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2月, 2017の投稿を表示しています

グラウンドの下には

何が埋まっているんでしょう? 時間でしょうか?お金でしょうか?それともまさか死体? 何が埋まっているんでしょう。 サッカーは面白い。 面白くって、少し、怖いです。 桜の季節にはまだ少し早いけど、もうすぐ東大二次試験もあるし桜の話をします。 小説家・梶井基次郎は、『桜の樹の下には』の中で、 「桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。」 と書きました。 桜が綺麗なのは、樹の下に埋まっている死体の養分を吸い取って花を咲かせているからなんじゃないか、という短いお話です ( 梶井基次郎『檸檬』に収録されています ) 。 梶井は桜の咲きぶりについて、大変艶やかに、そして妖しく、ミステリアスに描写しています。 グラウンドの下には何が埋まっているんでしょうか。 サッカーは面白い。面白くって、少し怖いです。 大学生になってから、グラウンドの下には何か埋まってるんじゃないかと思うようになりました。桜の樹とは違って、死体ではないでしょう。 何が埋まっているかはたぶん、人によって違います。 feelings 頻出テーマである「機会損失」を例にとれば、グラウンドの下に埋まっているのは「サッカーのために犠牲にした自分の時間」かもしれません。自分の時間を踏みつけてサッカーをしている。自分の時間という養分を吸い取って艶やかに咲くサッカーの花。例えばね。 私がグラウンドの下をそっと覗くと、見えるのは、 「自分が練習しているせいで練習できなかった誰かの練習時間」とか、 「自分が練習をできるようにしてくれた方々の手間と時間」などなどです。 よく見るとまだまだたくさん見えてきそうで、グラウンドを踏むのが怖いです。 そして、サッカーは艶やかに私を惹きつけます。 もしグラウンドが透明で、下が見通せたらきっとすごく怖いでしょう。 気づいていようがいまいが、何かを踏んで、何かの養分を吸い取ってサッカーをしています。 グラウンドの下をのぞくとき、なおさら、「うまくなりたい」と感じます。 さて、顔をあげて、サッカーをしましょう。 8

交差点

中学生のとき読んだ自伝で、 Apple 創業者スティーブジョブズは確かこんな感じの言葉を残していた。「我々はテクノロジーとリベラルアーツの交差点に立っている」そこから生まれたのが現代のライフスタイルに欠かせない iPod であり iPhone である。   交差点は 2 つ ( かそれ以上 ) の道路が交わる場所だ。それまで一次元だった 2 つの世界が交わることで二次元平面に世界が広がる。 3 つの ( 一次独立な ) 世界が交われば三次元の立体の世界になる。もっと多くの世界が交わればもっと多次元の世界になる。そこまで来るともう想像が追いつかないが。   つまり何が言いたいかというと、自分も何か複数の世界の交差点に立てるような人間になりたいなということ。世界というと大げさかもしれないが、要は複数ジャンルに通じているからこそできることをやってみたい。わかりやすいのはサッカーとビジネスが結びついて現在サッカーが商業価値の高いスポーツになっていることか。個人で見れば、理系の自分が文系の学問も学んでみるとか、日本で生活しつつも世界に目を向けてみるとか。サッカーでいえば、 DF の自分が FW の思考回路も知っておきたいというところか。もちろんだからといって理系の勉強をないがしろにしてはいけないし、世界に出るからと言って日本について知らなくていいわけもないし、 FW 的思考だけで DF をしてはいけない。両方 ( 全部 ) をその時々で力を入れる比重を調整しながらやってみる。そうして、それらを結びつけて、新しい何かを創り出す。  10 年後、 20 年後、自分はどんな交差点に立って、何を創り出すのか。無駄にできる時間はない。   ア式がその価値をもっと高めていくためのヒントもここにあったりして。 1 年 松坂

