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笑って泣いて最後にまた笑おう

高校生の頃からサッカーを本気でやってみたいなと思っていた。だからア式女子への入部はあまり深く考えずに決めた。 1度だけ体験練習に行って、数日後のア式女子会で入部の意思を伝えた。先輩方はかなり想定外だったみたいで、ミラノさんやしゅうさんが「えっ、ほんとに?えっえっ」と動揺していた姿は今でも鮮明に覚えている。 こうして始まった私のア式女子としての4年間。 楽しいこと、しんどいこと、悲しいこと、嬉しいこと、色んなことが詰まった、あっという間の4年間だった。 ・1年目 できないことばかりだけれど、毎回の練習が楽しくて仕方なかった。先輩方から色んなことを吸収して実践に落とし込む、自分のプレーひとつひとつに一喜一憂する、そんなことの繰り返しで気付けばサッカーに夢中になっていた。 試合中は分からないことだらけで、先輩や周りの声に頼ってひたすら走ることくらいしかできなかったけれど、90分やり切った時の達成感がたまらなかった。 しかし関カレ期間中に膝を故障した。痛みを我慢しながらプレーを続けていたことも原因なのか、完治にはかなりの時間を要した。 練習中も試合中も、私ができることは筋トレをするかみんなのサポートのみ。同期がどんどん成長していく姿を見て、私だけ取り残されていく恐怖に常に襲われていた。 部活辞めたいなと思うこともあった(たしか以前のfeelingsで書いた記憶があるが)。 この時チームを離れる選択をしなかった私の意思を今更ながら褒め称えたいなと思う。 ・2年目 かわいい後輩ができた。けれど私は相変わらず怪我でまともにサッカーができておらず、後輩にまで追い抜かれてしまうのではないかという新たな恐怖が生まれた。 一つ変わったことといえば、この頃からボールと戯れることが増えた。藤岡さんに、「部活に来て、何が楽しくてリハビリだけしてなきゃいけないの?サッカーはそんなつまらないものじゃない。怪我が悪化しない範囲でもっとボールと遊んだらいいよ」みたいなことを言われたのがきっかけ。リフティングとか、簡単なボールタッチをしてたくさん遊んだ。 私のボールタッチが上手いと色んな人に言ってもらえるようになったのは、この期間があったからこそだと思う。だから藤岡さんの何気なく放ったこの言葉には本当に感謝しています。 やっとの思いで復帰できた頃には関カレも後半戦に差し掛かっていた。久しぶりの試合で正直

幸せな4年間に感謝

高校生の時、「東大に女子サッカー部ができたらしい」と知ったことで私は東大を目指すことにした。 そこから受験勉強、家庭環境の変化、大学生活、海外経験、就職活動、本当に色々なことがあった。 様々な経験を経て私の人生が大きく変わったこの数年間に、常に軸としてあったのがア式女子だった。 合格発表の日にア式女子のビラをもらって先輩と初めて話したこと、体験練習で当時4年生のかなさんが上手すぎて感動したこと、入部式で緊張しながら同期全員と顔を合わせたこと。わくわくでいっぱいだったア式女子での最初の日々は鮮明に覚えている。 小3でサッカーを始めたものの一旦高校でサッカーから離れていた私は、久しぶりに思い切りサッカーができることが楽しくて仕方なかった。 人工芝のグラウンドでボールを蹴ることができて、文京LBレディースでは元Jリーガーのコーチに教えてもらえて、関カレと都リーグでたくさん試合の機会があって、こんな恵まれた環境はなかなかない。 (補足しておくと、ア式女子部員は地域のクラブ「文京LBレディース」に全員所属しており、週4回の練習のうち2回は文京LBレディースの練習。中高生、他大生、社会人、ママさんなど多様なバックグラウンドの人たちと共にボールを蹴り、東京都リーグには2部と5部に2チーム体制で出場している。) 高校生の時に続ける環境がなくてサッカーから離れた経緯もあり、素晴らしい環境でサッカーができることにひたすら喜びを感じていた。 2年になってからは色々と意識が変わった。かなさんが引退して10番を継ぐことになったこと、新歓をして後輩ができたこと、来年は自分が主将と新歓長を兼任すると決まったこと、これらのおかげで主体的に部に向き合えるようになったと思う。 クラスもサークルも楽しかった1年の頃と比べて自分の中で部活の占める割合が高くなり、同期を中心に部員とぐっと仲良くなったのもこの年だった。 関カレでは1試合も勝てなかった。1年の時は2勝できていたからこそギリギリの試合を勝ち切れないことが悔しかったし、サッカー経験者が私1人だったから自分の力不足を感じた。それでも大学からサッカーを始めた同期がどんどん上手になったり、後輩がすごいスピードで教えたことを吸収したりしてくれるのが嬉しくて、こういうのもア式女子の素敵なところだな、と感じるようになっていた。 執行代となった年は新歓で大成功。

