サッカーは帰納法

高口英成(3年/スペシャリスト/開成高校)

入部して早くも2年が経ち、3シーズン目に入ってから既に数ヶ月が経過している。驚いたことに、今まではあれほどまでに複雑極まりないと思っていたサッカーが、近頃とてもシンプルな姿をしているのではないかと感じるようになった。それはそれは乱立していたサッカーの知見やいわゆる良いプレーみたいなものが、ある時期を境に一つの塊へと収斂を始めたような感覚である。

思えば、サッカーに限らず新しい概念を学んだ時には決まってこういう感覚を伴っていた。沸点を境に止まる所を知らずに進んでいく気化のように、ボコボコと理解と情熱が湧き上がるのである。

この世には、なにかを深く考えたり、原因を推論したりするときに取るアプローチが大きく分けて二つ存在している。一つ目は帰納法と呼ばれる手法で、ざっくり言えば、個別の具体例から抽象的な法則を導き出す、というものである。そしてもう一つは演繹法と呼ばれる手法であり、帰納法の推論の矢印を逆順に辿る方法、つまり抽象的な法則を具体例に当てはめることでその性質を明らかにしていくというものである。

近頃感じたある種の収斂は、具体が抽象へと昇華されていく感覚に近かった。具体的な知見を溜め込めば溜め込むほどに、知識の水槽は熱を孕む。スマホのメモにせっせせっせと書き殴ったサッカーの知識が、やっと実を結んだのかも知れない。こんなわかりにくい書き出しでは何を伝えたいのかが曖昧だが、つまるところ言いたいのは少なくともサッカーにおいて、演繹的なアプローチは用法を守らないと大きな落とし穴になり得るということだ。

ア式にも、原則と呼ぶべきチームでの約束事が存在している。いわゆるゲームモデルみたいなものだろうか。この世の中にも、戦術用語と称されたキーワードが死屍累々たる有様で無惨に打ち捨てられており、そのどれもが何やら難解そうなオーラを纏っている。文字通り戦術かぶれだった入部当初の僕は、やれポジショナルプレーだのやれ戦術ピリオダイゼーションだのに踊らされ、その言葉の持つ本質を知りもしないくせに、大層なプライドをぶら下げていた。

アカデミズムがサッカー界への侵食を進めれば進めるほど、体系化された物事の見方や考え方が現場に輸入される。ところが抽象的な考え方やプレー原則を抽象的なまま理解することはとんでもなく難しい上に、誤解の温床にもなりうる。一つのプレーに様々な要因の絡むサッカーは、わかりやすいキーワードを提示されるとプレー全てがその文脈で見えてしまうことも多い。特にテクニカルの人はスカウティングにおいて似たような現象に遭遇したことがあるに違いない。人のマッチレビューは書いてから読む、という格言が格言たり得るのもこういった背景からだろう。サッカーを演繹的に眺める落とし穴は、まさしくこういった部分にある。

なにも抽象的な考え方やキーワードが間違っている、と言いたいわけではないのだ。それらはきっとある程度正しいのだろうし、合理的なのだろう。ただそこを出発点にして全ての事象を眺めるとあら不思議、そうとしか見えなくなってしまうのである。

じゃあどうすればいいかと言えば、最も愚直かつ単純に、誰の目にも明らかな一つ一つのプレーの良し悪しを判断していくしかないのだ。言い換えるなら、よりピッチ内の、より低レベルの、より細かいスケールでのプレーを出発点にして抽象的な考えを練り上げることである。ケーススタディのように試合をつぶさに観察して思考を止めないこと、そこから得られる膨大なまでの情報量を一つ一つ整理していくこと。それによって導き出される「素晴らしいプレー」のぼんやりとした輪郭を確かめること。すなわち帰納法的なアプローチでサッカーに臨むことである。

一度は膨大なケースの数に呆然とすることだろう。しかしじっと我慢して共通点を探していくと、とても簡単な原則に集約されていくことに気づく。そして大抵の場合、集約された原則というのは世間でもてはやされているキーワードと非常に近いニュアンスを持っている。しかしながら盲目的に抽象的なプレー原則を信じ込むのと、一度掘り下げてから練り上げるのとでは、内在する質が大きく異なる。その帰納法的な営みにこそサッカーの本質が眠っており、知識がまとまりを帯びていく感覚こそがサッカーの理解に一歩近づいた証なのだと思う。

