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上西園亮(4年/FW/ラ・サール高校)
或る日、猫を見ました。
丸々と肥えた、それはそれは大きな三毛猫でした。
春の近づく東京の暗い寒空の下、山盛りの洗濯カゴを両手で抱えた私はぶるぶる震えながら自転車を降ります。その三毛猫にとって私は興味の対象となり得たようで、なんだかずっと目が合っている様に思えました。
100円を投入して槽洗浄を行い、どうにかこうにか洗濯物を押し込んだ後、大量の洗剤を投下して私の仕事は一段落しました。洗濯機が回っている合間に晩御飯を買うため、コインランドリーをそそくさと後にします。
ふと辺りを見回しましたが、彼はどこか遠くへ行ってしまった後のようでした。
3割引きのお惣菜をダラダラ食べながら、溜めていたアニメも観終えた私は重い腰を上げ、4年も住んでいる小さなアパートを再度出発しました。
いつもの様にコインランドリーには誰も居ませんでした。もちろん彼もいませんでした。代わりに誰かが靴下を片方落としていったようでした。繊維のほつれた汚らしい黒色の靴下でした。私は洗濯物を回収し、その場を後にします。洗濯カゴから零れ落ちそうな衣類を片手で抑えつつ自転車を漕ぎ進めました。その日、バイトから帰宅後まだ一言も発していないことに気が付き、鼻歌を唄いました。羊文学の曲を終える前に家に帰り着くと、小一時間かけて洗濯物を干し、漸く眠りにつきました。
20年と少しの短い人生、私は様々な会話を楽しんできました。天下国家を論じる高尚なものから、身近な人物の下世話な話まで、無限の時間をお喋りに費やしてきました。その総量は皆目見当もつきません。
それら有象無象のお喋りの中には、猫と犬どちらが好きかといった古来からの大激論も含まれます。
私は常々猫派でした。彼らの自由さが好きだからです。いえ、憧れていると言った方が正しいのかもしれません。
愛くるしい見た目を持った彼らは、自分たちが人間の心をいとも容易く射抜けることを理解しているのでしょう。彼らにとって人間に可愛がられるのは至極当然の理であり、私達は彼らがたまにかまってくれるだけでどうしようもなく嬉しくなってしまうのです。
虫やネズミを追いかけてしまう彼らは、その成果を贈り物として私達に見せてはくれるものの、排便時や死に際にはひっそりと姿を晦まします。
彼らにとって、人生とは自分たちのものであり、他の誰のものでもないのでしょう。
恐らく誰かの飼い猫であろう、あの大きな三毛猫を見た時、私は彼を可愛いと感じました。出来るならば触れたいとも思いました。しかし一方、彼にとって私はどの様な存在だったのでしょう。私は一瞬でも彼にとって何者かであれたのでしょうか。
2023年。思い返せばなんだか楽しくない1年間でした。今まで通りサッカーボールを蹴って、かつての自分より格段にサッカーも上手くなって。でも楽しくない。自分ではどうしようもない気持ちがもやもやと渦巻いていました。
その感覚は、瀬戸内海で出現と消失を繰り返す渦潮に似ていました。潮の満ち引きにより起こる只の自然現象であり、私にはそれをどうすることもできないように思えました。全てをどこかへ飲み込んでしまう螺旋を避け海峡を渡るしか、現実的な方法は無いように思えました。
東京大学運動会ア式蹴球部。
厳かな名を持つこの集団で、私は総じて楽しい生活を送っていました。そう断言することはできます。ダラダラと遊び暮らしていた大学1年生の頃より、よっぽどハリのある生活が送れていたことは間違いありません。
しかし、どうにも楽しくなかった。いえ、楽しみきれなかった。私にとって2023年はそんな年でした。
私にとってサッカーとは、ボールを蹴る、ただそれだけの遊びに過ぎません。
ボールを蹴る、ただそれだけのことが楽しくて、それだけのために私は10年以上もサッカーを続けてきました。
学年を1つ下に偽ってまでア式に入部したのも、未来のチームメイト達とお喋りしながらボールを蹴りたかったから。ただそれだけに過ぎないのです。
2021年4月に入部し(すなわちア式106期となり)、約2年間、私は自分のサッカーが向上していく嬉しさを噛み締め、チームメイトとの生活を楽しんでいました。それならば、何故サッカーが楽しくなくなったのでしょう。何故サッカーを楽しめなくなったのでしょう。一体いつから、私はア式にいる意味を見いだせなくなっていたのでしょうか。