敗北者論

暗闇には恐怖を感じる 曖昧で、不確定で、どこにいけばいいかわからない 世界が目の前から消えてしまい、何も存在しないように思える 光のおかげで先が見えて、あたたかくて、明瞭で、どこにいけばいいのかわかるようになる 光で形作られた景色を見ると美しいと感じるのにはそんな理由が関係しているのかもしれない 飛行機の窓から夜を見下げてそんなことを思う。 曖昧であること自体が嫌いだ。 だから再現性のある法則を信じ、未来を想定内に取り込もうとする お互いの存在に名称をつけ、相手に対して自分の希望通りに動くことを求める 思えば君の四年間も同じように、消えてもいい自分を拒絶する日々だったのかもしれない。 ____ いつだって初めての場所に足を踏み入れたら そのなかで自分の立ち位置を探し、みんなに認められようとした。 チームに溶け込むことができたら、実力のないままプレーすることに初めはビビリ、ミスを恐れる。 もちろん結果は出なかった。 実力のないものは必要とされないことを痛感したが、まだ一年目。焦りはなかった。 来年、再来年を期待されてる感覚もあり、チームでの居場所もあった。 次の年は君にとって勝負の年。 なんどもレジュメの端に予想フォーメーションをかいて、自分が食い込む場所には繰り返し丸をつけた。 いざシーズンインすると周りとの実力はどんぐりの背比べ、どこで自分が差をつけられるかを考える。 いつも通り 見せ続けるのは、声をかけ続け戦う姿勢 いくら下手でもそれを愚直にやり続けたら認められると人生経験からそう思った。 スタメンの座を奪い取ることに成功。 その時のキャプテンにたくさん怒られながらも一年間戦い続けた。 そんな中大きなお叱りが二度。 一度目は後輩にPKストップの尻拭いをしてもらった情け無さも相まって、南大沢から拗ねて大泣きして帰宅。 二度目は、もう疲れた!やめる!なんてクソガキみたいなことをその先輩の引退試合直後に駐輪場で寝そべって喚いていた。 評価を下され続ける日々に嫌気はさしていたものの、実際のところは満足していた。 ここは自分の居場所だと証明できた気がして。 そんなこの年の終わり、君は少し大人になれた。 子供じみた君が羽を伸ばせる場所を守っていてくれたのは君を叱り続けてくれたその先輩だったと知ったから。 三年目 やる相手のレベルが愕然と変化 あれ?誰も通用してないじゃん?

