運命

 4年 天野なぎさ




 無事卒論を提出してほっとしたのもほんの一瞬、ア式の卒論ともいえる卒部Feelingsが降ってきてにわかに信じられない気分で執筆を始めています。

 

 

今はちょうど引退をしてから2か月ほど、だいぶア式と離れて生活をしてきているけど、後輩も冬オフ中ということで、まだ自分も冬オフを過ごしているんじゃないかと錯覚を覚えることもあるほど、引退の実感は意外とないものだなって思います。

 

卒部Feelings、書くことは4年間認識していたけど、実際自分が書くとなると何を書けばいいのか、書くことがありすぎるのかなさすぎるのかはわからないけど、わからなくなります。

 

ここから下の文章が、こいつ何書いてるんだろうと思う文章になっているかもしれないですが、締め切りもすでにかなり過ぎてしまっている(本当にごめんなさい)ので、どうぞお手柔らかに読んでもらえると嬉しいです。

 

 

ということで、何を書こうかと考えましたが、やはり4年間に自分に何があったのか、振り返ってみようと思います。

 

 

まずは入部。

入部は私は同期のスタッフの中では一番遅くて、入部式も参加していません。中高時代、そんなに戦術などに詳しいわけではなかったけどサッカーを観ることはすごく好きで、中高の頃からどの大学にいってもサッカー部のマネージャーというものをやってみたいと思って、東大を志望していた中高生の私はア式のHPを見たりしていました。東進祝賀会に運動会がたくさんきてたこともあってア式とは早い段階で接点をもっていたけど、他にも大学でやりたいことがありすぎてずっと迷っていました。

 

実際抽選のあるダンスサークルの抽選に通ったことがわかって、自分がア式に入らないって選択肢が目の前に現れた段階で、急にア式に入らないことが受け入れられなくなって、そんなこんなで練習見学にまた行きたいと連絡して、入部を決めたことを覚えています。そして入部を決めたとき、グラウンドで先輩たちがめちゃくちゃ喜んでくれていたのがめちゃくちゃ嬉しかった記憶は、今でも鮮明に覚えています。

 

 

1年生。

私が入部した頃は4年生のスタッフが多くて、3年生のグラウンドスタッフは0、2年生のグラウンドスタッフは2人、という環境だったので、4年生が引退した段階で人手不足が免れないことから、1年生のスタッフはすごく大事にされていた記憶があります。それと同時に、4年生が辞めたことで責任が1年生の頃から降りかかってきて、たまにキャパシティを超えたり、つらくてやめたくなっていた日々があった気がします。けど今振り返ってみると当時負っていた責任が何だったのかあまり思い出せないし、何がきつかったのか覚えてないです。

 

毎週必須参加だった公式戦は、行くたび行くたび勝利をあげていて、年間を通して明るい雰囲気のあった年だったのもあり、基本的には部活に行くのが楽しかったし、トレーナーとして仕事ができるようになりたくて、仕事をもらえるようにいろいろ動いたり、トレーナーとしての知識を勉強したり、そんな日々を過ごしていたら1年が経っていたように思います。

 

 

2年生。

2年生が始まり、履修登録を行う段階で、進振りのことも視野にいれなければならず、進路についてしっかり考えることに。その時、自分がなぜ東大にきたのか、なにをしたかったのかについて改めて考え直し、国際的な活動をして視野を広げたいと考えていたことを思い出しました。

 

ア式にいるのは楽しいけど、留学は絶対したいと思い、駒場の留学相談センターに行って、いつ頃留学するのがよいか、どんな準備をすればよいか、いろんな情報を聞いて留学に行くことを決意しました。

 

留学をするためにはまず語学試験を受けてスコアを取らなければならないということで、2年生は何度もIELTSを受けていたし、留学の計画書を書いて学内選考に出していました。

それと並行して、GLP-GEfILという大学が主催しているグローバルリーダー育成プログラムにも申し込んで、英語で志望理由などの書類を書いたり面接をしたり、無事合格をもらえて参加したりしていました。

 

そして、当時のア式は一度留学をしたらなかなか戻ってくるのが難しい雰囲気もあり、留学とア式の両立はできないと考え、3年の6月頃、前期リーグ終わりに退部し、3年の9月から1年間、留学に行くことをひそかに決意していました。

 