2022年の11月頃、当時の4年生(ア式104期)が勇退しました。一抹の寂しさを感じながらも新シーズンが始まりました。雪が降り、桜が咲き誇りました。雨がざあざあ降りしきり、気付けば汗が止まらぬ季節になっていました。
南北線東大前駅で電車を降り、汚い部室で服を脱ぎ、急いでスパイクを履いて外に出ます。すれ違ったスタッフ達に「うぃー」と気の抜けた雑音を聞かせ、グラウンドの奥にある鄙びた水道で水を飲み、スパイクの紐を結び直しリフティングを始めます。笛の音と共に集合してメニューをこなし、お気持ち程度の自主練をします。部室でダラダラ服を脱ぎ、2階に上ればお喋りタイムが始まります。暇そうな人は幾らでも居ました。
そこに在るのは、いつも変わらない楽しい日常でした。
しかし同時に私にとって、そこにサッカーの在る必要性が全く無いのもまた事実でした。
入部当初感じていた、あの一喜一憂。自身のプレーの一つ一つに喜びと悔しさを感じていたあの時間はもうどこにも無かったのです。まるで味のしない液体を喉に通しているようでした。かつて感じたあの味を求め、ただ機械的に蛇口を捻る毎日でした。
私にとって、あの半年間はただの時間経過に過ぎませんでした。雪が汗に変わっただけの、物理的な変化の他は何もなく、あの甘く苦い液体が蛇口から出てくることは決してありませんでした。
2023年8月になりました。
東京大学と京都大学の伝統の交流戦、”双青戦”が東京にて開催されました。
私は得点しました。とても嬉しい、楽しい得点でした。しかし、言ってしまえばそれだけに過ぎませんでした。嬉しい以外の何かは私の中で生まれ得ませんでした。楽しい以外の何かは私の前に現れてはくれませんでした。
双青戦では私の留年も日の下に晒されることとなりました。端的に言えば私の敬愛する両親が私の留年を把握しました。
しかし私の予想通り、父母からのお咎めは殆どありませんでした。2024年3月卒業だろうと、2025年3月卒業だろうと、そこに大した差は無いという事なのだろうと、私が再認識したに過ぎませんでした。
また時が経ち、2023年10月となりました。
私の大学同期(ア式105期)の卒部の時が近付いていました。
彼らの焦り、そして気合いが日々の練習から伝わってきました。ア式において特異な入部経緯を経たため106期と一緒にいることの多かった私ですが、105期の彼らのラストシーズンには他人とは思えない何かがありました。
リーグ戦最終節の日となりました。
正直な所、その試合の対戦相手も、その試合のスコアも私は思い出すことができません。
覚えているのは結果だけ。
ア式は、最終節を有終の美で飾れはしませんでした。
何だか、涙が止まりませんでした。
何故だかは分かりません。
私は90分間声を枯らして応援し、喜び、怒り、哀しみ、そして楽しみました。
何だか、良い90分間でした。
私の心にぽっかり空いた隙間を、温かい何かが埋めてくれた様に思えました。
私は、高校最後の通学路で見た、あの綺麗な夕日を思い出しました。二月田駅で降りた私を置いて、指宿駅へと去っていった、あの二両編成の白い電車を思い出しました。
105期の彼らはグラウンドで泣いていました。新しく張り替えられた、緑に輝くあのグラウンドで、彼らは泣いていました。
勿論、泣かない人もいました。けれど、みんな心に何かが流れ込んでいる様に思えました。或いは、何かが流れ出ている様にも思えました。
満足でした。
私はとても満足でした。
その日の夜、母からの電話がありました。留年により生まれる余分な1年間は全て自分で賄えといった内容でした。学費60万+家賃生活費等15万×12、概算にして240万円を私が稼ぐ必要があるという話でした。
私はそれを割合すんなり受け入れられました。非常に筋の通った話ですし、私の両親ならばそう言うだろうとも秋頃から薄々気付いてはいました。
この日、ア式にいる意味を見いだせなかった私に、ア式を離れる理由ができました。
人生には常に分岐点があり、その先には無数の平行世界が存在します。しかし、瞬間における分岐点は常に1つしか存在しないのもまた真実と言えるでしょう。
私にとってのそれは双青戦であり、或いは1本の電話であったようです。村上春樹の描く主人公達にとってのそれが、愛する女性との別れであるように。或いは突如鳴り響くベルの音であるように。
