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自己紹介

「初めまして。田所です。ア式でフィジカルコーチっていう役職をやってます。」 大学に入学してから自己紹介をしなければならない場面が多くあり、何度もこのセリフを言った。その度に決まって返ってくるのが、 「何で選手じゃなくてフィジカルコーチ?」 という質問だ。 この疑問は生じて当然のものだと思うが、真面目に答えようとすると話が長くなり過ぎてしまい、初対面としては不適切なやり取りになってしまうので、普段は適当に流すことにしている。 初めての feelings では、僕のサッカーとの関わりを振り返りつつ、この質問に真面目に答えてみようと思う。 僕は小 2 から高 2 の 6 月までは選手としてサッカーをしていた。僕が所属していた高校サッカー部の引退時期は高 3 の 5 月のインハイ予選後か 11 月の選手権予選後のどちらかだった。それに比べると僕の引退はチームメイトと比べて約 1 年早かったことになる。 サッカーを辞めるきっかけとなったのは高 1 の 1 月から高 2 の 6 月までの半年間、怪我など色々なことが重なってまともにサッカーができなかったことだった。半年間もサッカーをしないでいると身体はありえないほど重くなった。また、怪我をする以前はかなりの量の走り込みをしていたこともあって体力を戻すには相当の努力が必要だった。サッカーに命を懸けていた中学までの自分ならがむしゃらに練習を続け体力を取り戻していたのだろうが、高 2 の自分はがむしゃらにはなれなかった。 僕は高 1 の時点で東大を受験することを決めており、サッカーができなかった半年間もかなりの時間を勉強に割いていた。しかし、半年間猛勉強をした割に成績はそれほど伸びなかった。今でこそ成績の伸びなんてものはコツコツと努力を積み重ねた後に急激に起こるということは理解しているが、当時の自分はそんなことを考えもしなかった。とにかく勉強時間を減らすのが怖くて、自分の体に鞭を打ってサッカーに向き合う余裕などなかった。 そんな訳でチームメイトや顧問の先生に引き止められつつも、高 2 の 6 月でサッカーから離れることを決意し、受験勉強に専念した。サッカーを辞めてからは、下手なことをしていてはチームメイトに申し訳ないという気持ちもあり、狂ったよう

社会復帰

「 feelings 担当のお知らせです。 ○ ○ 日 までによろしくお願いします。」    今年もfeelingsの番が回って来てしまった。    自分も どうせ 書くなら 周りの人が感動 する ような 文章を 書いてみたい 。   だけど、 今の 自分 は サッカー 面でも 部の 業務 面 でも 特別な 働きを しているとは 言い難い 。   それどころかFacebook の 投稿 を 忘れたり 、 審判の 資格更新し忘れて 資格 失 ったりと 色々と 迷惑を かけている 。   そして 只今 絶賛 feeling s 滞納 中である 。  本当に 皆さん申し訳ありません 。     そんな人が 書いた文章 が 説得力を 持つはずもない 。  ところで皆さんは これまでの 人生 で 宿題はやって来ましたか?  学生にとって宿題はとても身近なもので毎日の授業で 出るものから、 長期休みに出る 自由研究や 習字なんてものまで あるかもしれない 。   けれど 、 そんな 多種多様な 宿題でも 共通している ものがある 。   それは 「 期限 」 。     「期限」を 守らなければ 、 怒られる 、 単位が とれないなど 様々な 罰則が あるはずだ。 だから 、 もし ゲームがしたくても 、 苦手な 教科の 宿題だとしても 期限までに 終わらせなければならない 。   そんな 風に して 、 たとえ やりたくないことだとしても 、 他に 魅力的なことが あったとしても、 「 期限 」 を 守るこ とは 当たり前 と なっていく のかもしれない 。  しかし、自分の中高生時代を振り返ってみると 「期限 」 というもの を 意識して きた 事が ほとんど 無かった 気がする 。   なぜなら 自分の 出身校では 出さないと いけない 宿題なんて 無かったし 、 授業に 遅刻しても 大した 問題は 無かった 。   そうして 、 無 自覚 の 内に やりたくないことから 、 そして 「 期限 」 から 逃げるように なっていったのかもしれない 。  そして 、 その

