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神様が振ったサイコロ

  中西大地(1年/テクニカル/県立明和高校) 僕の人生を大きく変えたのは偶然ポストに入っていたある一枚のチ ラシだった。 年長になる年のある日、 両親から突如生まれ育った浜松からなんのゆかりもない名古屋に引 っ越すと告げられた。 幼いながら故郷をさる悲しさからしばらく泣き続けたのを覚えてい る。 引っ越してから数ヶ月後、 すっかり名古屋での生活に馴染んだ僕だったが、 ある日一枚のチラシがポストに入っているのを見つけた。 家から歩いてわずか数十秒の公園で行われているサッカースクール のものだった。なぜかはまったく覚えていないが、 僕はそのチラシを見るなりすぐにサッカーやってみたいと母親に言 っていた。母はバスケ、 父は野球をやっていただけでサッカーと縁もゆかりもなかったが、 僕はここでサッカーと奇跡的に出会ってしまった。 とはいうものの小学校のうちはなんとなくそのスクールのチームの Bチームでのんびりサッカーをしていただけで、 Aチームで活躍する仲の良かった友人達とどんどん差が離れていく のを感じたし、 自分には才能がないんだと言い訳して努力していなかったような気 がする。 中学校に上がるタイミングでもクラブチームではなく部活を選んだ 。クラブチームでサッカーに全力で向き合い直すことも選べたが、 そんな勇気があったわけでもなくなんとなくの決断だった。 特段強いチームでもなかったので3年生が夏に引退してからはずっ と試合に出続けることができた。 なんやかんや先輩たちとサッカーをしていた時はそこそこ勝てて、 サッカーを楽しめていた気がする。 ただ先輩達が引退するタイミングで僕はキャプテンになった。 実力があるからとかそんな理由ではない。 ただ他の部員に比べて真面目という理由だけで消去法で選ばれたよ うなものだ。自分たちの代になってからはとことん勝てなかった。 多分サッカーを楽しめていなかったし、 そんな中でたびたび起こる同期の不祥事( 提出物をまったく出さずに顧問から部活に出されたり、 前日に誰かの家でお泊まり会をして練習に寝坊してきて背番号を剥 奪された部員がいた)。今思えばただの笑い話だが、 当時はチームをうまくまとめられない自分に苦悩し、 とても余裕なんてなかった。 そうして最後の大会もコロナの影響で潰れて中途半端な感じで中学 が終わった。 高校でも迷わずサッカー

再挑戦

小花知斗(1年/テクニカル/麻布高校) サッカーのどのようなところが好きか?という問題は、高校の頃からずっと、たまに 考えてはみるものの答えが出ないまま最終的に頭から消えてしまう難解な問題ではあ るのだが、一つ言えることとして、チームがみんなでグラウンドにいる時間が好きと いうのがある。異なるバックグラウンドを持つ人たちが、決まった時間に決まった場 所で、他のことを忘れて、レベルの差はあれ一つの目的に向かって足並みを揃えてサ ッカーをする。実際にグラウンドにいてサッカーをしているときにはそんなことすら も忘れてしまうけれど、そんなグラウンドの異空間さはサッカーの魅力の一つではな いかと思う。 翻って今のア式における自分を考えてみると、グラウンドにいる時間の自分は何者な のか?と思う時がある。撮影をすることはあれど、テクとして価値を作り出せていな いもどかしさは拭えない。見えていない現象は多いし、アドバイスをかけようにも自 分なんかが、、、と踏みとどまってしまうことがほとんどだ。ア式のAチームあるい は育成チームが、グラウンドに決まった時間に集まって、チームとしてある目的に向 かってサッカーをしているのは確かであるのだが、そのチームの一員として自分が存 在しているのかは疑わしい。高校のときには全く感じることのなかった、新しい感覚 である。 サッカーを始めたのは小学1年生の冬だった。通っていた小学校にはサッカー部はおろ かゴールすらなかったため、隣の小学校のサッカークラブに入った。部活ではなかっ たため練習は週末だけで、平日は住んでいたマンションの下でボールを蹴ったりクラ スの人たちとサッカーして遊んだりしていた。そんなに大会で勝つチームではなかっ たけど、上手いなって思う人はたくさんいたし、自分で点を取ることもそれなりに多 かったので、楽しかった。 中・高は麻布に進学した。中学受験をきっかけに一度サッカーをやめたが、サッカー を続けたいという気持ちが潰えることはなく、中学に入るとすぐにサッカー部に入っ た。中学の頃は上手い選手は上の学年の練習に混ざるというシステムだったため、上 手くないかつ(当時は)真面目な自分が何人かと一緒にメニューを調べたり作ったりし て練習をやった。小学校の時と違って全然点を取れなくなってしまい、悔しい思いを したりもした。 また、中2の頃あた

