なぜ東大ア式でサッカーが上手くなれなかったのか
上原真路(4年/DF/栃木高校)
リーダーの引退に際する寄稿文では物事を問わず、組織運営に関して偉大な成果を上げてきたり悔しい失敗があったりして、その裏には彼ら彼女らの知られざる苦悩や困難があった、ということが涙ぐましいエピソードとともに記述されるような規範があるだろう。そして最後は未来に向けてのメッセージによって、ちょっとした自己啓発のようなエネルギーを読者に与えるようなもの。僕も当初はそのような文章を書きたいと思っていた。
しかし、そのようなことよりも僕の興味を惹きつけて離さない、そして必ず向き合わなければならないことが1つあった。それは昨シーズン、僕はあまりサッカーが上手くなれなかったということだ。新監督やヘッドコーチはまったく新たなサッカーの観方を僕に与えてくれたし、それによって少なからずは上手くなっていたのだろう。
だが歴代の偉大なキャプテンたちのように、一部の舞台でア式を勝たせることができるプレーヤーになることはできなかった。もっといえば、自分のプレーはほとんど通用していなかったといってよい。
それにもかかわらず、今でも東大ア式はプレーヤーを上手くしてくれると本気で信じているのだ。だから、他でもない僕自身が「なぜ東大ア式でサッカーが上手くなれなかったのか」について興味が尽きない。プレーヤーが「いかにしてサッカーが上手くなれるか」について叙述したものはあまり見たことがないし、僕と同じようにア式での成長に伸び悩む後輩たちがいるかもしれない。だからこの問いに対する自分なりの答えを出してみることにしよう。
早速、本題に入りたい。
東大ア式は、他の日本のサッカーチームとは一線を画するアプローチによってプレーヤーを上手くさせようとしている。当事者である我々はこのようなアプローチをもはや当然視しているが、入部当初は非常に大きな衝撃を受けた。
ここでは、僕が大学2年生の春に新歓記事のために書いた文章の一節を引用したい。
「ア式のサッカーは『考えてプレーする』ことを何よりも重要視します。これまで感覚でプレーしていたサッカーが秩序化され、その解像度が高まっていくことを体感できます。」
そのアプローチとは理性的・科学的アプローチというべきものである。
そして、その最大の特徴は「概念」の導入であると思う。
ア式プレーヤーの多くはおそらくそれをサッカーの試合を観たときに最も実感する。なぜあのプレーヤーは簡単にボールを失わないのか、なぜあのチームのビルドアップはほとんど失敗しているのか。プロフェッショナルの分析官には笑われてしまうくらい解像度は低いのであろうが、東大ア式プレーヤーたるものプレーヤーの個人戦術からチーム戦術に至るまで、それなりに語ることができると自信を覗かせるのだ。この際には、観察可能な現象に対して直接には目に見えない「概念」によって説明する、という形態を取っていることが多い。
ア式プレーヤーが須らく衝撃を受ける、もっといえば感銘を覚えるのは要するにこのような新しい概念装置を学ぶというところにあるだろう。「正対」「プレスライン」「辺と点」「手前と奥」...etc。ア式で用いられる数々の概念は、我々をしてサッカーの観方をすっかり変えてしまうのだ。
現実に生起する現象が変化するわけではない。我々の「眼」が変化するのである。概念というレンズを通してみることによって、サッカーというゲームにおいて生起する現象がよりクリアに見えるようになる。
そして東大ア式はテクニカルが試合を分析するためだけではなく、プレーヤーに対する指導の過程においてもこのような概念装置を導入する。「正対する」「プレスラインを切る」「辺に立つ」のように、概念は現象を分析するための道具としてのみならず、実際にプレーを改善するためにも用いられる。
しかしながら、立ち返って考えてみよう。このような概念装置を導入することによるプレーヤーのメリットとは一体何であっただろうか。
それはプレーヤーにどのようにプレーすべきか、どのようなプレーを選択すべきかに関する指針―それはプレーイメージや判断規準と呼ばれている―を与えてくれるところにあるだろう。自分のプレーが上手くいっていない、けれども何をどのように改善すればよいのかよく分からない。最後には、技術レベル・フィジカルレベルの不足やメンタルの弱さという結論に行き着く。プレーヤーはしばしばこのような状況に陥る。しかしア式で用いられる概念装置は、よいプレーができていない原因をクリアに説明し、何をどのように改善すればよいのかを合理的に教えてくれる。