恵まれた環境

自分が今まで20年近く生きてきた環境はとても恵まれたものだったと思う。もう死ぬみたいだけど、そう思う。東大を目指す機会があるだけでも良い環境で生きてきた証拠だと感じる。ただこの feelings を書くにあたって思ったのは、自分がサッカーをしてきた環境、そして今している環境も恵まれているということだ。 小学生の頃に入っていたのは地元のボランティアクラブで決して大きなチームではなかったけど、ちゃんと怒ってくれるコーチ達に囲まれてサッカーが上手くなれた。中学も地元のごく普通な部活でサッカーをしていた。放課後の練習メニューは自分たちで考えるような部活で物足りなさを感じることも多かったけど、自由にやれる楽しさはあったし地元の小学校を使えばいつでもサッカーができた。高校に入るとグラウンドが人工芝になり、練習メニューを決める監督はもちろん、キーパーコーチやトレーナーもいる部活でサッカーができるようになった。キツいことも多かったけど同期の仲間に恵まれて3年間乗り越えられたし、卒業した今では自分たちが成長するための環境を監督やコーチが用意してくれたように思う。 そして今年、晴れて大学生になった。浪人を経た自分は、再び素晴らしい環境でサッカー人生を送れるようになったのである。合格発表後の3月か4月にこのア式の練習に参加した時は正直びっくりした。あんなにきれいな部室や人工芝のグラウンドがあるとは思わなかった。特に驚いたのは、今でも慣れないカタパルトだ。プロが着ける高いやつという噂を高校の時に聞いていたから、初めてその話を聞いた時は「すげー」と思った。高校の時よりも良い施設なんて期待していなかったので嬉しかった。 ア式で恵まれていたのは施設だけではない。高校では1年生がやっていた仕事をほとんどマネージャーがやってくれる。球拾いもボトルの水の入れ替えも。メンバーは学年に関係なく会場設営とかをしなくていい。そしてもう仕事のミスで走らされることはない。さらにテクニカルスタッフまでいる。高校でも試合のビデオを撮ることはあったけど、練習から撮ってくれるなんて初めてだ。こういう話を高校同期にしたら、きっとみんな「いいなー」と言うはず。 そして、自分がミスした時はその間違いを教えてくれるコーチや先輩がいる。カテゴリーが上がって自分が足引っ張ってるなと感じてい

ちょっとした気づき

正式入部から4ヶ月。 わずか4ヶ月といえばその通りだが、この4ヶ月、私はあることに関してずっとどこかでモヤモヤしていたように思う。 単刀直入に言うと、そのあることとは部活を続けるかどうかということ。 本気でやめようと考えたわけではないが、このまま続けていいのかどうかがわからなかった。 でもそれは他に興味があるものができたからでもないし、部活自体が嫌になったからでもない。 同期も先輩もすっごく好きだし、あの女子オリの日に、私を勧誘してくれたア式女子の先輩たちに出会えて本当によかったと思ってる。 ただ、今までやってきたスポーツとはかけ離れすぎていたためか、サッカーが少し嫌になったから。 その原因は主に2つあるように思う。 1つ目は、自分が積極的にプレーできないということ。 元々球技が苦手なためか、ボールコントロールができない。 チームスポーツをやったことがないからか、ポジショニングもわからない。 足の速さには自信がある方だが、それが活かせているわけでもない。 そんなこんなでプレー中私が考えることといえば、 ミスをしないこと、 先輩や同期のプレーを邪魔しないこと、 部員に迷惑をかけないプレーをすること、 それぐらいだった。 この流れからお察しの通り、 私は消極的にプレーすることしかできなかった。 自分がフリーの時も、何もできない気がしてボールを呼ぶことができなかった。 そんな無力な自分が嫌になって、サッカーを続ける意味がわからなくなった時もあった。 2つ目の原因も1つ目と関連している。 これは正直今でも克服はできていない(部活はやめないのでご心配なく!)。 その原因とは、 声出しができない ということ。 いや、もちろん出そうと思えば声は出せる。 出すのが恥ずかしいとかそういうのではない。 ナイディとか、ナイキーとか、ナイスシュートとかそういうことは言える。 誰かを褒めるのにためらうことは何もない。 でも、そうじゃなくて、 戦術のこととか、 自分がボールを呼ぶとか、 そういうことになると自信を持って声出しができない。 言ってることが正しい気がしないというのが大きいが、それで次のプレーを失敗させたくない、と失敗を恐れての気持ちが大きかったように思う。 とこんな風に思っていたが、 実は夏休みに入って、私の意識が少し変わった。 まず1つ目の積極的にプレーできないということについて

