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サッカーの地平線を広げる -17日目〜19日目-

岡部惇貴(3年/MF/武蔵高校) 17日目 起床。朝からサッカーのことを考える。昨日の続き、自分の考えるサッカーについて。レバークーゼンの試合を見ながら、照らし合わせていく。難しい。スペースを基に全て考えるとどうなるのだろう。色々考えていたらすぐ昼食。 今日の日記のネタがなくなりそうなので、午後はショッピングモールに行くことにした。というのは嘘。日記のために生活するなんて、そんな人間にはなりたくない。いずれ内容が薄い日が来ても許して欲しい。セルジのあの悲しそうな表情を見たら早く行かなくてはと思った。これが本当の理由である(ユースの練習がないと聞いたのもある)。これからショッピングモール行くよ!そう伝えたときのセルジの表情は忘れられない。いや嘘、全然忘れた。ただ嬉しそうなのは確かであった。懇切丁寧に行き方を教えてもらった。もうひとつあるよ!と言って、ふたつ目の行き方も教えてもらった。こっちはちょっと歩くけど、乗り換えがなくて楽だよと言ってくれた。このような提示のされ方をした場合、ふたつ目を選ぶことが多いのではないだろうか。わざわざふたつ目を思い出したかのように伝えてくれて、いやひとつ目で行くよ、それは言えないかもな。幸い歩くのが好きな私はふたつ目の方が本当に良かったので、快くふたつ目を受け入れた。その行き方はサグラダファミリアまで歩き、そこから電車に乗るという方法。夜に行った日と同じ道を逆走、いや逆歩?しながら向かう。突然だが、この日記はfeelings担当係である星に毎日送っている。昨日の日記で星と旅行に行きたいが、彼女と忙しいから行けないと書いた。すると、どうやら星はシェア可能らしい。なぜかシェアをさせて頂いているみたいなことを言われた。どういう立場なんでしょうか。お言葉に甘えて旅行に行きたいと思う。こんな会話を星としていたら到着。ショッピングモールグロリエス。着くと地上にある店は二階建てで、日本との違いが見て取れた。敷地自体は大きくはなく、縦に広い感じだった。マック、バーキン、UNIQLOなど見慣れた店もあった。UNIQLOなんて池袋にあるのとなんら変わりなく、入る気も起きなかった。映画館で鬼滅の刃のスペイン語版の宣伝を見かけて写真を撮ろうと思ったが、携帯を出している間に次の宣伝に画面が切り替わってしまった。文具店に入る。めっちゃ長くて太い定規があった。何に使う

欲張り

宮内優弥(1年/テクニカル/沼津東高校)    皆さんはエゴサーチしたことありますか?ありますよね(圧)。別に自分が有名人である必要はないのです。試しに、「宮内優弥」と検索してみます。いくつかの検索結果に混ざって、東進の合格体験記ともう一つ、高校時代に書いたブログが残っているのがわかると思います。何が言いたいかというと、ア式でfeelings を書くのは初めてだけど、ネットに自分の思いを綴るのは人生で2回目となるわけです。当時書いたのは高3の4~5月くらいになるわけですから、ちょうど約1年。また〆切に追われながら書いている今の境遇が少し不思議に思えます。最近ひょんなことから1年ぶりに自分のブログを読み直す機会があって、なんだか涙が止まらなくなってしまいました。それはかつての不甲斐なさや悔しさを思い出してなのか。それとも、もうプレーで雪辱を果たす機会がなくなってしまったからなのか。はたまた、これから先テクとして4年間やっていく不安を思ってなのか。当時のブログは自分をよく知る高校同期、そして後輩に向けて書いたものです。しかしこのfeelingsはまだ入部して間もない自分の事を知ってもらう機会として、これからア式で頑張る決意表明の場として、拙く長い文章ではありますが、最後まで読んで頂けると嬉しいです。        一人っ子で育った自分は、小さい時から一人で物事を考える時間が多かった。日常生活でも、そしてサッカーでも。ずっと好きだったサッカーは、楽しさと苦しさが日に日に相関を強め、気付いたら悩んでいる時間がどんどん増えていた。中高6年間、悩みに悩みながらそれでも続けられたのはサッカーの魅力に取り憑かれてしまったからなのか。選手を辞めても結局サッカーに関わる道を進んだ自分に半ば呆れている。        一言で言えば「中途半端」なサッカー人生を送っていたと思う。        出身は静岡県御殿場市。サッカー王国静岡というが、静岡県東部は中部西部とサッカー格差がある。それでも家の近くには時之栖があり、定期的に全国の強豪校が遠征や合宿に来るような場所だ。家からも歩いて5分くらいの場所に人工芝のコートが5面あった。      サッカーを本格的に始めたのは小学1年の時(幼稚園の時、お遊びでやったサッカーはここでは入れないことにする)。今でも懐かしい富士