執着分散理論

皆さん執着分散理論という理論をご存知だろうか。これは LOVE 理論で唱えられている理論の一つで、読者の多いア式には知っている方も多いだろう。知らない人のために説明しておこう。本命の女性の前で緊張してしまう男性。そんな男性はその女性に対し余計に「執着」し、余裕のなさを露呈してしまっている。つまり、余裕をもてばよいのだ。余裕を持つためには、 1 人の女性に対し執着するのではなく、複数の女性にアプローチし心に保険をかけておけばよい。これを執着分散理論という。この執着分散理論は僕は非常に有効だと思う。世の中に女性は 35 億人もいる。その中の 1 人に対し執着する必要はないのだ。実際に複数の女性にアプローチすることで余裕をもてるのは確かである。 この理論が自分の中で余りにもはまったので、僕はこの理論を他にも応用できないかと考えた。自分が執着しているもの。それはゴールである。ゴールを取れた試合は、他にどんなひどいプレーをしていてもある程度は満足できる。反対に、ゴールを取れなかった試合は、どんなによいプレーをしていても多かれ少なかれ不満を抱えてしまう。これは完全に執着してしまっている。これは執着分散理論からすれば非常によくない。 ただゴールの場合、複数のゴールにアプローチするというのはサッカーのルール上不可能なので、一本一本のシュートへの執着をなくせば、よいのではないかと考えた。チャンスは一回しか来ないと後がない気持ちでシュートを打つのではなく、外してもいいからとりあえず打っとくみたいな感じでシュートするのである。少なくとも執着分散理論という見地に立てばこのように言える。 ただ、これに対して一回のシュートに気持ちを込めないとシュートは入らないという反論もあるかもしれない。実際に青森山田はこの意識を持つことで、決定力を身につけ選手権で優勝したらしい。ただ、僕はこのような意識は試合では足枷にしかならないと思う。確かに練習中はこのような意識でシュートを打つべきである。それが上達を支えるかもしれない。しかし、試合中にそんな精神状態でシュートを打とうとしている時点で既に余裕がないと言えるのではないか。これは決めないとと思ってシュートを打ち外したことのある人は多いのではないか。これは執着分散理論の見地に立つと完全に誤りなのである。実際に柿谷選手

大変

僕は今お世話になった塾でバイトしている。主に生徒の質問に答え、講師の手伝いや電話対応などもする。生徒はほとんどが高校生で、質問は sin 、 cos ってなに?から東大の過去問まで幅広い。しかし、最近は高 3 から質問ではなく悩みを相談されることも多い。 ある日いつも通り質問対応していたらある高 3 女子が悩みを打ち明けてきた。その女子とは普段から笑い話をするような仲なのだが、その時は違った。深刻そうな顔をし、目は潤んでいて、いつもの笑顔はなかった。そしてこう言った。 「過去問で全然点数が取れないし ... もう受かる気しない ... いろんなこと我慢してきたのに ... もうどうしたらいいかわからないよ ...... 」 そして僕の前で大号泣した ... この悩みはおそらくほとんどの受験生が抱くものであり、もちろん僕も同じように悩んだ時期がある。そんな時に僕は大切にしていた言葉がある。それは 「大変」 誰もが口にしたことのあるこの言葉。何か自分にとって辛いことをする時に使われる言葉。しかし、この言葉は「大きく変わる」と書く。自分が「大変」なことをしているとき、自分は「大きく変わる」、つまり成長する、ということを意味する。僕は受験直前の辛い時期に「今大変なんだからこれを乗り越えれば今より絶対に一歩成長できる」と思うことによって受験勉強を耐え忍んできた。 ア式においても「大変」と思うことはたくさんある。おそらく多くの人が今「大変」だと感じているのはラントレであろう。 ラントレは体力をつけるのには効果的だが、 1 番辛いし 1 番つまらないし疲労は溜まるわ、もう誰もが避けて通りたい練習である。早く走りたいのに走れないあの感覚を思い出すと誰もが憂鬱になるだろう。 では何をモチベにラントレをすれば良いのか。それは今よりもはるかに体力のある自分を想像するしかない。「こんなに大変なラントレを週 2 でやれば必ず体力はつく、そして 90 分走り

嬉しい

自分がスカウティングした試合で勝つと嬉しい。自分のしたスカウティングが勝利を助けたように思えるからだ。実際どれくらい助けているのかは分からないが、自分が伝えたような攻め方を相手がしてきたような時は伝えたことで対応が少し良くなったかもしれない。そんな風に少しは助けたと思っている。自分のスカウティングの良し悪しはチームの結果だけでは測れないし、負ければ意味が無い訳でも勝てば意味がある訳でもない。ただ、最も嬉しいのはチームが勝利した時だ。  自分がスカウティングしていない試合とスカウティングした試合では全く見る気持ちが違う。スカウティングしていない試合を見るときはただ応援している。共に活動している選手やスタッフに勝ってほしいという気持ちだ。勝つと嬉しいが同時に自分は何もしていないとも思う。スカウティングした試合を見る時は力も入るし緊張する。試合中に出来ることはほとんどないからただ試合を応援して見るしかなく、例えるなら試験を受けて結果の発表を見る時のようだ。それ以上に息をのんで見ている。選手を応援する気持ちに加えて、自分のしたスカウティングに意味があったと思いたい、喜びたい、だから勝ってくれという気持ちが強かったのを覚えている。とにかく勝つと嬉しい。その分負けると悔しい。自分が伝えていないような攻められ方で相手にやられた時自分がそれを伝えられていれば防げたのではないかなど、どういうスカウティングをしていれば負けなかったかを考えて次のスカウティングにつなげていた。  自分がリーグ戦の勝敗に関われて喜びも悔しさも感じられたのは、ピッチで戦う選手達がいるからです。また、中間さんはじめテクニカルスタッフの皆や OB コーチの助けでスカウティングが出来ました。だから、家族、全ての部員、関係者の方々に感謝しています。ありがとうございました。 サッカーは楽しい 3年 鈴木拓実