深呼吸

昨年の 10 月 2 日、僕は左足首を骨折しました。 脱臼骨折という関節が脱臼した衝撃で腓骨 ( 外くるぶし ) が折れる、手術が必要な程の大怪我でした。 怪我をした日から約 1 週間後の 10 月 10 日に手術が行われ、骨片を二本のボルトで固定、更に靭帯も二本損傷していたため、片方は縫合、もう一方は靭帯が繋いでいる骨にボルトを渡して固定しました。 手術後約 1 ヶ月くらいは本当に辛かったです。 足は痛いし、むくむし、手は松葉杖のせいで豆だらけ、移動が大変で大学の授業にすら行けない。 ラインで流れてくる練習のログを読む度に悔しさとか情けなさとか色んな負の感情が込み上げてきて苦しかった。 でもまたサッカーがしたかったから、その気持ちを糧に耐えることができたし、ギブスが外れた 12 月の頭からの約 3 ヶ月半のリハビリも乗り越えることができた。 手術の影響で足首の硬さは完全には取れなかったけど、ほぼ元どおりにプレーできるようにまで戻って前期リーグ戦を迎えられた。・・・ ここまでは「プレー出来ない程の怪我をした時」の話。正直言ってこれくらいの大きな怪我だとプレーしないで治療に専念すればいいので対処が簡単である。 ここからは「プレー出来るくらいの怪我をした時」の話をしようと思う。 この場合の怪我は軽い打撲や捻挫が当てはまり、まぁ痛いけどプレー出来ない程ではないという感じ。難しいのは、自分の目標や欲求のためにとるべき正しい行動が時期によって変わってくることである。 僕は今年の京大戦で左足首の内側を捻挫した。 怪我直後は割と腫れてかなり痛かったけど、 3 、 4 日でかなり回復したので、京大戦の次の週の木曜日に復帰した。 今思えばこの判断が良くなかったように思う。 正直焦っていた。前期リーグ戦の途中で、それまで FW で三番手だった大池さんがスタメンで起用されるようになり、僕はそのまま三番手に落ちた。そして京大戦で初めてメンバー外になってしまった。その京大戦で怪我してしまったわけだからタイミングは最悪。早く追いつかなきゃいけないのに。 でも焦る一方で左足の調子はそこから一向に良くならなかった。今回痛めた靭帯というのが前述の手術で縫合した靭帯のようで、もともと弱っていたためなか

