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生まれ変わってもア式で

4年 吉岡泰生  2勝3分19敗 得点11、失点56 13チーム中13位で2部リーグ降格 これが2021年シーズンの東京都1部で東大ア式が残した結果。どこからどう見ても1部に通用せず敗れ去ったチーム。美化しようと思ってもできないほどの記録が残ってしまった。 そこで僕は24試合全てにスタメン出場して、最後の数分で途中交代した1試合を除き全ての時間でピッチに立っていた。チームが良い時も悪い時もセンターバックのポジションには自分がいて、良くも悪くもチームに影響を与え続けた。 この卒部feelingsでは、まず、そんな僕にとって昨シーズンはどんな風に見えていたか振り返りたい。 思い返せば、チームが好調の波に乗るチャンスは何度もあったと思う。 ①前期の大東文化戦(△1-1)。5試合目にして初めての流れの中からの得点と初めての勝ち点獲得。 それ以前の4試合で、ある程度守備は通用するものの耐えきれず失点し、自分たちの表現したい下からつなぐスタイルは90分でほとんど出せないという1部の洗礼を浴びていた中で、少しやり方を変えて自分たちの時間を増やすことができた。 個人的にも、プレスのベクトルを折って前のスペースに運び、相手を引きつけてライン間でフリーの茶谷に届けるという最高のプレーで得点の起点を作った。 自分の良いプレーでチームに貢献することがサッカーをする上で最上の喜びだし、2年前はベンチにも入れず1ミリも貢献せずに外から眺めるだけだった1部の舞台でそれができたことは、自分の成長を感じさせてくれた。 まだ勝ってなかったのは勿論見過ごせないけど、光明が見えた一戦だった。 ②次に前期の國學院戦(△0-0)。大東戦後の2試合は、せっかくボールを持てる時間が増えたにも関わらずミスから失点して結局また連敗していた中で迎えた一戦。 見返してみてもこの試合は敵陣、自陣ともに守備の連動とインテンシティが素晴らしかった。誰も集中を切ってないし指示の声もよく掛かっていた。 相変わらずボールを奪った後のパスは三本と繋がらず、チャンスらしいチャンスが作れたシーンも限られているけど、自分たちのその時点でできることを強豪相手に精一杯やった良い内容の試合だった。 現実として他チームより下手な以上、理想のサッカーはあっても我慢してハードワークすることも必要だった僕たちにとって、1部で生き残るための最低ラインのよう

半世紀へのエントランス

4年 稲田創  私の代は東大ア式蹴球部が誕生してちょうど100年であった.1世紀にも渡り続いてきたア式を次の100年に繋げる学年であると入部式で言われた記憶がある.   そんな学年のテクニカルスタッフとして入部した私の4年間を当時のfeelings:思いを交えながら綴る.       __________________       猪の出る田舎から上京したての1年生の春,東大駒場キャンパスにてテント列という行事に参加した. これは部活やサークルが新入生の勧誘を行うためのもので,キャンパス内の大きな通りに各団体のテントがずらーっと並ぶ.その通りを新入生が勧誘を受けながら歩いていく.   テント列の序盤,応援部やアメフトのテントに半強制的に入れられたあと,ア式のテントにも同じく半強制的に入れられた.小学校からやっていたサッカーを高校入学時点で辞めた私は,部活という真面目そうな団体でサッカーをするつもりがなかったので,ア式のテントにはてきとうな気持ちで入った. だが,我が地元を代表するレノファ山口が好きであることを伝えると,コアなサッカーファン(?)だということでテントの奥に入るように言われ,奥へ行くと女性の先輩がいた.いわゆるマネージャーとしての勧誘かなと思ったが,その先輩は「テクニカル」の一員だった.テクニカルは一般的にはアナリストと呼ばれるスタッフで構成されるユニットであり,サッカーの分析を行う.   これがサッカーの分析との初めての出会いである.   特に細かい戦術なんて考えたこともなかった自分にとって,このサッカーの分析を行うテクニカルは興味深いものとなった.勉強の方に力を入れたかった当時の私としては,スタッフという立場であっても,サークルではなく部活に入部するというのは少しハードルが高かった.だが,そのテント列の先輩が「テクニカルはほぼフレックスタイムである」と言っていたことや,別に体験しに行ったサッカーサークルがチャラすぎたということがあり,あまり積極的な理由からではないが,面白そうだし真面目そうなア式にテクニカルスタッフとして入部することにした.     _______________________       当時4人だったテクニカルには,私と同期もう1人が加入した.   まず,サッカーについて先輩から色々と教わった.その先輩が非常に優秀だったことや