シルシを付ける現在地

 何を書こうか。引退してからというもの、ふとした時に考えていたが、なかなか気持ちがまとまらない。でも、気兼ねなく自分語りが出来る機会なんてこの卒部feelingsが最後かもしれないな。3年の前期までの話は前回のやつで書いたし、それならとりあえず、その続きから書いてみよう。 ———————————— 3年目のシーズンが終わった。長らく沈没していたところから這い上がって後期は試合に出ることが出来たけれど、酷いパフォーマンスだった。お世話になった先輩に花を持たせるどころか、足を引っ張ってしまった。残留のかかった帝京戦も、自分が壊した。何より、誰もが立ちたいと望むピッチの上で、怖気づいたプレーを見せてしまった。 思い返せば小学生の頃からだ。試合が怖くて、金曜日の夜くらいから憂鬱で仕方なくなる。いざ試合を迎えれば、練習では出来る筈のプレーがほとんど発揮できない。パフォーマンスに満足できた試合など、これまでのサッカー人生を通して片手で数えられるほどしかない。残す1年で、そんな試合が訪れるだろうか。訪れてほしいな。最後はそうやって終わりたい。 それよりなにより、俺はちゃんと向き合えていただろうか。うまくいかないサッカーから、自分から、目を逸らしてばかりじゃなかったか。こんなんでサッカー人生を終えていいはずがない。残す1年を、未来のためにも意味あるものにしなければ。逃げなかった記憶を作ろう。 3年目の12月は、こんな気持ちだった。 いろいろと自分なりに取り組んで、気合十分でプレシーズンを迎えたのだが、蓋を開けてみれば全くうまくいかなかった。 覚悟はしていたけれど堪える。なんでみんながアウェーで練習試合をしている間に、農グラでLBと試合をしてるんだ?不甲斐ないにもほどがあるだろう。でも逃げずに向き合おう。決めたんだから。というか、そうでもしないと保っていられない。 今日の練習こそ。今日の試合こそ。そんな気持ちでグラウンドへ向かっても、日に日に増していく恐怖や自信のなさが邪魔をして、溢れんばかりにあるはずの思いを不意にする。そんな日々が続いた。 このまま終わんのかな。 一向に改善しないままリーグ戦が近付く中でそんなことを思い始めていた矢先、未曽有の事態で活動休止になった。 自粛期間。切羽詰まっていた就職活動に追い立てられ、必然的にサッカーとは距離を置いた。他方、活動再開に向けて多くの人

道標

 ほんとにきつかった。今年のリーグ戦はほんとに辛かった。やっと終わったか。 ちょうど去年の同じ時期に、引退の近い先輩と話していた。 『今までずっと生活の一部だったサッカー、特に競技サッカーが生活から消えるってあり得ないな』 そんなことを話しながら、自分の引退する時を想像して、また、そんな状況に今現在ある先輩の気持ちに思いを寄せて、ちょっとうるっときたりしていた。 しかし、いざ自らのラストイヤーでリーグ戦が終わる頃には冒頭に述べたような気持ちでいっぱいだった。どうしてこうなったのか。最後の feelings ということで、自分の大学サッカー生活を振り返ってみる。 一年生 5 月に A チーム昇格。みんなごついし、ユナイテッドのプロみたいな人めっちゃいるし、で練習についていくのが精一杯。スーパーサブ的な立ち位置で数試合には絡むことができたが、セカンド止まりの選手。すごく印象に残っているエピソードは、選手としてア式に戻ってきて、今の 3 倍くらい尖ってた遼さんにボロカスに言われて、紅白戦で同じチームになっただけで、「うわ、マジかよ」みたいなため息をつかれたこと ( 笑 ) 同じように遼さんから愛の鞭を受けたみんなは、これを誰もが通る道と理解して、がむしゃらに努力を続けてほしい。逆に、一年の頃からトップの試合に出て、ちゃんと評価されてる今の一年生や二年生は本当に立派なので、自信を持って欲しい。 まあ、そんなこんなで怪我はいくつかしたけど、持ち前の負けず嫌いと有り余る闘志で食らいついて行って、 A チームには定着して行った。ともあきも言っていたけど、 1,2 年生の時は周りのレベルに食らいつくだけで勝手に伸びていくから、とにかく自分が試合に出ること、活躍することだけを考えることができていた。 二年生 遼さんが監督就任。怪我により、プレシーズンを棒に振る。なんとか開幕戦には間に合い、後半に初めてウイングとして出場するも、戦術を全く理解せずよくわからないまま敗北。しかし、この年のチームは凄かった。チームはそこからどんどん勝ち点を積み上げていき、数試合を残してあっさり昇格、優勝を決めた。俺個人としてはほとんど途中出場で 3 点取っただけ。二部を圧倒的な強さで優勝したチームに自分が及ぼした影響はあまりに小さかった。とはいえ、収穫もあった。それはウイングというポジションとの出会いだった