2019.3.13-7.22

ついに2回目のfeelingsが回ってきた と言っても自分の場合は実質1回目か、なんて思いながら何を書こうかとみんなのfeelingsを見ていたら秀樹がfeelingsの意味についてこんなことを書いていた。 " #feelingsの意味 疑問に思ったことのある人はそれなりにいると思う。 部外への発信、部内の仲間への発信。過去のfeelingsでそう答えている人もいる。至極その通り。 ただ、この夏休み序盤という時期に回ってきたのは、feelingsの意味の1つに、自分と向き合う時間を作ること、ってのがあるんじゃないかということ。 " 確かになぁなんて思いつつ自分がア式に入ってから何をしてきたのかなと軽く振り返ってみたら、わかってはいたけどやっぱり怪我ばっかしたなと。 ということで、今回のfeelingsでは離脱中の過ごし方について書いてみようと思う。 (今後離脱する人に少しでも参考になればいいかなぁ) まず自分のア式に入ってからの離脱遍歴を軽く書いておくと 1年の5月に右脛骨剥離骨折、11月に右足首捻挫、3月に左後十字靭帯(pcl)損傷、2年の7月に右膝捻挫 というわけでア式に入ってからの16ヶ月のうち合計6ヶ月くらい離脱してたらしい。ヤバイな 今回はpcl損傷での離脱中の過ごし方を振り返ってみようと思う。 まず怪我した直後 遠征中ということもあり、設備の整ってない病院に診てもらうしかなくて「ただの疲労じゃない?」なんて医者に言われたこともありそんなに重い怪我だとは思ってなかった。しかし、帰ってきてからかかりつけの病院でいきなりpclの損傷だと言われた。そして3ヶ月固定器具をつけて完全に直すか、強引に靭帯が損傷したままプレーするかをその場で選択することを強いられた。冷静を装ってこれからのプレー期間を考えて完全に直したいですとは言ったものの、正直かなり傷心状態だった。こうして3ヶ月の固定+1ヶ月のリハビリの計4ヶ月の離脱生活が始まった。 遠征後初めての練習ではみんなから怪我について復帰はどれくらい先かなど色々聞かれたが、自分は「最低でも3ヶ月っすね」なんて明るく答えていた。よくそんなに笑って返せるななんて心配してくれた人もいたが明るくならないとやってらんなかった。遠征に行く前に大和さんとの面談で自分のア式での立ち位置や課題、目標なんかをはっきりさせた

テクニカルとして(仮タイトル:9/4 vs東経@武蔵村山 天候曇りときどき雨)

さあ feelings だ。他の 1 年が「マジで書くことない」とか言ってる中で、自分は逆に 3 つくらいテーマが思い浮かんだ。その話を友人にしたら「とりあえず見てやるから 3 つ書いてこい。新聞読むコンクールで受賞したことあるから。」と言われた。鬼畜である。 何故そんなにテーマが思いつくかと考えれば自分の割と特殊な環境にあるだろう。まず武蔵のことで書けてしまう。次に「ア式には絶対入らない」と言い張っていた自分がテクという形で入部に至った経緯でも書ける。タイトルは『僕がア式に入った理由』なんてどうだろうか… と、本当はこの少しふざけた導入から、少し精神論みたいなことを書こうと思っていた。というか書き始めていた。しかしそれは全部消して、全く違うことを新しく書いていく。より feelings にふさわしいテーマだと思う。 9/4 のリーグ戦第 12 節、東京経済大学戦。自分が初めてスカウティングを担当した試合だった。井上さんや稲田さんに全面的に手伝ってもらいながら、なんとかスカウティングミーティングまでは終わらせた。 結果から言えば、「基本的には」スカウティングは間違っていなかったと思う。ストロングとウィーク、戦術、個人分析。事実、前半まではア式のペースで、相手のやり方もほぼ想定通りだった。しかし、後半になって流れは完全に変わってしまった。 3 失点を喫し逆転負け。 悔しかった。腹立たしかった。初めてベンチから聞いた応援の声はやっぱり大きかったけど、試合終盤は虚しくさえ聞こえた。試合中のこちらを揶揄するような東経の声と、試合終了後の歓声。対照的なア式のベンチと選手たち。内倉さんは切り替えろと言ったが自分はまだ切り替えられていない。雰囲気は最悪だった。試合後に再び降りだした雨は、偶然とはいえ流石に状況と合いすぎていた。 とにかく、悔しい。今までのリーグ戦で負けた時も悔しかったけど、それとは全く比べ物にならない悔しさ。今までは、どこかに無力感があった。まるでガンバが負けた時のような、どうしようもない悔しさだった。しかもすぐ切り替えられたということは、「まあ次がある。次は勝ってくれるだろう」という思いがどこかにあったんだろう。今回は違う。いよいよ降格が迫ってきた中での大事な 3 連戦、そして自分のこの 2

