ゲームチェンジャー
水野創太(1年/テクニカルスタッフ/鳥取西高校)
練習を撮影しているとき––撮影はテクニカルスタッフの仕事の一環である––選手たちが活き活きとプレーする姿にふと自分を重ねることがある。選手の立場だった高校以前の「自分」、“もし今でもサッカーを続けていたら”という想像上の「自分」。それらの「自分」は理想のプレーをしており、僕は夢中になってその姿を目で追う。
しかしカメラから目を離した瞬間「ああそうか、自分はもうプレーする側にいないのだ」と気付かされる。ほんの数秒前までプレーに没入していたのに、今の自分は何をしているのか、このままで良いのか、そんな不安と虚しさが襲ってくる。
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砂丘で有名な鳥取県鳥取市に生まれた僕は、綺麗な空気とのんびりとした時間の流れの中でのびのびと育った。記憶は曖昧だが幼稚園の時にはもう芝生の上でボールと戯れていたような気がする。(プチ情報:ほとんど知られていないが鳥取県は芝生が有名。新国立競技場の芝も甲子園の芝も鳥取県産。まあ土地が余っているからある意味必然と言える。砂より芝である。)
小2の時、周りの友達と同じようにサッカークラブに入った。幸運なことに僕が入ったチームは鳥取では結構強かった。チームの仲間はみんな僕より体が強く、足が速く、サッカーが上手かった。一方の僕は足が遅くタックルでも吹っ飛ばされてばかりで、スタメンとベンチを行き来する選手だった。
当然「なぜ自分にはできないのか」という思いが募り、毎日劣等感と反骨心を抱えながらボールを蹴ることになった。
こんな書き方をすると暗黒史のように聞こえるがそんなことはない。着実に上手くはなっていたし、試合に出られるか当落線上のサバイバルも楽しかった。
下手なりに頭を使った。サッカーノートをとって、個人戦術や練習メニュー、試合の振り返りを徹底的に血肉に変えようとしたのである。これが、ドリブルではぶち抜けない鈍足の自分の生き残る道だと信じていたし、あながち間違いではなかったと今でも思う。
2016年11月23日、小6で迎えた全日本少年サッカー大会県大会決勝、僕は半月板に入ったヒビでベンチに座っていた。せっかくスタメンを勝ち取った同日の準決勝で痛めたのだ。チームは3-0の大勝。僕はテーピングを巻いて3分間のお気持ち出場。大舞台から逃げたんだろと帰りの車で親に怒られたのを覚えている(流石にレントゲンのヒビを見てわかってもらったが)。小学生のサッカーの一番大きな晴れ舞台は怪我で終わった。
中学校では同じクラブのJYに進み、今までと同じように11人目を争う日々だった。クラブユース選手権ではサンフレJ Yと対戦し、ひたすら走らされたが良い経験だったと思う。Jの下部組織相手でも自分が突き詰めてきたプレーが通用する。決して上手くはないし、スピードでもコンタクトでも勝てないが、頭を使って予測しハードワークする。自分のプレーに確かな手応えを感じることができた。
集大成となるはずだった秋の高円宮杯。
大会3ヶ月前に腓骨骨折、すねの骨が綺麗にポッキリいっていた。
まただ、またこれかと思った。そもそもスタメンを目指す立場の自分にとっては致命傷である。ギリギリ復帰は間に合ったが結局ほぼ出場できず、チームも県大会で敗退。「こういう星のもとに生まれたのか」とある意味開き直ったり悲観的になったりを繰り返した。
高校の進路を決める時期に入ると、周りの多くは米子北などテレビで見てきた高校に進学していった。羨ましくも思ったがもちろん自分には縁のない話で、地元の進学校でサッカーを続けようとほとんど決めていた。
そんな折に縁あってガイナーレ鳥取ユースの練習に参加させてもらえることになった。実際のところは上手かった同期のおまけで連れて行ってもらっただけなのだが、もしかしたら目に止まるかもしれないなんて心の底では淡い期待を抱いていた気がする。サッカーエリートを目指せる最後のチャンス。何か爪跡を残してやろうと必死だった。
結果はというと、まあ無様にも何もできずチンチンにされた。完膚なきまでに叩きのめされた。そりゃそうだ。
おまけに練習後に提出したシート(おそらくユースの選考に使うやつ)には50メートル走のタイムを書く欄があった。鈍足の僕は練習に参加しようがしまいが見込みはなかったのだ。文字通り足切り不合格。現実に引き戻された感覚は今でも鮮明に覚えている。
サッカー選手としてサッカーの世界で生き残る。幼い頃からの夢は現実との差異を痛感する中で次第に薄まっていき、この時完全に潰えたような気がする。
結局ほぼ既定ルートだった地元の高校に入学し、自分は県ベスト16が定位置のサッカー部に入った。県ベスト16でしょ?結構強いじゃん!と思ったそこのあなた。鳥取県大会の出場チーム数、21です。
テストで2週間部活がなくなる、小雨ですぐ練習なくなる、サボる奴ばっかり。そんな部で部長をやった。顧問も毎日きてくれるわけではないのでメニューも自分で考えたりした。インサイドキックがままならない人に一から教えたり、廊下でラントレしていたら部員がリレーを始めて壁に突撃して校舎を破壊したり、これまで当たり前だった環境との差異に驚いた。
ちなみに総体は安定の県ベスト16、例年通りのフツーの成績で引退した。
こんなサッカー人生を経た後東大に入学し、プレイヤーかスタッフか散々迷った結果、テクニカルスタッフとしてア式に入部させてもらうことになった。
サッカー選手としてはある程度やりきった感がある。過去に全くの後悔がないわけではないが、仮にサッカーを続けて多少上手くなれたとしても、自分の存在が試合を左右したり、流れを変えたりすることはできないだろう。ましてや自分がひとりのサッカー人としてサッカー界に爪痕を残すことはないと断言できる。
ただ、テクニカルスタッフとしてなら可能性があるかもしれない。自分の目で見て学び、考えて発信し続ければ、いつか、何らかの形でこのチームに貢献できるかもしれない。そしてそれが大好きなサッカー界への還元につながるかもしれない。
また、スタッフだからといってサポートだけに甘んじるつもりはない。自分の一言で、自分の培った考えから生まれる提案や修正力で、試合を変えたい。ゲームチェンジャーになる。ずっとプレーしてきてできなかったことだけど、それを達成するチャンスがここにはあると信じている。
自分はサッカーで生き残るために下手なりに頭を使ってきたし、これからもそれに変わりはない。スタッフになったのはあくまでもポジティブな選択だし、後悔しないためにもまっとうに学び続けたいと思う。
練習終わりには、実際今日みたいに「これでいいのか?」という気分になることはある。スタッフならではの疎外感というか無力感なのかもしれない。でもこうして今までやってきたこと、これからやりたいことに目を向ければポジティブな気持ちになれる。これは我ながら長所だと思っている。
最近またサッカーノートをとり始めた。中学校以来である。毎日同じようなことばかり書くようになり中断していたのだ。しかしア式では今までに考えてもこなかったことがたくさん学べるため毎日が新鮮である。サッカーノートを通じて再び僕の世界は広がり始めている。
リーグ最終節、大東文化大学戦のスカウティング担当を任された。本当に光栄なことだ。正直、4年生最後の試合の担当が僕で良いのか?という気持ちはあるが、そんなこと言っていても仕方がない。ゲームチェンジャーになる、その最初のチャンスがやってきたようだ。
プレイヤーとしてはやりきって、次のステージで成長しようとしているのが伝わってきて胸熱でした。今度試合観に行きたい、これからもがんばってね!!
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