例えば、ビルドアップにおいて真正面から相手FWのプレスをガツンと食らってボールを失ってしまう傾向にある、という現象は「辺」という概念によってボールを受ける以前のポジショニングにその原因が帰属されるだろう。そしてプレーヤーは「辺に立つ」ことで、ボールを失うという現象を引き起こした原因の1つであるポジショニングの問題に対処できる。
ところで20世紀最大の理論社会学者であるタルコット・パーソンズは「『概念』とは経験的世界を照らすサーチライトである」と述べたそうだ。しかし東大ア式で用いられている概念は、社会学における概念の機能に加えて、もう1つ重要な機能をもっている。それは単に現象の一部を切り取って光を当てる、つまり事実を分析することにとどまらず、どのようにプレーするべきかという実践に対する処方箋となる機能である。これはおそらく社会学がその研究対象とする近代社会と違って、サッカーはそれ自体として目的が明確であり、特に東大ア式はゲームモデルに基づく各局面の目的もはっきりと示されているからだろうか。例えるならば、どこへ進むべきか分からない暗闇を必死に彷徨っているプレーヤーたちに、概念はサーチライトとして彼ら彼女らが進むべき方向を煌々と照らしてくれる。つまり東大ア式で使われる概念は単にテクニカルが試合を分析するためだけではなく、我々プレーヤーにどのようにプレーすればよいか、つまりプレーイメージや判断規準を与えてくれるものであり、この点が本当にすごい。
このように概念の導入はプレーヤーに対してプレーの指針を与えてくれるという大きな意義がある。しかし僕はこのように概念によってプレーイメージや判断規準を獲得することに注視し満足するあまり、プレーヤーとして取り組まなければならない最も重要な課題を忘れてしまった―いや構造を主体とすれば、このようなアプローチはプレーヤーから最も重要な課題を隠してしまうように作用しているのではないだろうか―。そしてそれが故に、僕は東大ア式でサッカーが上手くなれなかったのではないだろうか。
それは「いかにして(どうやって、どのようにして)プレーを『実行』するか」という課題である。
「正対」を例にとろう。「正対」という概念を理解しそのプレーイメージをもっていることやプレー選択の判断を下すことと同様にまたはそれ以上に、実際に「正対」を実行できることが重要であることは言うまでもない。しかしながら、「実行」することこそが実はとてもとても難しく、重要であるということは見落とされがちではないだろうか。つまり我々プレーヤーは、どのようにプレーすべきかを重視しそれに満足するあまり、そのプレーをいかにして実行するかに関して全力を注ぐことをしばしば怠ってしまっている。
考えてみれば、ア式で用いられている概念が現象を分析したり、判断規準を与えたりするのは第三者的な視点からである。それらの概念装置は多くの現象から具体の要素が捨象され、本質のみが抽出された状態にある。「正対」とは、客観的には対峙した相手に複数のプレーの選択肢を見せることと定義されるだろう。しかし僕の主観的な世界においては、相手におへそを向けながら身体を姿勢良く立てた状態で、相手の両側に選択肢があるようなボールの持ち方をしながら多様な方向に多様なボールタッチでボールや体を動かしている、そのようなものであると捉えている。というよりもこれは言語化を敢えて試みたに過ぎず、言語化しなければ「正対」するという判断を下したのち、特に上記のことを意識して「正対」を実行しているようなことはない。
しかし、プレーヤーにとって最も重要な仕事とはまさにこのことであるはずなのだ。様々なケースにおいてもっとも主観的な世界から「正対」を掴み、無意識下でも実行できるようになるということ。そのためには、練習における膨大なケースにおいてまずは意識的に「正対」をトレーニングするほかない。そこでは単に「正対」というプレーイメージを持つことやプレー選択を下すことに満足してはならない。ボールタッチや体の向きや姿勢、ドリブルスピードの調節など、概念の定義においては捨象された、ありとあらゆるいちばん具体的なところを文字通り体で覚えること、感覚に刷り込ませること。要するに主観的な世界から「正対」を掴むということ。僕はこれが決定的に足りていなかった。「正対」というプレーイメージが思い浮かべば、またはそのようなプレー選択が下せれば「正対」が実行できるものであると、とんだ勘違いをしていたのだろう。
