See me @gain
上西園亮(4年/FW/ラ・サール高校) 或る日、猫を見ました。 丸々と肥えた、それはそれは大きな三毛猫でした。 春の近づく東京の暗い寒空の下、山盛りの洗濯カゴを両手で抱えた私はぶるぶる震えなが ら自転車を降ります。その三毛猫にとって私は興味の対象となり得たようで、なんだかずっと目が合っている様に思えました。 100 円を投入して槽洗浄を行い、どうにかこうにか洗濯物を押し込んだ後、大量の洗剤を投下して私の仕事は一段落しました。洗濯機が回っている合間に晩御飯を買うため、コインランドリーをそそくさと後にします。 ふと辺りを見回しましたが、彼はどこか遠くへ行ってしまった後のようでした。 3 割引きのお惣菜をダラダラ食べながら、溜めていたアニメも観終えた私は重い腰を上げ、 4 年も住んでいる小さなアパートを再度出発しました。 いつもの様にコインランドリーには誰も居ませんでした。もちろん彼もいませんでした。代わりに誰かが靴下を片方落としていったようでした。繊維のほつれた汚らしい黒色の靴下でした。私は洗濯物を回収し、その場を後にします。洗濯カゴから零れ落ちそうな衣類を片手で抑えつつ自転車を漕ぎ進めました。その日、バイトから帰宅後まだ一言も発していないことに気が付き、鼻歌を唄いました。羊文学の曲を終える前に家に帰り着くと、小一時間かけて洗濯物を干し、漸く眠りにつきました。 20 年と少しの短い人生、私は様々な会話を楽しんできました。天下国家を論じる高尚なものから、身近な人物の下世話な話まで、無限の時間をお喋りに費やしてきました。その総量は皆目見当もつきません。 それら有象無象のお喋りの中には、猫と犬どちらが好きかといった古来からの大激論も含まれます。 私は常々猫派でした。彼らの自由さが好きだからです。いえ、憧れていると言った方が正しいのかもしれません。 愛くるしい見た目を持った彼らは、自分たちが人間の心をいとも容易く射抜けることを理解しているのでしょう。彼らにとって人間に可愛がられるのは至極当然の理であり、私達は彼らがたまにかまってくれるだけでどうしようもなく嬉しくなってしまうのです。 虫やネズミを追いかけてしまう彼らは、その成果を贈り物として私達に見せてはくれるものの、排便時や死に際にはひっそりと姿を晦まします。 彼らにとって、人生とは自分たちのものであり、他の誰のものでもないの...