ア式退部の旨を第106代主将に就任したマシロに伝えました。ア式を続けながら大金を稼ぐことは現実的には思えませんでした。
彼の最初の仕事は私の退部を押し止めることとなり、結局、私は休部扱いとなった様でした。
2023年10月中旬、私はある営業のバイト(仮にBと呼ぶことにします)に申し込みました。丸ノ内を一望できる部屋で1時間に渡る圧迫面接を受け、やっとの思いで合格を頂きました。粘りが評価されたようでした。
Bは高時給に加え、高いインセンティブも売りにしていたため、私は安堵しました。これで金銭的な問題は解決できると思ったからです。
しかし、その考えが甘かったことは面接後すぐに分かりました。
案内された部屋は小さな「The Wolf of Wall Street」の世界でした。
紹介されるBでの仲間達は皆一様に大きく、髪型はバチッと決め、そして爽やかな笑顔を持っていました。発する言葉は自信に満ち、綺麗なスーツに身を包んでいました。
圧倒的な場違い感。それだけが私の初日の感想でした。まるで、腹を空かせた狼の群れに、痩せ細った小さな野良犬が迷い込んでしまったようでした。野良犬は、喰らわれることは無くとも、溶け込めることも無さそうでした。
精神の削られる苦しい毎日が続きました。
自らに対する不甲斐なさ・悔しさだけではありませんでした。仲間達からの言葉も辛辣でした。結果の求められる営業という世界において、結果の出せない人間に価値はありませんでした。
私は日々、考えざるを得ませんでした。生活のこと、仕事のこと、お金のこと、人間関係のこと。
しかし、一方で分かってもいました。考えても無駄なことを。やるしかないことを。
あの頃の私はBを含め4つのバイトを掛け持ち、佳境に入った就職活動を上手に進め、株式投資銘柄を選定し、大学の単位について頭を悩ませ、その他、私の人生に降りかかる様々な面倒ごとに対処していく必要がありました。
それは、私が今まで出会ってきた幾人かの超人的な友人にとっては実行可能なことであっても、私にとっては心を蝕むストレッサーにしか過ぎず、二カ月でさえ続けられる未来が見えませんでした。
11月下旬頃、Bの社員(仮にKさん)に会議室に呼ばれました。入社面接の時とは違う、少し広い部屋でした。窓の外に広がる丸ノ内は夜の明かりに灯され、とても綺麗でした。地上高くから見下ろす街はジオラマの様で、冬の寒さなど微塵も感じさせませんでした。
会議室にはKさんと、当時リーダーの様な存在だった学生(仮にSさん)が居ました。部屋の中央にある10人以上は座れる机に3人だけで座ると私は酷く緊張しました。端的に「クビだな」と思いました。
Bは非常に人的流動性の高い組織です。人が入っては出ていき、出ていってはまた新しい人が入ってきます。その期間が異常に短いことに特徴がありました。半年も生き残ればベテランと呼べるほどでした。
「最近どう?」とKさんに聞かれました。
どうもこうもありませんでした。各人の営業成績はいつでも誰でも閲覧可能ですし、私の成績は入社してからずっと最下位でした。救いようの無い、圧倒的最下位でした。
「頑張っています」と答えることしか私にはできませんでした。
「確かに頑張ってはいる。君は性格的にも素直だし、良い奴だとは思う。」と、Kさんは続けます。
「しかし結果が伴っていない。そして、最初の頃の様な熱量も無くなっているように見える。端的に言うと、君を雇い続けることは僕たちにとってメリットが無いし、君がここで働き続けることは君にとって中途半端な結果しか生まない。お互いにとってWin-Winの関係になれないと思う。」
ぐうの音も出ませんでした。私自身、疑問を抱えながら出勤する日々でした。
営業にも色々な種類がありますが、少なくともBで求められる営業の才能は私にはありませんでした。ア式の皆がサッカーボールを蹴っている間に、才能が無いと分かりながらBで働き続けることは苦行でしかありませんでした。
それに、毎昼に開かれるミーティングでも散々な言われようでした。個々人の営業成績がモニターに表示されていく中、私だけ異常な成績を叩き出していたため、しばしば「上西園は果たしてこのチームに必要なのか」といった議題になりました。私はその度に笑顔で「頑張ります。やらせてください」と言う他無く、そして結局その日も結果を出せず帰宅することになるのでした。