コーチを始めてから気づいたことは、サッカーというゲームにおいて、白線の内側に立ったときの主観的な世界と、白線の外側から内側を見守る、及び映像によっていわば「神の視点」から現象を分析するときの客観的な世界が想像以上に違うものであるということである。白線の外側から飛ばされるコーチングは、正対しろ!手前を取れ!というものである一方で「いかにして『実行』するか」をミクロに教えてはくれない。もちろん、プレーを実行するところはプレーヤー自身が責任を追うものだといわれればその通りではあるのだが、そのプレーイメージをピッチ上で実行するコツを教えることはできるはずなのだ。
だから、東大ア式におけるアプローチはダメだとか、間違っているとか言いたいわけでは全くない。むしろそうであるからこそ、OBコーチがいるのだと積極的に主張したいのだ。概念によって理性的にサッカーを理解するという面において、彼らは監督やテクニカルには遠く及ばない。しかし選手上がりのコーチは、概念によって伝えられたプレーイメージをピッチ上で実行することについて膨大なケースを経験してきた。だからプレーヤーがピッチに立ったときの主観的世界、一次的構成物としての世界に寄り添いながら「いかにして『実行』するか」を肌感覚で教えられることに彼らの強みがあるはずだ。
チームが客観的で理性的なアプローチに偏ったときにこそ、このように主観的で感覚的なアプローチも上手く織り交ぜることが必要になってくるのではないだろうか。そしてこの客観的で理性的な世界と主観的で感覚的な世界を連続させること、それが今季の目標であると高らかに宣言しておこう。
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卒部feelingsらしくなくなってしまいました。本来はキャプテンとして書くべきことがあるはずにも関わらず、このような内容になってしまってごめんなさい。
最後に感謝を伝えさせていただきたいです。
サッカーで出会うことができた全ての方々へ、僕のサッカー人生が楽しくておもしろかったのはひとえにみなさんのおかげでした。本当にありがとうございました。
そして昨季ともに戦ってくれたア式のみんなへ、本当にありがとう!
たった5勝しかできなかったけれども、いやだからこそ、その1つ1つが格別に大切で、今後誰にも奪われることのない僕の宝物です。
上原 真路
しかし、そのようなことよりも僕の興味を惹きつけて離さない、そして必ず向き合わなければならないことが1つあった。それは昨シーズン、僕はあまりサッカーが上手くなれなかったということだ。新監督やヘッドコーチはまったく新たなサッカーの観方を僕に与えてくれたし、それによって少なからずは上手くなっていたのだろう。
だが歴代の偉大なキャプテンたちのように、一部の舞台でア式を勝たせることができるプレーヤーになることはできなかった。もっといえば、自分のプレーはほとんど通用していなかったといってよい。
それにもかかわらず、今でも東大ア式はプレーヤーを上手くしてくれると本気で信じているのだ。だから、他でもない僕自身が「なぜ東大ア式でサッカーが上手くなれなかったのか」について興味が尽きない。プレーヤーが「いかにしてサッカーが上手くなれるか」について叙述したものはあまり見たことがないし、僕と同じようにア式での成長に伸び悩む後輩たちがいるかもしれない。だからこの問いに対する自分なりの答えを出してみることにしよう。
早速、本題に入りたい。
東大ア式は、他の日本のサッカーチームとは一線を画するアプローチによってプレーヤーを上手くさせようとしている。当事者である我々はこのようなアプローチをもはや当然視しているが、入部当初は非常に大きな衝撃を受けた。
ここでは、僕が大学2年生の春に新歓記事のために書いた文章の一節を引用したい。
「ア式のサッカーは『考えてプレーする』ことを何よりも重要視します。これまで感覚でプレーしていたサッカーが秩序化され、その解像度が高まっていくことを体感できます。」
そのアプローチとは理性的・科学的アプローチというべきものである。
そして、その最大の特徴は「概念」の導入であると思う。