サッカーのない未来

島智哉(4年/MF/湘南高校) プレーヤーとして完全に試合に復帰する前に、最近長期離脱する選手もいたのでこの怪我をしていた期間に思っていたことを書こうと思いました。 そしたらギリギリ(もしかしたらもう出てるかも)になりました。ただの怠惰です。  2023年5月13日 都立大戦 左膝半月板損傷 2024年1月 5日 オフ中のトレーニングにて 右膝半月板損傷  なんと不運だったのだろう。 今となってはこれ以上の感想はない。怪我の原因には接触や習慣的な疲労の蓄積などがあるが、自分の場合のこの怪我の大きな原因は生まれつきの半月板の形だった。円盤上半月板と いう小さな衝撃でも損傷しやすい体を持っており、それがたまたまこのタイミングで、たま たま連続して損傷してしまったのだ。もちろん身体の使い方などの影響もあるだろうが、ただただ不運だったと思うことにしている。  最初の怪我で膝が曲がらなくなってしまった時、これは長い離脱になるかもと覚悟はしていたが手術と完全復帰までに 6 ヶ月かかると言われた時は流石に衝撃を受けた。 もし、あの試合の翌日にセカンドの試合に出ると言われていなければ無理をしないで途中でやめていたかもしれない。もし、あの試合の中でコーナキックを蹴らなければ、トドメとなってしまったロングボールを蹴らなければ無事に前半を終えられたかもしれない。そんなタラレバを考えながら手術の準備をした。  唯一ラッキーだったのは大学 3 年の夏というタイミングで就活の2文字が目の前にあったことだろう。怪我をしてしまったことはしょうがないし、復帰するまでは就活を進めよう。そういうメンタルの保ち方がまだできたし、結果として第一志望の企業に内定することができたのはせめてもの救いだった。 しかし、都立大戦の翌日にセカンドの試合に呼ばれていた自分以外の 2 人は A チームに定着し、田中に至ってはリーグ戦にデビューもしていた。自分が怪我をしなかった世界線を考えても無駄であることは分かっていながらも、もしもの世界を考えずにはいられなかった。 怪我が治って最初の練習復帰は当時の 4 年生が引退した翌週で、知らないうちに一つ上の 代と一緒にプレーできる最後の試合を迎えていた。結局陵平さんのいる間に A チームに絡むことはほとんどできなかったし、竹内と一緒に出た試合はごくわずかだった

エピソード0

 上田雄大(1年/DF/土浦第一高校)  ア式に入って、2か月が経った。まだ、2か月しか経っていないのに feelings とかいうものを書くことになった。執筆を言い渡されたときには、「まだ早くないか」と思っていたが、執筆段階でもその気持ちが弱まることはなく、それどころか一層強くなっている。とりあえず先輩が一年生のころに書いた feelings を読んでみると、どうやら高校までのサッカー人生やア式に入った理由を綴るのが相場らしい。先輩たちと同じような感じで書こうと思っていた僕であったが、ここで逆張りの僕が現れた。「みんなと同じって嫌じゃない?」ってそう囁いてきた。そう言われてから3週間ずっと何を書こうかと考えていたが、結局締め切り当日まで何も思い浮かばなかったので皆さんと同じようにア式に入った理由を書いていきたいと思う。次回作はもっとオリジナリティ溢れる作品に必ずします。  僕が、ア式に入った理由は「純粋にサッカーって楽しいな」と思えたからである。中高までの自分には、言い方を悪くすれば惰性でサッカーをやっている様な感覚が付き纏っていた。もちろんサッカーが楽しくなかったわけではないし、その選択が間違っていたとは微塵も思っていない。ただ、当時の自分に「なんでサッカーやっているの?」と聞いたら、「今までサッカーやってきたから」というしょうもない回答が返ってくる気がする。なぜ大学生になってサッカーの楽しさを再発見できたのか、それには高校時代の経験が鍵になっているように思う。小中の頃は周りの人よりも足が少し速かったという理由だけで無双していた僕だったが、高校の部活にはいって僕の自信は一気に失われた。先輩も同期も僕よりずっと上手く、何かを変えなければならないと直感した。技術が足りないなら何をすればよいのかと考えた自分なりの結論はハードワークするということだった。もとから体力には自信があった僕はとにかく走ることでチームに貢献することを思いついた。その結果、監督に中盤の選手として使ってもらえることが増えた。先輩と一緒にプレーでき、今までで一番サッカーを楽しめた1年間だったと思う。しかし、問題は2年生としての 1 年間だった。上手な 1 年生がたくさん入ってきた。それだけではない。僕の代は 6 人しかいなかったことと彼ら 1 年生の我の強いキャラクターも相まってばらばらの状態から新チ