「そして」とSさんが続きました。
「上西園はチームの誰とも仲良くできていないように見える。別にプライベートでも仲良くしろとまでは言わないけれども、それにしても皆との関りが余りにも薄い。」
またも、ぐうの音も出ませんでした。この世に本当にぐうの音が存在するとしても、その音を発することが出来るのは私以外の誰かであるように思えました。
私はBにおいて日々、周囲との関わりを避けてきました。結果を出せないことをとても恥ずかしく思っていたからです。挨拶も交わさず、視線も合わせず、ご飯も共にしませんでした。いえ、ただシャイだっただけであるのかもしれません。
「このバイトを続けるかどうか含め、これからどうするか考えておいて」
こうして、KさんとSさんとの面談は終わりました。
それから1週間ほど私は必死に頑張りました。朝は早くに出社し、夜は遅くに退社しました。入社したばかりの頃の様に必死に営業をかけ、何とか結果を残そうと励みました。また、周囲とのコミュニケーション量も意識的に増やしました。挨拶と、何でもない会話を心掛けました。そして、数値的結果を何も生み出せないまま11月末日も終わりました。自分がやれることを精一杯続けていくしかありませんでした。
2023年の12月になりました。ア式を離れ1カ月以上が経過し、既にア式への未練めいたものも私からは消え失せていました。ただ生きることで精一杯でした。
12月になると今までの苦労が嘘のように結果が出ました。狐に化かされたような気分でした。
そのまま12月末の全社納会にも招待して頂きました。丸ノ内にあるホテルで行われた立食パーティーでは、目の前で握られる寿司を食べ、目の前で切られる牛を食べました。所狭しと並べられた色とりどりの料理をひたすら食べ続け、超豪華ビンゴに興じました。
時は過ぎゆき2023年3月となりました。非常に濃密な3カ月でした。
年末年始はパキスタン人と過ごしました。言語が通じない中、たった5畳の狭い部屋で寝食を共にしました。「The Pursuit of Happiness」を観て感想を語り合いました。
久しぶりに中高の集まりにも顔を出せました。当時働いていた飲食店の飲み会に参加し、家庭教師先のご家族と美味しいご飯を食べに行きました。上京して初めて従兄弟と焼き肉を食べました。就職活動を通じて意気投合した中国人と不定期的に筋トレをし、東京に遊びに来た弟の相手をしました。好きな本を読み、好きな映画を観ました。たまにはサッカーもしました。
就職活動もラストスパートに突入していました。5daysインターンに向け英気を養い、最終面接に向けて気合いを入れ直しました。
2月の終わりから3月の初めにかけ、イタリアへと赴きました。ヴェネツィアからフィレンツェ、フィレンツェからローマへ3都市を巡る10日間ほどの旅でした。街を歩き、絵画を眺め、彫刻を撮り、ピザを食べる。船に乗り、バスに乗り、電車に乗る。大道芸人のカモになり、チケット売り場でカモになる。外から見えるイタリアを全て体験しようとした非常にアクティブな旅となりました。
都市間は新幹線(の様なもの?)で移動しました。人と車の行き交う雑然とした街を出発し、人と車の行き交う雑然とした街へ向かいました。しかし、両者は確かに違った街であり、新たな出会いが私達を待っていました。目的地に向かう新幹線の窓からは草を食む羊が見えました。暖を取る様に密集する小さな家々が見えました。灰色の汚い海が見えました。
ふとア式のことを思い出しました。毎日ボールを蹴っていたあの日々のことを思い返しました。
どうやら、私の人生にはしばしば「ふと」が顔を覗かせる様です。或いは常に考えていたことが「ふと」として表れてきているだけなのかもしれませんが、とにかくイタリアの私はア式を思い出しました。
なんだか、ボールを蹴りたくなってしまいました。照明が草木に覆われたあのグラウンドで精一杯走りたくなりました。夜になるとライトアップされたスカイツリーの見えるあのグラウンドに毎日通うのも悪くないように思えました。
しかし正直な所、ア式に戻ることは決定的に無駄なことに思えてしまうのです。平日夕方以降をア式に注ぎ、土日をア式に捧げるため、その時間にできたであろう様々なことを諦める必要があります。ア式に割くその時間で、私は一体どれだけ稼ぐことが出来るのでしょうか。どれだけの友人と楽しめるのでしょう。どれだけの作品に触れることが出来るのでしょう。