ア式は1部に昇格した初めての年。1年生の頃とは打って変わって、なかなか厳しい試合が続くことが多く、チームとしてつらい週が続いたこともよく覚えています。

私自身としては、当時配属されたメディカルについて勉強しつつ、栄養についても勉強を始め、自身のア式の立ちまわりも確立されてきたような記憶があります。2年生の途中からゆみこさんが留学にいってしまうということで、怪我管理担当を引き継ぎ、それまで負った一番大きな怪我が突き指だった私にとってはわからないことだらけで始まって、慣れるまではすごく大変だった気がしますが、より責任を持って仕事をできること自体は嬉しくて、やりがいを感じていたこともたしかです。

 

朝11時までにどの選手がどこまで参加できるかを把握して、それを強化ラインに流す。

まとめて流すだけではあるけど、選手に連絡をとって状況の確認がとれて、それをまとめて流すまではそのタスクに追われている感覚で、選手から返事がこない時は早くしてくれと思っていたので、選手のみなさんちゃんとトレーナーには早めに連絡してあげてください。笑

 

この年はチームとして辛い期間も多かったのは事実だけれど、私自身は一番コミットできているような、まさにチームの一員として部活にいる感覚を覚えられて、やりがいも大きかった年だったような気がします。

 

初めて勝利を挙げた学習院の目白キャンパスで円になって集合して皆で喜びを噛みしめたこと、ゴールが決まった瞬間の歓声、週5で部活に行っていたこともあったあの時代だったからこそ、チームの一員として喜びを享受できた気がします。

 

4年間で一番記憶に残っているともいえる試合は、2年生の時のリーグ戦最終節で、当時昇格のかかっていた國學に、降格が決定していたア式が挑んだあの試合の勝利は、忘れられないものだなと今も思います。ああいう試合を観るために、あの歓喜を共にするために、自分はここにいるのだと思わされた、そんな試合でした。

 

 

アミノを終えオフを挟み、始動合宿の前日までいれていた旅行中、絶望の事態がありました。

 

3年の9月から行こうとしていた学内の留学プログラムへの参加ができないとの通告メールが届きました。

 

その日にメールが届くことすら忘れていた私は、旅行中にも関わらず絶望に打ちひしがれていました。

英語のスコアが足りなかったのか、書類の内容に問題があったのか。今考えれば両方な気がしますが、計画していた人生プランの全てが狂った気がして、それと同時に終わらせずにきてしまった期末レポートも負い目を加速させていましたが、一緒にいたクラスのみんなにはすごく励まされ支えられました。実際1,2時間くらいで気持ちを切り替えて、春募集で出して1月からオーストラリア留学に行けばいいや、という感じに思って、部活も来シーズンの終わりまでいられるのも悪くはないか程度で、残りの旅行は楽しみきりました(レポートは3個書き上げました)。

 

そうして始動合宿を行いシーズンが始まって気づけば、コロナが騒がれ始めました。

 

卒部式が部員だけの農グラ開催になって、徐々にコロナで対外試合ができなくなっていって、今のうちにオフを作っておこうとオフになった1週間、オフが明けることなく第1波がやってきました。

 

 

3年生。

コロナがいよいよ感染拡大し始め、緊急事態宣言が発令される。家にいるしかなくなり、暇つぶし程度に就活を始めることに。

 

全てがオンラインで完結する環境はまだ新しく、Zoom飲みをしたり部屋の片づけをしたり、それなりにおうち時間を満喫していた記憶はあります。

 

就活を始めてみるとやることはたくさんあり、正直部活今なくてよかったな、と思っていたことが多かったのも事実です。とはいえ、当時の部活はスタッフの数に対してやりたいと思っていることが多すぎて、なかなか整理ができていなかった環境だったので、オフラインで活動ができないことをいいことにピッチ外の様々な活動をしていたような記憶もあります。

 

トレーナーでいえば、新入生が入ってくるということで新入生育成のための教材を作成したり、ヨガとストレッチの2つのメニューについて分かれて勉強して、メニューを改変しようとKindleなどの本を読み漁ってみんなで発表するゼミのようなものを開催したり、ステイホームの期間も淡々と部活に時間を割いていた記憶があります。

 

徐々に日本国内のコロナ感染者が減っていき、緊急事態宣言が明けた頃から部活を再開させる動きが出始めました。当時の私はこの運動にほとんど加担しておらず、必要な資料などがあれば作成したり、その程度でした。再開交渉に関わられていた皆さんは本当にすごいと思うし尊敬します。