ピッチ内に話を戻すと、上のカテゴリーに属している選手は、掘り下げと練り上げが上手いと感じることが多く、出場機会を掴めていない選手ほど、知識の整理や集約が済んでいないと感じることが多い。大学年代において技術のめざましい向上は難しく、それ故オフザボールでの準備に上達の余地が残されていることを考えれば、「いかにプレーしたいか・するべきか」というプレーイメージの改善が上達の全てだと言えよう。だからこそ、個別のケースをうまく集約させ、余分なコーナーケースは削ぎ落として洗練された意思決定基準を掴み取ることが必要不可欠だと思う。

かくいう自分も理論体系の方が実践的な手法よりも好きな人間なのでこの部分は苦労した。個人的に言えば、テクニカルが最も苦手としているのはこの作業であり、帰納法的なサッカーへの臨み方である。ポジショナルプレーをポジショナルプレーのまま理解しない態度。言うなれば、膨大な動画から帰納的にサッカーの法則を導き出したビエルサのようなサッカーへの向き合い方である。初めからペップのような理路整然とした理論体系を持てる人間などいない。

複雑系の信徒に言わせれば、複雑なものは複雑なまま理解するべきだ、となるのかもしれないが、僕にはそれが難しすぎた。代わりに行ったことといえば、ひたすら試合を見て、その部分構造を観察し、思考実験をやめないこと。こういう場合はこうだったが、こうしてきた場合にはどうするのが良いのか。を考え続けることである。

体の向き一つ取っても、正対を正対のまま理解するのがいかに非効率で本質的でないか。語義を丸呑みするだけではプロのプレーの大半は正対しているようにも見えてしまい、正対していないようにも見えてしまう。まずは自分で日頃の練習の中でおびただしい数の試行を繰り返し、時にコーチや先輩のフィードバックを受けながら、正しい正対の輪郭は自分自身で掴み取る必要がある。そのためにはプレーし続け、映像を見続け、他人と意見を交わし続けなくてはいけない。複雑なものは、一度分解してから再構築するしかないのである。

最近流行りのエコロジカルアプローチというのはそういった面で非常に帰納法的なアプローチであり、プレーの本質を見抜くのに合理的であると思う。学習の本質は差異なのだそうだ。差異から本質を練り上げることができた時、初めて転移が訪れる。

とはいえ、プレー原則のような抽象的なキーワードが全く必要ないかと言われればそうではない。個別の具体例を見つけたり、そのプレーを試すのを助けるためのある種の装置として、抽象的なキーワードは大きな役目を果たす。いわば学習者にパラダイムを与える役割だ。

先の例で言えば、正対を知らなければ正対を掘り下げることすらできない。ピッチ内に放り出されたプレーヤーは大海原を漂っているようなものであり、何を選べばいいかもわからない。学習者に正しい道標を提示する意味で、指導者が抽象的なプレー原則を授けるのは理にかなっている。優れたキーワードは、それだけでプレーイメージを湧かせてしまうものなのだ。

繰り返して言いたいのは、学習者はそれを鵜呑みにしてはいけないということだ。示された道標に、道標以上の価値はない。最終的に収束していく先がその言葉であったとしても、その言葉や概念の持つ領域は自分で確かめていく必要がある。

近頃新入生のコーチをやらせてもらう機会があり、指導していく中で感じたのは、良くも悪くも真面目な東大生は、言われたことを忠実の受け取るものの、そこからはみ出すプレーを意識的に選べないということだ。ありきたりな言葉に肩代わりさせるなら、実験が足りない。

わかりやすい言葉やサッカーの本質を捉えたようなキーワードに流されて欲しくない。プレーして、プレーして、プレーして、その中で様々なケースを試してほしい。得られた個別具体のプレーを集約させ、サッカーの形を明らかにしてほしい。今のトップも育成も少々キーワード主義、シチュエーション主義になりすぎている。大事なのは二つの階層登ったり降りたりすることなのに。戦術コンセプトなる抽象的なものの奴隷になり、ア式のサッカーに溺れているプレイヤーを見ると、とても辛い気持ちになる。

今のチームに足りていないのは、具体的な局面から抽象的な判断基準をまとめ上げる集約能力な気がしている。そして戦術理解度とは、まさしくこの能力のことであると思う。

そして僕自身も、今まで以上にもっと掘り下げてもっと練り上げていかないといけない。サッカーの本質を捉えて、サッカーを誰よりも詳しくなりたい。ア式にいられる時間も半分を切ってしまっている。もう寄り道をしている時間などないのだ。持てる力の全てを捧げて、この部の価値を積み上げたい。

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