ア式プレーヤーの多くはおそらくそれをサッカーの試合を観たときに最も実感する。なぜあのプレーヤーは簡単にボールを失わないのか、なぜあのチームのビルドアップはほとんど失敗しているのか。プロフェッショナルの分析官には笑われてしまうくらい解像度は低いのであろうが、東大ア式プレーヤーたるものプレーヤーの個人戦術からチーム戦術に至るまで、それなりに語ることができると自信を覗かせるのだ。この際には、観察可能な現象に対して直接には目に見えない「概念」によって説明する、という形態を取っていることが多い。
ア式プレーヤーが須らく衝撃を受ける、もっといえば感銘を覚えるのは要するにこのような新しい概念装置を学ぶというところにあるだろう。「正対」「プレスライン」「辺と点」「手前と奥」...etc。ア式で用いられる数々の概念は、我々をしてサッカーの観方をすっかり変えてしまうのだ。
現実に生起する現象が変化するわけではない。我々の「眼」が変化するのである。概念というレンズを通してみることによって、サッカーというゲームにおいて生起する現象がよりクリアに見えるようになる。
そして東大ア式はテクニカルが試合を分析するためだけではなく、プレーヤーに対する指導の過程においてもこのような概念装置を導入する。「正対する」「プレスラインを切る」「辺に立つ」のように、概念は現象を分析するための道具としてのみならず、実際にプレーを改善するためにも用いられる。
しかしながら、立ち返って考えてみよう。このような概念装置を導入することによるプレーヤーのメリットとは一体何であっただろうか。
それはプレーヤーにどのようにプレーすべきか、どのようなプレーを選択すべきかに関する指針―それはプレーイメージや判断規準と呼ばれている―を与えてくれるところにあるだろう。自分のプレーが上手くいっていない、けれども何をどのように改善すればよいのかよく分からない。最後には、技術レベル・フィジカルレベルの不足やメンタルの弱さという結論に行き着く。プレーヤーはしばしばこのような状況に陥る。しかしア式で用いられる概念装置は、よいプレーができていない原因をクリアに説明し、何をどのように改善すればよいのかを合理的に教えてくれる。
例えば、ビルドアップにおいて真正面から相手FWのプレスをガツンと食らってボールを失ってしまう傾向にある、という現象は「辺」という概念によってボールを受ける以前のポジショニングにその原因が帰属されるだろう。そしてプレーヤーは「辺に立つ」ことで、ボールを失うという現象を引き起こした原因の1つであるポジショニングの問題に対処できる。
ところで20世紀最大の理論社会学者であるタルコット・パーソンズは「『概念』とは経験的世界を照らすサーチライトである」と述べたそうだ。しかし東大ア式で用いられている概念は、社会学における概念の機能に加えて、もう1つ重要な機能をもっている。それは単に現象の一部を切り取って光を当てる、つまり事実を分析することにとどまらず、どのようにプレーするべきかという実践に対する処方箋となる機能である。これはおそらく社会学がその研究対象とする近代社会と違って、サッカーはそれ自体として目的が明確であり、特に東大ア式はゲームモデルに基づく各局面の目的もはっきりと示されているからだろうか。例えるならば、どこへ進むべきか分からない暗闇を必死に彷徨っているプレーヤーたちに、概念はサーチライトとして彼ら彼女らが進むべき方向を煌々と照らしてくれる。つまり東大ア式で使われる概念は単にテクニカルが試合を分析するためだけではなく、我々プレーヤーにどのようにプレーすればよいか、つまりプレーイメージや判断規準を与えてくれるものであり、この点が本当にすごい。
このように概念の導入はプレーヤーに対してプレーの指針を与えてくれるという大きな意義がある。しかし僕はこのように概念によってプレーイメージや判断規準を獲得することに注視し満足するあまり、プレーヤーとして取り組まなければならない最も重要な課題を忘れてしまった―いや構造を主体とすれば、このようなアプローチはプレーヤーから最も重要な課題を隠してしまうように作用しているのではないだろうか―。そしてそれが故に、僕は東大ア式でサッカーが上手くなれなかったのではないだろうか。
それは「いかにして(どうやって、どのようにして)プレーを『実行』するか」という課題である。
「正対」を例にとろう。「正対」という概念を理解しそのプレーイメージをもっていることやプレー選択の判断を下すことと同様にまたはそれ以上に、実際に「正対」を実行できることが重要であることは言うまでもない。しかしながら、「実行」することこそが実はとてもとても難しく、重要であるということは見落とされがちではないだろうか。つまり我々プレーヤーは、どのようにプレーすべきかを重視しそれに満足するあまり、そのプレーをいかにして実行するかに関して全力を注ぐことをしばしば怠ってしまっている。