 

本格的に部活動が始まると、当時は部内で感染者が出た時の対策としてスタッフもカテゴリー固定となりました。育成の怪我管理をしていたのもあり、育成固定のスタッフとして1シーズンを過ごしました。

 

当時育成固定のトレーナーは3人で、シフトを行く機会も週2,3回程度になりました。週3-5がデフォルトであった時代からすると、かなり部活に行く回数は減っていたような記憶はありますが、この時ほど辛かったことはないように思います。

 

オンライン授業を家で受け、17時には家を出発。感染対策のために18:30からだった練習時間は19:00からになり、終わると21:00すぎ。だいたい21:20くらいまでグラウンドにいて、部室に帰って着替えて急いで電車に乗っても家に帰るのは23:30頃。感染対策のためにすぐにお風呂に入る。いろいろ支度をしてごはんの準備をしてごはんにありつけるのは深夜1:00。就活で翌朝早いことも多く、体力は削られていく一方でした。

 

育成の試合は公式戦ではないからと、学内で試合が行えず、毎週アウェイ。育成は人数も多く毎週試合を2つ組んでいたから、基本的に最低でも2週に1回はアウェイへ。毎週アウェイの時もあり、長い時間をかけて、疲弊して、帰宅。

 

なんでこんなことをしなきゃいけないんだろう。

 

なんで私はこんなに自分を削らなければならないのだろう。

 

こんな思いでいっぱいでした。

 

 

コロナの感染状況は世界でも収まらず、同期の留学内定していた人たちも軒並みキャンセル。1月から留学に行こうとしていた私も、それが不可能なことは悟っていました。留学ができないなら、他にすることもないし部活にいるか。そんなテンションではじめは臨んでいた気がします。

 

けれど自分の体力もメンタルもほぼ限界を迎え始めていた時も、部活を休んだり辞めたりすることはできませんでした。

 

当時身近にいた人には話していたかもですが、やはり育成の怪我管理の責任を持っていたため、急に私がやめてしまったら引き継ぎもしていないしそこに穴が開いてしまう、そうすると部活が回らなくなる、引き継ぐまではやめられない、その思いの一心で部活に臨んでいました。

 

まさにみくのfeelingsで言及されていたことと同じで、義務感に追われて楽しさというものがほとんどないまま、1年を過ごしていた気がします。

 

 

とはいえ、本当に、本当に部活を心から辞めたいなら、これも責任を投げ出して辞めてもよかったのかもしれません。けれど私は違いました。部活に残っていてもいいな、そう思えていたのは公式戦の存在でした。

 

全員参加必須で、皆が一丸となっていた頃とは打って雰囲気が変わってしまった公式戦も、行ってみてしまえばやはり特別な場所で、運よくほとんどの試合を観に行くことができ、自分自身が何のためにチームにいるのかを実感できる瞬間でした。

 

選手にとって公式戦が特別な存在であるのと同様、スタッフの私にとっても公式戦は全くもって特別な存在でした。その1年は正直Aの練習に参加することはほぼなかったので、どこか蚊帳の外にいる感覚を覚えながらもよく知る先輩や同期、後輩がリーグ戦で頑張っている姿を応援していたけれど、シーズン終了間際に筑波学院Tフィールド行われたサタデーで、育成の選手が体を削って闘っている姿をベンチから見ていた時、1年頑張っていてよかったと心から思えたような気がしました。

 

リーグ戦最終節の亜細亜戦の集合で紆余曲折があった1年を振り返って、コーチ陣や選手が1年間の苦悩やそれぞれの思いを語り合う。その輪の中にいられたことがすごく幸せで、つらかった1年だったけど残っていてよかった、そう思えた瞬間でした。

 

本当は留学に行っていたはずだったその半年は、いろんなことが重なり結局ア式で過ごしてしまい、辞めたいときも苦しいときもたくさんあったけど、やり切れてよかった、とその時ようやく思えました。

 

 

4年生。

4年生は比較的よく言えば穏やかに、悪く言えば何もせず、1年を過ごしてしまっていました。

 

後輩に引き継ぎをした後は、正直自分が主体的に動くことはほとんどできませんでした。

 

進路を考えて大学院進学をするために部活に行く頻度を落とさせてもらったり、正直コミットがあまりできなかった気がします。

 