それでも、僕がサッカーをした理由

4年 染谷大河   1. 序論  気付けば既に引退を迎えてから3ヶ月が経とうとしている。引退後は、卒論提出・学会への論文投稿などで忙しくしていたこともあって、なかなかサッカーの今までやこれから等について思考するためのリソースが残されていなかったのが正直なところだ。まだもう少し予定は残されているが、少し余裕が出てきたタイミングでこのfeelingsを認めている。担当者には、締め切りを大幅に過ぎてしまったことをこの場を借りてお詫びしたい。  さて、引退feelingsである。もちろん対外的な発信という意味合いも強いと思うが、筆者はこのfeelingsという場を主に自身の思考の整理に使わせてもらってきた。今回もそれを踏襲しつつも、皆さんへの感謝を述べる場としたい。Feelingsには不適なのかもしれないが、「偶にはこういうフォーマットも良いだろう」と一定の章立てをしてみたので、万が一内容に関心のある読者は、該当する章を選んで読んでいただけたらと思う。内容に全く関心のない方は、第5章まで一気に読み飛ばしていただきたい。  第2章では4年間を総括し、第3章ではこれからの進路について述べる。第4章で卒部feelingsをまとめた上で、第5章でお世話になった皆さんへの謝辞を述べる。   2. 4年間の総括 2.1 全体の振り返り  これはもう既に何度も書いた話なので改めて書くこともないのかもしれないが、もちろん初めて読んでいただく方もいるかと思うことに加え、入部を考えている人が見たときに少しでも参考になるかと思い、改めて入部の経緯について簡単に振り返っておきたい。  実は大学入学当初、というよりかは一般入試での大学受験を決めた時から、大学で再びサッカーにコミットするという選択肢は考えていなかった。これは偏に、そこまでサッカー選手としてキャリアを形成するために積み上げてきたものを傍に置いて、学術界への道へと方針転換するという割合大きな決断をしたからには、そこに時間的資本を投資したいと考えていたからだった。テント列を華麗に回避して以降(1号館を出た直後に裏から抜けただけであるが)、何度かコンタクトを取ってもらったがやはりすぐに意向が変わることはなかった。  詳細はついに思い出せなくなってしまったが、「とりあえずやってみよう」ということで入部を決めることにしたのは、確か5月祭が終わった

運命

 4年 天野なぎさ  無事卒論を提出してほっとしたのもほんの一瞬、ア式の卒論ともいえる卒部Feelingsが降ってきてにわかに信じられない気分で執筆を始めています。     今はちょうど引退をしてから2か月ほど、だいぶア式と離れて生活をしてきているけど、後輩も冬オフ中ということで、まだ自分も冬オフを過ごしているんじゃないかと錯覚を覚えることもあるほど、引退の実感は意外とないものだなって思います。   卒部Feelings、書くことは4年間認識していたけど、実際自分が書くとなると何を書けばいいのか、書くことがありすぎるのかなさすぎるのかはわからないけど、わからなくなります。   ここから下の文章が、こいつ何書いてるんだろうと思う文章になっているかもしれないですが、締め切りもすでにかなり過ぎてしまっている(本当にごめんなさい)ので、どうぞお手柔らかに読んでもらえると嬉しいです。     ということで、何を書こうかと考えましたが、やはり4年間に自分に何があったのか、振り返ってみようと思います。     まずは入部。 入部は私は同期のスタッフの中では一番遅くて、入部式も参加していません。中高時代、そんなに戦術などに詳しいわけではなかったけどサッカーを観ることはすごく好きで、中高の頃からどの大学にいってもサッカー部のマネージャーというものをやってみたいと思って、東大を志望していた中高生の私はア式のHPを見たりしていました。東進祝賀会に運動会がたくさんきてたこともあってア式とは早い段階で接点をもっていたけど、他にも大学でやりたいことがありすぎてずっと迷っていました。   実際抽選のあるダンスサークルの抽選に通ったことがわかって、自分がア式に入らないって選択肢が目の前に現れた段階で、急にア式に入らないことが受け入れられなくなって、そんなこんなで練習見学にまた行きたいと連絡して、入部を決めたことを覚えています。そして入部を決めたとき、グラウンドで先輩たちがめちゃくちゃ喜んでくれていたのがめちゃくちゃ嬉しかった記憶は、今でも鮮明に覚えています。     1年生。 私が入部した頃は4年生のスタッフが多くて、3年生のグラウンドスタッフは0、2年生のグラウンドスタッフは2人、という環境だったので、4年生が引退した段階で人手不足が免れないことから、1年生のスタッフはすごく大事にされていた記憶