カフカ

フランツ・カフカと言えば、ドイツの作家で、中編小説「変身」の作者である。 大雑把に紹介すると、ある日おぞましい虫へと変身してしまった男が、強い絆で結ばれていたはずの家族に敬遠され、「忘れられていく」という話。結末は奇妙で、多くの解釈を生んでいるらしい。 この中に登場するウンゲツィーファー(害のある小動物)については何年か前に誰かの feelings で触れられていたように思う。遡って読みたいがいつの投稿か全くわからない。これを書き上げたら少し探してみる。 「変身」、興味のある人は春休みにぜひ一読していただきたい。 前置きはこのくらいにして、 僕が今日書きたかったのは「変身」ではなく。 東京大学の『カフカ』の話。そしてア式蹴球部の、僕の『カフカ』。 読者のほとんどは知っているだろうが、東京大学の単位評価は上から順に、「優」、「良」、「可」、「不可」となっている。 50 点以下が「不可」となり、単位は来ない。 それぞれの評価にコメントを付けるとすれば、(科目によってばらつきはあるものの)大体以下のような評価内容の仕訳になるのではなかろうか。 不可: 授業に出ていない、勉強していない、「やるべきことをやっていない」 可 : 授業に出ていればとれる。最低限の行い。「当然この程度ならとれるだろう」 良 : やるべきことをやったうえで努力した。「成果としては上出来であろう」 優 : 素晴らしい。 plus @を生み出した。「高い目標を掲げ、実現できた」 異論は受け付けるが、僕はこの程度の解釈だ。 学期末、成績表にこの評価が並ぶが、成績のあまりよくない者は「可」と「不可」ばかり。 この状態を『カフカ』というらしい(入学時に何かで見ただけで、僕自身は一度も使ったことはないので、今誰がそういう呼び方をしているのかもわからない)。 翻ってア式蹴球部。今、自己評価はどのくらいだろうか。 やるべきことをできているだろうか。 努力できているだろうか。 高い目標を掲げ、成果を生み出せているだろうか。 『カフカ』に、落ち着いていないだろうか。 (他己評価はそもそもされているかすらわ

最後の何でも屋

冬オフのとある日のこと。 九州旅行中の同期選手 4 名がひょんなことから熊本の実家の私の母と対面する機会があった。 母に後で聞くと、会話の中で 同期「本人はア式のこと何と言っていますか?」 母「もう、命懸けて頑張ってますよー」 同期「僕たちも感謝しています」 という旨のやりとりがあったそうだ。 この会話を聞いて私は 同期の感謝の気持ちを言葉に現れた形で聞けたことと、母が、私がア式に「懸けていること」を理解し認めてくれていることを言葉に現れた形で聞けたこと。この2つの点から嬉しく思った。 現在、このア式蹴球部(男子部)において、純粋な「女子マネージャー」は私一人である。(女子トレーナー、女子テクニカルスタッフはいるものの) この現状から、どうしてこんなに少なくなってしまったのか、女子が居づらい部活なのだろうか、と考え込んでしまうこともある。下級生の時は同期ももっといた。後輩もいた。一人、また一人と辞めて行ってしまった。自分の代が最高学年となり、先輩はもう引退されていってしまった。 ついに、女子のマネージャーは私一人となってしまった。 この部活は、東大生ならば普通勉強その他自己投資に費やすような時間も犠牲にしてサッカーに打ち込むところ。 そして、サッカーをするサークルなど他の団体も大学内に多数存在する中、唯一大学の名を背負って戦っている。 それ故、「部にいる意味は?」「部に貢献しているか?」「ここに所属するにふさわしい人間か?」を部員は幾度となく問われる。 その中で、自分の価値とは何か、考えては考えて、考えすぎて辛くなって辞めていく人がいるのだと思う。 スタッフの中でも特にマネージャーは何らかの専門性を持つわけでは無くいわば「何でも屋」。仕事は多岐にわたるがその分何のためにいるのか分からなくなってしまうのだと思う。 身近な人が辞めていく中で、そして辞めていく人と話す中で、私も自分の価値とは何か改めて考えた。しかしやはり答えはイマイチ分からなくて、それでも辞めるという結論を下すことなくのほほんと続けて行っている私は考えが一人浅はかなのだろうか、と悩んだこともあった。 思えば、自分の価値とは何かを探る模索は入部当