とはいえ、4年生になって新しく何か始めること自体は、部にとって持続可能性も低い気がしたので、私は自分がこれまでやってきたことや、自分の知識を下の学年に還元していくことを目的として日々を過ごしていました。特に怪我管理については、わからないことがあれば相談してもらったり、アドバイスしたり、微力ながらもサポートできていた節もあったのではないかなと思っています。

 

あとは、実は3年間一度も大きな怪我に立ち会ったことがなかった私にとっては、選手の大きな怪我に立ち会うことが一番多かった年だったように思えます。そういう意味ではトレーナーとしても、少しだけ成長できた年だったかもしれません。

 

栄養に関しては、陵平さんのコネクションのおかげで井上さんという素晴らしい栄養士の方がア式に携わってくださるようになり、栄養班としての活動の幅が大きく広がったはずでしたが、自分自身がア式以外にやりたいこと・やらなければならないことが多すぎて最大限活用できなかったのがすごく心残りです。この1年は陵平さんのおかげやベースフード様とのスポンサー契約などにより、選手の間でだいぶ栄養の意識が高まっていったように思えますが、より多くの人に、より具体的な行動を発信できればよかったなと思います。

 

1部で戦った今年もなかなか苦しい期間が長く、特に今年は前年よりもさらに試合に見に行くことができず、ほとんど試合を生で見ることはできなかったけれど、様々な感動を与えてもらいました。特に自分自身が4年間で最後のベンチに入ったホーム最終節の学習院戦は、感動的なゴールで勝利をあげて、私まで泣きそうになっていました。笑

 

前年と同じくアウェイだった最終節は、今年は人数制限が厳しすぎて見に行くことはかなわなかったけれど、翌日に農グラで行われた引退ゲームの後に行われていた遊びのゲームをグラウンドに体育座りをしながら眺めていたあの時、サッカーをする人たちを身近で支えられるア式のスタッフを選んだ1年生の時の選択に悔いはなかったと思いました。

 

 

 

 

そんなこんなで無事引退しましたが、私がここまで続けられたのは、本当にチームの皆さんのおかげです。

 

怪我が多くなかなか思うようにプレーのできない期間が続く同期プレーヤーたちの役にはあまり立てていなかったかもしれないけど、傍で怪我管理をしているトレーナーを労ってくれたみんなの言葉には本当に支えられました。1年生の誕生日当日にミーティングと称されて駒場の教室でみんなで集まってサプライズをしてもらったあの日が昨日のことのように思い起こせます。卒業しても定期的に集まりたいです。

 

先輩方。新歓の時から気にかけてくださっていた先輩方、憧れの先輩、親しい先輩、尊敬できる先輩。下級生の頃は先輩に話しかけてもらえてお話しできるのが楽しくて、そんな先輩がピッチ内外で活躍されていてそれが尊敬できて、楽しかったア式生活は先輩方が作ってくださったと思います。私をア式にいれてくれて、受け入れてくれて、居場所を与えてくれて、本当にありがとうございました。

 

後輩たち。1年生で入ってきたプレーヤーたちがどんどん成長してやがて試合で活躍していく姿を見ていって、本当にすごいなと思っていました。栄養関連で相談してくれた後輩で、実際に変われたという成果を教えてくれたり、感謝の気持ちを伝えてくれる後輩にとても支えられていました。スタッフのみんなは、本当にいろいろなことをやっていてすごいなと思います。マネージャー・トレーナーの枠にとらわれず、さまざまなユニットに所属して活躍しているみんなは本当にたくましくて尊敬しているし、2年生のトレーナーたちにはいろいろな意味で本当に支えられていました。みんなありがとう。これからも頑張って!

 

 

同期スタッフ。みんな本当にお疲れ様です。正直みんながいなければ部活が回らないというくらい、すごく頼もしいみんなに私は引け目を感じていたくらいです。噓偽りなく、みんなが続けていなかったら確実に辞めていたと思うし、きつい期間を共に乗り越えたみんなは私にとって財産です。辛い時に話を聞いてくれたり、共感してくれたり、励ましてくれたり、支えてくれてほんとにありがとう。これからもよろしくお願いします。

 

 

 

4年間でいろんな経験ができました。いろんなことを学べました。留学にいけなかったのは残念ではあるけれど、それも何かの運命のような気がします。

 

 

4年間関わってくださった皆さん、本当にありがとうございました。

そして現役の皆さん、これからの活躍を期待しています。

 

 

天野なぎさ





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