親愛なるKへ愛を込めて

  池澤健剛(1年/DF/県立浦和高校) はじめまして、一年プレーヤーの池澤健剛です。初めてのfeelings なので、ア式入部の理由と、ア式に入ってからの話も含め た自分のサッカー人生を振り返ってみたいと思います。 遡ること6年前、僕は幸運にもレベルの高いクラブのセレクション を通過した。当時の自分の実力からして絶対に受かるようなチーム ではなく、周囲の人全員が大きく口を開けて驚いていた。チームメ イトのレベルはすこぶる高く、対戦相手もJ下部ばかりで毎日必死 にくらいついていた。対戦相手のセンターバックは動かない山のよ うで、キングダムの汗明を想起させた。あの時敵わないと思った彼 らは今ではプロ、あるいは関東リーグの舞台で活躍しているから本 当に凄かったんだろう。自分は試合に出れない期間が長く、ベンチ 外になることすらあった。それに加えて、俺たちの代はここ数年で 1番弱いらしかった。最弱の代の控えってどんだけ雑魚なんだよ、 割としっかり挫折した。控えだった原因は明らかにビルドアップで 、敵は高速にうごめく一つの物体のように感じられた。猛烈な勢い で近づいてくる物体に逡巡していると、あっという間にボールを奪 われる。  「今日はボールが来る前に相手を見て、味方がフリーになったとこ ろでパスしよう」  というあまりに抽象的すぎる目標を立ててずっとプレーしていた。 ア式に入って分かった、本質は相手がプレスをかけたことによりで きるスペースらしい。自分にとってこれは大きなパラダイムシフト で、かなり感動した。早く教えて欲しかったってめっちゃ思った。 今になって振り返ると、この時上手くいかなかった原因は思考の浅 さにあると思う。当時のコーチには口酸っぱく「ゆっくり運べ」と 言われていたけど、咀嚼もせずに「ゆっくり運ぼう」と考えていた 。今ならなぜ「ゆっくり」「運ぶ」のか説明できる(今も実践でき てないけど)。一方で、何の知識も持ってなかった当時の僕は思考 するのも難しいわけで、それも鑑みると全ての元凶はプロの試合を 全く見ないことにあるのかなとか考えたりもする。フルで試合を見 たことがないのにリヴァプールを好きだと言うのは気が引けてきて いたし、今年はプレミアみようかな‥  サッカーに絶望し、中学の初めに少し膨らんだプロサッカー選手に なりたいという夢は萎んでどこかに飛んで