See me @gain

上西園亮(4年/FW/ラ・サール高校) 或る日、猫を見ました。 丸々と肥えた、それはそれは大きな三毛猫でした。 春の近づく東京の暗い寒空の下、山盛りの洗濯カゴを両手で抱えた私はぶるぶる震えなが ら自転車を降ります。その三毛猫にとって私は興味の対象となり得たようで、なんだかずっと目が合っている様に思えました。 100 円を投入して槽洗浄を行い、どうにかこうにか洗濯物を押し込んだ後、大量の洗剤を投下して私の仕事は一段落しました。洗濯機が回っている合間に晩御飯を買うため、コインランドリーをそそくさと後にします。 ふと辺りを見回しましたが、彼はどこか遠くへ行ってしまった後のようでした。 3 割引きのお惣菜をダラダラ食べながら、溜めていたアニメも観終えた私は重い腰を上げ、 4 年も住んでいる小さなアパートを再度出発しました。 いつもの様にコインランドリーには誰も居ませんでした。もちろん彼もいませんでした。代わりに誰かが靴下を片方落としていったようでした。繊維のほつれた汚らしい黒色の靴下でした。私は洗濯物を回収し、その場を後にします。洗濯カゴから零れ落ちそうな衣類を片手で抑えつつ自転車を漕ぎ進めました。その日、バイトから帰宅後まだ一言も発していないことに気が付き、鼻歌を唄いました。羊文学の曲を終える前に家に帰り着くと、小一時間かけて洗濯物を干し、漸く眠りにつきました。 20 年と少しの短い人生、私は様々な会話を楽しんできました。天下国家を論じる高尚なものから、身近な人物の下世話な話まで、無限の時間をお喋りに費やしてきました。その総量は皆目見当もつきません。 それら有象無象のお喋りの中には、猫と犬どちらが好きかといった古来からの大激論も含まれます。 私は常々猫派でした。彼らの自由さが好きだからです。いえ、憧れていると言った方が正しいのかもしれません。 愛くるしい見た目を持った彼らは、自分たちが人間の心をいとも容易く射抜けることを理解しているのでしょう。彼らにとって人間に可愛がられるのは至極当然の理であり、私達は彼らがたまにかまってくれるだけでどうしようもなく嬉しくなってしまうのです。 虫やネズミを追いかけてしまう彼らは、その成果を贈り物として私達に見せてはくれるものの、排便時や死に際にはひっそりと姿を晦まします。 彼らにとって、人生とは自分たちのものであり、他の誰のものでもないの

整理

中谷捷悟(2年/DF/大阪星光学院高校) 3月某日。天気晴れ。大阪市南部。 区役所でマイナンバーカードを受け取る。 その後は長居公園を横切り、某靴屋に入る。裏に穴の空いたスニーカーに変わる靴を買う。満足して家付近まで戻るも、特にやることがないことに気づいてそのまま放浪の自転車旅に出かける。とりあえず校区をぐるりと1週。3年ぶりのラーメン屋で昼食を済ませたのちに、我が庭である天王寺へと向かう。天王寺に到着してもペダルを漕ぐ足は止まらない。そのまま谷町筋を北上。5分程すると左手に母校が聳え立っている。中に入ることはなく、そのままUターンして谷町筋を南下。帰りは少し脇道に外れて天王寺の外れにある、受験期に通っていた塾の前を通る。最後は一番馴染みのあるルートで家まで戻る。全て合わせると3時間ほどは自転車を漕ぎ続けていたことになる。 終始感じていたのは、気持ちよさと懐かしさと寂しさ。そして、時間の移り変わり。数年の受験期と1年の東京での生活の間に行かなかったところを改めて訪れることは、昔を思い出し今と比較することに繋がった。過去との比較は、今の状況を整理しこれからの自分のことを考える手がかりになる。ここでは大阪で見たことを基に最近の自分を整理していく。3,4月のことを中心に書いてるので少し時間のズレがあるかもしれないが、ご了承ください。 まずは大阪で見たもの。 変わるもの。 自転車を漕いで気づいた。数年前にはあった空き家は取り壊され、パーキングエリアになっていた。知らぬ間に建設されたマンション。リニューアル工事で閉店していたスーパー。小学校の頃から工事されていた道路が開通していたことに感動した。 変わらぬもの。 街の雰囲気。街並みが多少変わってもこれは変わってはいなかった。言葉にできない落ち着いた感じ。住宅街であるが建物は東京ほどは密集しておらず、人は若干少なめ。けど、2車線の通りを車はそれなりに走っている。1人で散歩する老人の方々とたまに現れる中学生。小学校とそこから湧き出る声。5年前、長居公園に走りに行った時の道の右手にある寺も、左手にある大豪邸も、中高でお世話になった整骨院も。それらは自分の中の記憶と同じように残っていた。5年前はなんとも思わなくて猛スピードで駆け抜けた景色は今となってはとても貴重なものに思えた。天王寺もまた同様。私が毎日のように通っていた時とほとんど何