ア式に戻ることで生まれる機会損失は決して小さくなく、それは私がア式以外の世界に興味を持てば持つほど大きくなっていく代物でもありました。
しかし、ここでまた私はふと思い出してしまうのです。バカになる楽しさを。バカな人たちのあの輝きを。
世の中には、それはそれは沢山のバカがいます。
凡そ人生には必要の無い量の筋肉を求め、日々筋肉に全ての時間を注ぐバカがいます。授業も聞かず、延々と落書きを続け、家に帰っても絵を描き続けているバカがいます。誰に読まれるわけでもない文章を日々書き連ねるバカもいれば、大して演技の経験も無いくせに俳優を目指し、お金を貯めて今の仕事を辞めようとするバカもいます。親の反対を振り切り、着の身着のままオーストラリアに飛び立つバカも居れば、推しのために時間とお金を溶かし続けるバカもいます。
私は今まで沢山のバカに出会ってきました。私には到底選択できない、そんな選択をするバカ達と出会ってきました。中には、なぜその選択に行きつくのか、なぜそれを実行できるのか分からない様な、人智を越えた先にいるバカもいました。
彼らは全く「合理的」ではない人生を送っているように思えます。必要量以上の筋肉を手に入れ彼らはどうなれるのでしょう。絵を描き続けた先に何かあるのでしょうか。未知の世界に飛び込み、好きな世界に全てを捧げて何が起こるのでしょう。
そんな事を考えても答えは出ず、私の「論理的」思考はどこかへ飛んでいってしまうのです。そしてバカな彼らと再会した時、その「論理的」な何かは私の元に舞い戻ってくるのです。地球はどこまでも丸く、その中心へと向かう重力は私の「論理的」な何かを霧散させることもありません。ただ只管に直進し続けたそれは、いつかまた私に疑問を投げかけるのです。それでもやはり答えの見えないまま、私はいつまでもいつまでもグルグルと回り続けるのでした。
彼らについてグルグル考えます。ひょっとすると彼らは猫と同じなのかもしれないと細かな思考を巡らせます。虫や鼠を追いかけてしまう、あの魅力的な猫たちであるのかもしれない、と。
例え満腹であろうと彼らは追いかけてしまうのです。その先に何も無かろうと彼らは走り、そしてある日、彼らはどこかへ消えてしまうのです。
彼らがどこに辿り着いたのか、或いはどこにも辿り着けなかったのか、それすらも分からないまま私の「合理的」人生は終わってしまうのでしょう。私が彼らに持つ感情と、彼らが私に持つ感情は決してイコールで結ばれることは無く、彼らにとって私はただの友であり、人生における1つの事象に過ぎないのです。私が360°の「論理的」回転を終えた時、彼らは既にそこにはおらず、留まった私と進んだ彼らの間には不可視の境界線が引かれてしまっているのです。
その境界線について私は何も知りません。幅も知らなければ、長さも知りません。形も、色も、何も知らないのです。
ただ、私がその線をまだ跨いだことの無いことだけは感覚として知っています。そして、その線を跨ぐのは恐らく難しくはないことも私は知っているのです。
2024年3月。日本に帰ってきた私は考えます。
その頃の私は既に十分な額のお金を稼いでいました。この調子でいけば5年目の大学生活は非常に楽しく暮らせ、社会人になるまでにある程度の貯金も作れそうでした。また、社会人になるまでにやらなければならない事も明確になっていました。英語の勉強をする必要がありますし、各種資格を取る必要もあります。もちろん、大学を卒業するための単位も危なげなく取り切る必要があるのです。他にも今のうちにやっておいた方が良いこと等も考えると、残りの大学生活の過ごし方は自ずと見えてきました。
私は既に金銭的課題を解決する目途が立ち、その他の種々課題解決に向け動き始めるべき段階を迎えていました。
私は既に金銭的課題を解決する目途が立ち、その他の種々課題解決に向け動き始めるべき段階を迎えていました。
10月にア式を離れてからの半年間で様々な出会いがありました。これからの人生について色々と考えるきっかけとなる出会いが幾つかありました。