考えてみれば、ア式で用いられている概念が現象を分析したり、判断規準を与えたりするのは第三者的な視点からである。それらの概念装置は多くの現象から具体の要素が捨象され、本質のみが抽出された状態にある。「正対」とは、客観的には対峙した相手に複数のプレーの選択肢を見せることと定義されるだろう。しかし僕の主観的な世界においては、相手におへそを向けながら身体を姿勢良く立てた状態で、相手の両側に選択肢があるようなボールの持ち方をしながら多様な方向に多様なボールタッチでボールや体を動かしている、そのようなものであると捉えている。というよりもこれは言語化を敢えて試みたに過ぎず、言語化しなければ「正対」するという判断を下したのち、特に上記のことを意識して「正対」を実行しているようなことはない。
しかし、プレーヤーにとって最も重要な仕事とはまさにこのことであるはずなのだ。様々なケースにおいてもっとも主観的な世界から「正対」を掴み、無意識下でも実行できるようになるということ。そのためには、練習における膨大なケースにおいてまずは意識的に「正対」をトレーニングするほかない。そこでは単に「正対」というプレーイメージを持つことやプレー選択を下すことに満足してはならない。ボールタッチや体の向きや姿勢、ドリブルスピードの調節など、概念の定義においては捨象された、ありとあらゆるいちばん具体的なところを文字通り体で覚えること、感覚に刷り込ませること。要するに主観的な世界から「正対」を掴むということ。僕はこれが決定的に足りていなかった。「正対」というプレーイメージが思い浮かべば、またはそのようなプレー選択が下せれば「正対」が実行できるものであると、とんだ勘違いをしていたのだろう。
コーチを始めてから気づいたことは、サッカーというゲームにおいて、白線の内側に立ったときの主観的な世界と、白線の外側から内側を見守る、及び映像によっていわば「神の視点」から現象を分析するときの客観的な世界が想像以上に違うものであるということである。白線の外側から飛ばされるコーチングは、正対しろ!手前を取れ!というものである一方で「いかにして『実行』するか」をミクロに教えてはくれない。もちろん、プレーを実行するところはプレーヤー自身が責任を追うものだといわれればその通りではあるのだが、そのプレーイメージをピッチ上で実行するコツを教えることはできるはずなのだ。
だから、東大ア式におけるアプローチはダメだとか、間違っているとか言いたいわけでは全くない。むしろそうであるからこそ、OBコーチがいるのだと積極的に主張したいのだ。概念によって理性的にサッカーを理解するという面において、彼らは監督やテクニカルには遠く及ばない。しかし選手上がりのコーチは、概念によって伝えられたプレーイメージをピッチ上で実行することについて膨大なケースを経験してきた。だからプレーヤーがピッチに立ったときの主観的世界、一次的構成物としての世界に寄り添いながら「いかにして『実行』するか」を肌感覚で教えられることに彼らの強みがあるはずだ。
チームが客観的で理性的なアプローチに偏ったときにこそ、このように主観的で感覚的なアプローチも上手く織り交ぜることが必要になってくるのではないだろうか。そしてこの客観的で理性的な世界と主観的で感覚的な世界を連続させること、それが今季の目標であると高らかに宣言しておこう。
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卒部feelingsらしくなくなってしまいました。本来はキャプテンとして書くべきことがあるはずにも関わらず、このような内容になってしまってごめんなさい。
最後に感謝を伝えさせていただきたいです。
サッカーで出会うことができた全ての方々へ、僕のサッカー人生が楽しくておもしろかったのはひとえにみなさんのおかげでした。本当にありがとうございました。
そして昨季ともに戦ってくれたア式のみんなへ、本当にありがとう!
たった5勝しかできなかったけれども、いやだからこそ、その1つ1つが格別に大切で、今後誰にも奪われることのない僕の宝物です。
上原 真路
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