かつて(今も)底辺だった俺たちへ

内野 晃之介(1年/MF/横浜翠嵐高校) こんにちは! 1年プレーヤーの内野晃之介(うちのあきのすけ)です。 「やじさんが最初に学年と名前くらいは書いといた方がいいとfeelingsに書いていた」とハヤトさんが書いていたので書きました。ただ、それを発見した直後に引用先であるやじさんのfeelingsを漁ってみると、今から僕が書こうとしているような不甲斐ないfeelingsに対する厳しい言葉が並べられていました。そんなやじさんに怯えながらfeelingsを書いていこうと思っています。 語尾はバラッバラですが、語尾を直す時間があるなら自主練しろと言われそうだしその通りなのでそのままにしておきます。 これまでの僕について書きつつア式に入った理由も書いていこうと思います。 サッカーとのしっかりとした出会いは小学校1年の時。通っている小学校のサッカーチームの練習を体験しに行ってすぐに入部を決めた気がする。サッカーチームの体験の後に野球チームの練習にも行く予定だったが、それが面倒だったからなのかもしれない。優柔不断の僕にしてはやけにあっさり決まった。父がサッカーをやっていたのも大きかったと思う。 小学校はキーパーもセンターバックもやったが、5年生の時にチームを移ってからセンターフォワードをやらせてもらえるようになった。 僕は学校の中でも足が一番を争うほど遅く、かといって繊細なタッチのドリブルができるわけでもなかったので、ポストプレーヤーとして育てられた。ロングボールのトラップだけは得意だったのでそれを活かせる役割だったと思う。 中学校もサッカー部に入ったが、メンバーが小学校とほぼ同じだったのでやるサッカーは変わらなかった。僕の主な役割はプレスとロングボールをトラップして収め、トップ下に落とすことだった。 練習メニューとしてもちろんラントレがあった。 紅白戦を3チームで行い、休みの1チームはピッチ脇で往復ダッシュを10往復やるという日があった。 タイムが設定されており、それに間に合わなければその人は走りと走りの間のインターバルの時間にもう1本追加で走らされた。 僕は20往復する羽目になった。 そんなことが続いてからは体力のなさを自覚し、ひたすら走った。中学の試合は30分ハーフだったのでそれを走り続けられるようにと所要時間30分のランニングコースも開拓した。 そんなこんなでやってい

バッハの旋律を夜に聴いたせいです。

中田佳吾(1年/DF/富山中部高校)  『無限大なゆーめのーあとー、何もない世の中じゃ〜』 いやになるほど聞いたアラームの音で目を覚ます。体起こす前に天 井でチェスを1局、これは幼少期からの日課である。朝御飯を食べ ながら天気予報を見る。今日は晴れ時々ヤドクガエルのようだ。傘 と素数を数える準備をしなければならないと思い、少し憂鬱な朝だ 。身なりを整えて、家を出る。隣人である男の科学者と目が合った ので会釈。彼の秘密はいつも怒っていることらしい。たしかにたま に肌が緑になっている。2分足らずで駅につき大学へ向かう。真っ 先に書籍部へ向かいジャンプ購入を目論む。先週発売したものがあ った。どうやら合併号だったらしい。むしゃくしゃしたので、カバ ンにあった檸檬を書籍の山の上に置いて出た。きっと爆発している ことだろう。授業を適当に受け、食堂へ。今日の授業は物を浮かせ る魔法を学ぶものであった。語尾をしっかり「オーサ」 と言うことがポイントだった。食堂ではチェリーパイを食べた。隣 の麦わら帽子と赤い服を身につけた男がめちゃくちゃまずいとか言 っていた。断じてそんなことはなく、めちゃくちゃうまい。良き時 間になったため部活に向かう。渋谷で定食屋に入り、ステーキ定食 を頼む。焼き方は勿論「弱火でじっくり」だ。奥の部屋に通されて 暫くしてから出ると地下の半蔵門線のホームにつく。 電車で本郷に向かう。炭酸抜きコーラとおじやを食べてから、5時 半から7時までサッカーをして、その後筋トレ。腹が減ったため部 員のみんなで旬悦に行った。滅多に入ることのできない飲食店であ ったので非常に幸運だった。定番メニューの「 にんにく鳥の親子丼」を食べた。おばさんは厨房でオーロラの立つ 透明なスープを作っていたので次きた時飲むことにしよう。 先輩に奢っていただけた。一人暮らしの私にはとても助かる。「 ずっと後輩のままがいい〜」と切実に思う。 家に帰る道中に橋の下でサックスを吹く男をみた。心に迫るような 音で圧倒された。いいものを見れたと満足し、幸福感を抱きながら 就寝した。 とりあえず私がいつも過ごしているような一日を書いてみた。大体 4ヵ月間は変わらずこんな生活をしている。お前は情景描写からf eelings をはじめろとのお達しがあったためこのような形で始めた。私はそ れなりにfeelingsを