いわゆるブラックな会社で働く方と良く一緒に居る期間がありました。驚愕の低賃金・長時間労働を行っていた彼は、様々な不安を抱えながらも退職を選択しました。そのことを私に伝えてくれた時の彼の顔は、漸く年相応の若々しい輝きを放っていました。彼と私の歳がそれほど離れていないことを初めて実感できたことを私は今でもたまに思い出すのです。
私より2歳も3歳も下でありながら、既に自分たちで事業を展開している人たちと出会いました。中には、嘘の様な資産額を有し、商談相手は某総合商社といった訳の分からない化け物もいました。正に、「事実は小説より奇なり」です。彼らの起業理由は様々でしたが、大なり小なり成功を収めている理由は偏に行動力でした。私が様々な言い訳を考えている間に、彼らは足を動かし、手を動かしていました。
大小様々な出会いを通じ、色々な人の人生における後悔やこれからの展望、現状を聞きました。それは80億を超える世界人口からすると、とても小さなサンプル数にしかなり得ませんが、私にとっては非常に大きな意味を持つ出会いの数々でした。しかし、彼らから話を聞き、話はそこで終わりを迎えます。私が話すことは無く、話せる事もありませんでした。そうして、話せない私はいつもの様に冗談混じりの雑談を始めるのでした。
2024年3月。私はまたダラダラと考えます。日本で。東京で。世田谷の、壁紙の剥げた小さな部屋で。
私のすべき事は何なのだろうと考えるのです。しかし、もう既に私は分かっている筈でもありました。「べき」ではなく「たい」に憧れているのだと。
2024年3月10日。私はまたマシロにLINEを送ります。
私の退部を休部にすり替えた彼の判断は、幾分形式上に過ぎないものであったにしても、私にとってとても良い結果に転んだ様に思えました。
2024年6月。満員電車で文字を打ち込みます。代々木上原駅で小田急線から千代田線に乗り換え、肩をすぼめながらfeelingsを書き進めます。顔を上げると、暇そうな顔をした眼鏡の中年男性と目が合います。右と左には私よりも背の高い女性がいて、後ろには冷たいドアがあります。愛用する黒いリュックは私を圧死から守ってくれています。
鈍く光を反射する汚い眼鏡、2枚のスカート、延々と開閉を繰り返すドアに囲まれながら、ふと考えます。ア式に戻ってからの3ヶ月弱は私にとってどの様な時間だったのだろうと。
そして思います。中々悪くない、と。
平日は練習に明け暮れ、週末は試合に追われます。トップチームの公式戦のために遠い僻地まで応援に行かされる事もあります。客観的に見て、あまり楽しそうな1週間では無いように思えます。実際、楽しくはないのかもしれません。しかし、私は実感として楽しめているように思えます。練習を楽しみ、試合を楽しみ、応援を楽しめているように思えるのです。
他人の試合なんて、正直どうでも良いような気もします。勝とうが負けようが、それは私の試合の結果ではなく、彼らの試合の結果なのです。実際、今の東大ア式はリーグ下位に沈み、私の復帰後、トップチームが勝った姿を殆ど見ていませんが、特段何事も無く時間は過ぎていっています。
私たちがどれだけ声を枯らして応援しても、分析班がどれだけ詳細に調べあげても、スタッフがどれだけ必死に動き回っても、それはあまり本質的ではないようで、彼らは勝てず、日曜日は終わるのです。彼らはいつもこちらに向かってとぼとぼと歩いてきます。俯きがちに、気まずそうにしながら応援席に向かってきます。帯同スタッフはその後ろをただ真っ直ぐに進みます。まるでドラゴンクエストの勇者と縦列を作るパーティーの様に、ただただ歩きます。監督はいつもどこかへ行っています。私は彼がどこにいるのか疑問に思いつつも、選手達の表情を見ると何だかいたたまれなくなり、横を向いてしまいます。しかし横を向いても、これまた気まずそうな応援団が私の視界に入ってくるのです。
私たちは彼らの健闘を称えます。対戦校が文字通り勝利の舞を踊る横で、「東大ア式」の掛け声が虚しくグラウンドに響き渡ります。それが何度か続いた後、私たちは解散します。かつての様な全体集合は無くなり、トップチームだけで小ぢんまりとした反省会を行い、公式戦はお開きといった形に今ではなっている様です。
しかし、それでもやはり、私は応援を、ひいてはア式を楽しめていると思うのです。私の心は動いているように思えるのです。その要因は、ピッチで躍動する選手の技術であったり、チームの表現する戦術であったりするのかもしれません。はたまた、彼らの走る姿が要因であるのかもしれません。一方で、そのどれもが違う気もするのです。マネージャーが小さな声で、しかしハッキリとチャントを歌っている姿や、応援のために喉を枯らす選手の姿が私の心の扉を叩いているのかもしれません。
