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ア式に入って感じたこと

ア式蹴球部に入ること、そこに迷いはなかった。 なんなら少しだけ夢が叶ったような気がした。 私は計画的に生きたことがない。 憧れや目標を定めて、それを追求することは苦手だ。 だけど、どうしても、ア式には入りたかった。 半分くらいはそのために高校卒業後の一年を費やしたといっていい。 なんでそんなに入りたかったのだろう。 私は特別サッカーの才能があるわけでもなく、 10 年選手であるとかいうわけでもない。 高校から始めたばかりのサッカーに、そこまで固執する必要もない。 今でこそ、サッカーがなかったら何もないような生活を送っているけれど、別に他の選択肢だって無限に近いほどあった。 でも、だって、楽しそうだったんだもん。 正直、色々な大学のサッカー部を見ても、入りたい!という衝動は起きなかったのだけれど、東大に女子サッカー部があると知った瞬間、あ、入ろう。と思った。 先輩方だって、ほとんど限りなく存在する選択肢の中で、ア式を選んでいる。 綺麗で可憐で頭脳明晰な女子大学生が、一生懸命サッカーをやっている。 いやいや、そんな人たちの集団って絶対面白いじゃん。 そう思ってア式に入った。 入部してまず感じたことは、ザ・多様性だ。 字面だけ見れば、なんだかありがちな感じがするけれど、これを維持することってすごく難しい。 「個性豊か」という言葉はよく耳にするけれど、それは異なる人間が集まれば必ずそうなるわけで。ここで言う多様性とは少し違う。 集団において一定の向かう方向がある中で、様々なルートでそこへ向かう人がいることを多様性というような気がする。 集団で行動する中で個性が犠牲になることはやむを得ないし、少しはそうでないと集団は崩壊してしまうかもしれない。 でも、ア式では皆が自分を削らないままで、集団としてのまとまりが維持されている気がする。それも多様性の幅がかなり広いのに。その両立がすごいと思った。 この状態が保たれるためには、各人が他者を尊重することが必要だと思う。 これは部が、というより個々人の人格の問題なのかもしれないけれど、ア式には他者を尊重する気持ちが溢れていると感じた。しかも皆それを意図しているようには見えない。 そして、他者を尊重すること、自分を尊重することは、循環するものだということも感じた。 他人の大事なものを認め、それを害さないことは、多様性を構築し、自分自身の大事

世界線

自分がア式蹴球部に入部した世界線と、 入部していなかった世界線と。 その間に、自分はどれだけの違いを作れたのだろう。 わがままを最大限押し通して、しがらみも衝突も必ず生じることを承知で、それでも受け入れてくれたこの部活に、自分は何を返せたのだろうか。 ア式蹴球部が自分を受け入れたことは、果たして正解だったのだろうか。 最初にア式蹴球部に興味を持ったのは入学した時にテント列で誘われた時だ。 ア式の試合動画を見て、GKを起点とする流れるようなパスワークで相手の守備を切り崩すスタイルに、(失礼ながら)東大でもこんなサッカーができるんだと素直に驚いた。 その後は何度か練習に参加もしてみて、ゲームモデルの存在を知り、こんな面白い、そして知的なサッカーを、こんなに恵まれた環境で思う存分できたらとても幸せだなと思った。 でも同時に、自分はやっぱりア式に入ることでの機会損失が怖かった。 元々自分は大学でサッカーをするつもりはなく、どちらかというと課外活動に力を入れるつもりだった。特に海外に出たいという思いが強く、ア式に入部すると海外に行くことが難しくなるのが、プレイヤーとして入部する上での最大のネックとなった。テクニカルとして何とか入部できないか相談もしたが、当時は夏休み期間の公式戦に出られないことがほとんど確実な状況で入部することは認められず、タグ付等の作業をア式の外部メンバーとしてやらせてもらってはいたものの、夏休みに入ったタイミングでその仕事も辞め、一旦そこでア式との縁は切れた。 こうしてサッカーとは無縁の生活を送る一方で、中東や欧州をバックパックしたり、色々なプロジェクトに首を突っ込んだりしていた。それらはそれらで非常に良い経験になったし、それらは今の自分の活動の軸になっているし、自分の選択に後悔はない。だが、そうした生活を続ける中で、やはり自分の中にポッカリ空いた穴がある感覚は拭えなかった。 高校同期のキャプテンでア式に入部した松波は、秋口には一年生ながらスタメンに定着し、ア式の中心選手になっていた。そのキッカケもあり、たまにア式の試合をYoutubeで見るようになり、相変わらず綺麗なサッカーをするなと思うと同時に、自分ができなかった選択をし、様々な犠牲を払いながらもピッチ上で輝く彼らに、サッカーの次に本気で向きあえる 「何か」を探して苦しんでいた自分は、とても嫉妬してし