いつか自分が

「今週から育成に行ってもらう」 そう連絡をもらった時、悔しさよりもとうとう来たかという気持ちだった。 自分に何が足りなかったのか? 足元の技術、ポジショニング、準備の悪さ… 考えているうちに、あの時のことを思い出した。足りなかったのはテクニカルなことだけではない。 今年2月のスタートアップ合宿初日。2年生全員が集められてミーティングが行われた。幹部から言われた内容は耳が痛いものだった。 「この代は(染谷を除いて)戦力になる選手がいない、リーダーシップを発揮できる選手もいない。みんな殻に閉じこもっていて主張をしない、まともにコミュニケーションもとろうとしない、そういうところが情けないし、同じ部員として恥ずかしい。このままだとア式はお前らの代で終わる。」 言われた時の衝撃は本当に大きかった。自分を変えないと。そう思った。でも、自分を変える勇気はなかなか持てなかった。リーダーシップなんかとれる立場にない、と背負うべき責任から逃げてきた。 今なんとかしないと。 このカテゴリー変更を自分の殻を破る好機にしよう。 自分が育成を引っ張る。 そういう気持ちで練習に臨んだ。 しかし、いざとなると何をすべきかわからないし、気持ちが焦ってプレーも落ち着かない。やっぱり自分が理解していること、できることでないと、うまく発信できない。 そこで、まずは戦術理解を高めることを意識した。チームとしてどうビルドアップすべきか・どうプレスをかけるべきかを、相手のフォーメーションに応じて考えるようになった。相手が4-4-2なら?5-2-3なら?とフォーメーションごとに自分なりの解を持てるようにした。 次に、週末の試合の相手のフォーメーションを調べて、チームで共有するようにした。「今週の相手は恐らく4-4-2だから、プレスのとき、相手右CBがボールを持っていたら、うちのワントップは…」みたいなことを試合の数日前から何人かで話し、試合のイメージトレーニングをしておく。そうすると、試合中に何をすべきかがある程度整理されるので、指示の声も出せるようになったし、何よりも自分がプレーしやすくなった。 でも本当にまだまだ。 育成に来て2ヶ月以上が経ち、良い意味でも悪い意味でも環境に慣れてきてしまっている。自分の中で少し意識が変わったことは良かったけれど、客観的に振り返ってみれば𠮷岡や新屋さんに頼りきっていて、自分は

努力と成功体験

東大ア式蹴球部に入部して 4 ヶ月、初めての feelings 。 最近ヘッドコーチの遼さんによる拷問のような弄りがさらに激しさを増す一方、普段関わりのない A チームの先輩方は自分について悲しいかなそういうイメージが先行しがちだと思うので、かといって自分から馴れ馴れしく絡みに行けるタイプでもないし、この場を借りて部員やこれを読んでくれるであろう友人などにももっと自分のことを知って貰おう。どういう思いでア式でサッカーをすることを決め、何を考えてサッカーをしているのか。何てのは少し大袈裟だし、言語化するのは難しいけど。。 feelings の存在を知ったのは合格してからだった。その頃やっていたのは「受験生企画」。合格が決まってからしばらく経っていたが、先輩方と自分を重ね、自分の選手時代、受験生時代を振り返り、押し寄せる喜びに浸っていたことを思い出す。 サッカーはずっと大好きだ。それは今も昔も変わらない。でも思い返せば、心の底からサッカーを楽しめた期間は短かったように思う。母校である(自称)進学校、栄東中学・高等学校はひたすら勉強&勉強の監獄のような学校で(さすが埼玉の北朝鮮と呼ばれるだけはある)、サッカー部は高 2 の 1 月に引退することからもわかるように決して強いとは言えなかった。地区大会の 1 回戦や 2 回戦で勝てれば良い方だ。中学生の頃なんかは、 '' 緩く楽しめれば良い '' 選手と自分のような '' 勝ちたい '' 選手の意識の擦り合わせができずとても悩んだし、高 2 になり主将を任されてからは、練習メニューを作ったり後輩を統率するのに苦心し、中々サッカーに関して自分自身と向き合うことができなかった。でも、高 1 の 1 年間だけは違った。 1 つ上の代が栄東にとっては奇跡の世代で、練習を重ねていくうちに埼玉のそこらへんの高校には大体勝てるチームになっていた。そこで初めて大好きな先輩方と共に本気でサッカーをして勝つ喜びを知り、心の底からサッカーが楽しいと思った。引退して本格的に受験勉強がスタートしサッカーから離れていると、またあの時の興奮を、アドレナリンを、ボルテージの高まりを感じたいと思うようになった。その先がア式だった。ア式には ''