父の口癖

父としょっちゅういろんなスポーツを観る。そんな父の口癖は 『こいつ所詮日本でしか通用しねぇからなぁ~』 である。 また言ってるよ、って思って毎度毎度スルーしてる。 でもよく考えたらスルーできないかもしれない。 スケールは小さくなるけど、同じこと自分にも言えそう。 ア式でなら通るパス、ア式でなら通用するドリブル、 ア式でなら通用するディフェンス。 練習でできたことが東京都一部や関東で通用するものかよく考えな いとレベルアップなんてしないよなぁ。 もしかして父さん、その口癖俺へのメッセージ?? 1年 中村紳太郎

とりあえずは頑張らない

人間を測るものさしのようなものがあったらそれはいくつあるだろうか。それによって人間の価値(価値と言ったら大げさかもしれないが)を測れるとしたら自分はどこに位置するだろうか。 高校時代、僕は率直に言ってアホだった。(今もまだアホかもしれない。)ものさしの数は僕の中では2つだった。「部活」と「勉強」。この2つを頑張っていれば、少なくとも高校時代においては充実した時間を過ごせていた。ような気になっていた。 入学して約一年が経とうとする。この一年で何を学んで、何を身につけただろうか。 大学に入って感じたことはものさしの数は n 個。しかもその n は限りなく ∞ に近いように感じる。自由だから何を選んでもいい。「リーダーシップ」、「言語能力」、「会社経営」、「責任感」。自分の周りにはいろんなものさしで認められている人がいる。じゃあ自分は何を選ぶのか。何が欲しいのか。欲張りだから全部欲しい。でも現実的にそれはできない。 そんなことをたまに考える。考える度に「とりあえず目の前のことを頑張ろう」って自分に言い聞かせて逃げてきた。目の前のことはとりあえず頑張った。じゃあ次は?いつまでも考えることから逃げてはいられない。先を見据えて考えないと大学生活なんて一瞬で終わってしまう。 サッカーのことを考える。昨日の試合のビデオを見る。出来は全然よくない。明日からとりあえずは頑張らない。明日から頑張ろう。 1 年 細井

有言不実行

東大生は頭がよい。 ことあるごとにこの言葉が嘘ではないと痛感させられる。それは端 に勉強が出来るということではなく、よく物事を考えているし、 論理的に物事を捉えられていると思う。 そして口がたつ。自分の考えていること、思っていることを表現す るのが上手いと思う。 ア式部員も例外ではない。 ミーティングや何かを決める場での議論は白熱することも多々ある 。それぞれよく考えているし、誰も発言しないという状況はほとん ど生まれない。 ただ 自らの言葉を行動に移せているだろうか。 自らの言葉に責任を持てているだろうか。 壮大なビジョン、高い目標、揺るぎない自信。 それらを口にすることは決して悪いことではない。高い志を持たな い者に成長はないと思う。加えて、口に出すことで周囲に影響を与 えることが出来る。 悪いことではない。 悪いことではないのだけれど、その言葉に責任を負う覚悟はあるの か。責任のない言葉は空虚なものに成り下がってしまう。 勿体ない。本当に勿体ない。 これは自分への戒めでもある。 自らの志が低いとは思わないし、積極的に発信するようにしている 。 ただ、 チームに十分な影響を与えることが出来ているとは思わない。 たぶん、言葉に、行動に力が足りないのだと思う。 しかし、それでは選手を辞めてまでア式に残った意味がない。部に いる以上は結果を残さなければ意味がないと思う。それも選手とは 違って結果が分かりにくいスタッフだからこそ、チームに影響を与 えることが出来なければいけないと思う。 では、どうすればよいか。 責任ある言動、覚悟。そのような言葉で片付けてはそれこそ空虚だ 。何が正解なんてまだわからない。 ア式で過ごす時間も間もなく折り返しになる。自分なりの、自分に しか出来ないやり方で、きっと正解にたどり着く。 決して有言不実行にならないように。 2年STAFF  糸谷 歩