しかし、やはりそれらも同様に主要因となり得ていないことも私は同時に感じているのです。結局のところ、最終的に私の心を動かしているのは私自身であり、私自身を動かしているのは私の心であるのです。
結局のところ。と、私はここで思考を止めることにします。私の心を分析することはこれ以上私には必要なく、それはもっと概括的に、もっと専門的に、哲学者や精神科医が行えばいい事であると私は結論付けます。それに、私は泣いた理由を構造的に説明する様な野暮な真似をしたくないとも思うのです。
東京大学運動会ア式蹴球部。
大学生活5年のうち4年を費やすこととなったこの集団で、私は今日も考えます。どうして私はここにいるのだろう、と。恐らく(それは確信めいた恐らく)、その答えが出ることは無いのでしょう。そして恐らく(これも確信めいた恐らく)、私はア式でなくともその様に考え、結局はその環境を楽しもうとし、楽しむのでしょう。
昨日、私は猫を見ました。年老いた様子の彼(或いは彼女)は、私には一瞥もくれず、部室の横にある小さな門を通り茂みへと消えていきました。まるで、この長々としたfeelingsが猫から始まったことを知っているかの様に、猫は私の前を通っていきました。私のfeelingsが終わりを迎えようとするこのタイミングで猫が現れたことは、私にはとても運命的なことの様に思えました。或いはそれは、猫が現れるまで私がfeelingsの執筆を先延ばしにしていただけであり、自然発生的な作為という、何だか良く分からない出来事であったのかもしれません。(それに、東京には沢山の猫がいて、私は彼らと頻繁に顔を合わせているのです。)
そして今日漸く、私はこのfeelingsを書き終えます。法学部のラウンジで、知り合いたちとダラダラ話しながらfeelingsを書き終えることにします。
あと1時間ほどすれば部活の集合時間となり、また私はグラウンドに赴くことになります。部室で着替え、所々禿げたグラウンドへ向かうのです。そして、卒業記念撮影に適した青空の下、私は水色のスパイクの紐をいつもの様に結びます。汚いベンチの横にある、1つしかない汚い蛇口から水を出し、それを口に含み、飲み込みます。いつもの日常が私を待っており、私は今日の試合を楽しめればいいなと願いながらいつもの様にリフティングに興じるのです。
私は恐らく、これからもバカになれることはないでしょう。彼らのようにかっこよくはなれないでしょう。そして恐らく猫のように自由に生きることもできないのかもしれません。私はこれからも蛇口の周りをグルグル回り、私がぼんやりと期待する何かを夢見ながら360°の回転を続けるのです。不可視の境界線を越えることなく、私はただ自分と向き合い、向こう側へ行ってしまった猫たちを探し続けるのでしょう。
ア式に入部して4年目。残りのア式生活は4ヶ月。回り続けた私は今日もまた回ります。グルグルと回っていれば、いつかは強力な遠心力で吹き飛んでいき、あの境界線を越えられるかもしれないと、馬鹿な妄想を働かせるのです。
私はいつか来る(少なくとも来てほしいと願う)その日に備えて蛇口を捻り、水を飲み続けます。きっといつか、またあの味に出会えると信じて無味無臭の水を飲み続けるのです。そして、いつの日か、猫が可愛く擦り寄ってきてくれるのではないかと夢を見て馬鹿な「論理的」思考を働かせるのです。
結局のところ、と私は何度目かの勝手な結論で世界を締め括り、このfeelingsを締め括ります。
結局のところ、私の人生は私だけのものであり、人生の価値を決めるのは最終的に私しかいないのです。
私は壮大でちっぽけな思考を巡らせながら今日もボールを蹴りにグラウンドへ向かいます。人生で最後の、毎日ボールを蹴る生活を、もう少しだけ続けてゆきたいのです。
ものすごい文才ですね・・・。感動しました。こちらの記事に感動して、別作品(!)も読みましたが、もう絶句です。表現力がなく、相応しい語彙がみあたらないのですが、また次回の記事を楽しみにしております。
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