに本気で向き合う選手、スタッフのいるここに身を置けば、自分も変われるかもし れない。 見学を終える頃には、入部に気持ちが傾いていた。 はじめは、自分がマネージャーをやるなんて全く想像できなかった。 心のどこかでマネージャーという仕事を見下していたのかもしれない。 でもア式に入って、その考えが変わった。 選手のために仕事を考え、見えないところにも気を配って、誰かのために動く先...