辞める勇気
笠井遍(4年/MF/旭丘高校)
試合終了のホイッスル。
大学サッカー最後の試合が終わった。
最後の最後に90分出れた。
けど、場所は御殿下ではなかった。
トップチームの同期より1日早く引退試合を終え、B2の試合を観ながら色々考えていた。
結局、4年間大学サッカーを続けて、
東大ア式蹴球部に居続けて、何が残った。
正解だったか?
意味はあったか?
45分×2本の間に答えは出なかった。
ふと1年前の卒部式できっつが(西澤先輩)が言っていた言葉を思い出した、
「正解の選択肢を選ぶんじゃない。自分が選択した道を正解にすればいい。」
そうか。俺は自分がア式に残り続けた選択を正解にできなかったのか、と。
皆さんこんにちは。笠井遍です。
自分は何度もア式を辞めようと考えましたが、毎回結局戻ってきて最後の引退まで残り続けました。
部活を最後まで続けてきた理由について書きたいのですが、
自分のことを知らない人にとっては何のこっちゃって感じだと思うので。
ちょっと長めに4年間を振り返ることにします。
非常に長くなると予想されるのでこの先読み進めるかどうかは皆さんの判断にお任せします。
提出めちゃめちゃ遅くなってすみません。ごめんね星くん。
大学1年の春、自分はまだ名古屋で生活していた。コロナ真っ只中。授業は全てオンライン、ア式も入部を決めていたが活動を再開する見込みはまだ無い、という状況だった。
ア式に入部する。この選択が間違っていたのだろうか、と今になって考える。
いや、違う。高校サッカーを引退した時から、東大に受かったらア式に入ることを決めていたし、受験生の頃のモチベは間違いなくそれだった。
高校サッカーは不完全燃焼だった。ケガに悩まされ、離脱と復帰を繰り返す日々。強いと言われていた自分達の代は結局1回も県大会に出場することなく引退した。
大学では大きなケガなく4年間サッカーをやり切りたい
そう思ってア式に入部した。
8月からア式の練習は再開し、それと同時に東京での生活が始まった。東京、一人暮らし、東大、大学サッカー、全てが初めてだった。
8月から始まり12月の頭に終わったこの1年目のシーズン。
これが良くも悪くも最高のシーズンだった。
8月から練習に参加し、1年生は4週間育成チームに混ざって活動した。4週間が終わり、みらい・たけ・八代がAチームに昇格、育成チームもB1とB2の2つのカテゴリーに分かれた。
1年目の4ヶ月は「最高の環境」という前回のfeelingsに書いた通りである。元天パの同期におもんないと批判を受けた文章だが、自分も激しく同意する。
1年目はまだ遼さんが監督をしていた。
育成チームにははやとさん、まきさん、ともひさん、そしてなかしんの4人のコーチ。
全員ア式のサッカーを熟知しており、ポジションもバラバラで完璧な指導陣だった。
辺に立つ、正体する、胸を合わせる。
初めて聞く言葉を必死に理解しプレーで表現する。
自分が毎日毎日上手くなっていく感覚。高校までやってきたサッカーが玉蹴りに思えるような戦術。
毎日練習に行くのが楽しかった。
B2で活動して1ヶ月ほど経った頃、そろそろ物足りなくなってきたなと感じていたらB1に昇格した。
B1には内田、統さん、まさしをはじめほんとに育成なんかってくらいレベル高いメンバーがいて、練習から超楽しかった。
高校の時はボランチをやっていたが、左利きでクロス練がうまかったのと、中盤のプレーヤーが多かったので(多分8割こっち)左SBをやっていた。
当時のア式のSBはちょっと偽SBっぽい中をとる戦術をやっていたので、これが自分にピッタリだった。
その年のサタデーリーグ玉川戦、国公立大会の3試合全てでスタメンで出ることができた。
元天パの同期と繰り広げた激アツ左SBスタメン争いは一生の思い出になる予感がしてる。まだなってないけど。
こうして順調な4ヶ月を過ごし、1年目のシーズンが終了した。そして4年生の引退と同時にAチームに昇格した。
AチームでやれるワクワクとAチームで通用するかどうかの不安が半々で迎えた2年目のシーズン。
新監督に陵平さんを迎え、2月にスタートした。
プレシーズンはうまくいっていた。
昨シーズン積み上げたものと自分のセンスがAチームでも通用した。
逆に守備とフィジカルは全く通用しなかった。
練習試合が終わった後、
「その守備とフィジカルのままだったら1部ではお前は使えない。」
そう吉くんに言われたのを覚えている。
そして迎えたシーズン開幕節、自分は18人のベンチに入った。ケガ人がちょくちょくいたのもあったけど、シンプルに嬉しかった。
そういえば開幕節の前日に、期待してるぞ、って陵平さんに言われた。この時はまだ期待されてたらしい。
その試合での出場は無かった。
ベンチ外もめちゃめちゃ悔しいけど、ベンチに入ってて出れないのはもっと悔しかった。絶対リーグ戦に出たい、と珍しく熱くなった。
その矢先。
翌日の練習。
この日から、俺の長い長いDL生活が始まった。
最初は中足骨疲労骨折。全治2ヶ月。
ここまでが順調だっただけに悔しかったが、まだ退部なんて頭になかった。
たでぃの元で課題だったフィジカル強化に全力を尽くした。たでぃ、ありがとう。
2ヶ月のDL期間を終え、育成からまたやり直そうと意気込んだ練習復帰2日目。今度は足首だった。
6月にして今季2度目の全治2ヶ月。心が折れるのには十分だった。復帰した後も足首が癖になり離脱と復帰を繰り返した。Aチームに上がるどころか満足にプレーすらできない状態が続き、退部の2文字がチラつき始めた。
週6でグラウンドに通い、楽しそうにサッカーをするライバル達の横でDLをする毎日。サッカーへのモチベは全く無くなってしまった。4年の引退まではなんとか続けたが、そのタイミングで休部をすることにした。
退部ではなく休部にした理由は、シンプルに決断を先延ばしにしたかったからだ。まだ足首さえ良くなればまた楽しくサッカーができると思っていた。
結局2週間で休部から復帰した。普段部活をやってて会えない友達と遊んだりしてみたけど、自分には退屈な2週間だった。
結局自分はサッカーが好きで、まだプレーしたいんだと自分の気持ちに気づくことができた。
あんなに嫌になっていたサッカーが、いざ離れてみると必要な存在だった。
こうして2週間の超短期休部から復帰し、数週間歌と一緒にDLをして2年目のシーズンを終えた。
迎えた3年目。今振り返ってみても、なぜ辞めなかったのか分からない。
オフ期間で足首は回復し、シーズン開幕とともに練習に復帰した。順調にプレーを続け、Aチームに昇格。
しかしなかなかトップに絡めないまま1ヶ月が過ぎ、中足骨疲労骨折を再発し降格。
その後、再発の怖さや足首の痛みも加わって離脱と復帰を繰り返す日々に逆戻り。
気づいたら8月。双青戦が近づいていた。
双青戦はケガで出場できなかった。
このままだらだら部活を続けてもなんも楽しくないな、、。
双青戦が終わり夏オフに入るタイミングで辞めようと思った。
幸か不幸か。その双青戦で発生した大クラスターの一員となってしまった。夏オフ返上で10日間の隔離期間を実家で過ごし、東京に戻った時にはもう練習が再開していた。
完全に辞めるタイミングを失ってしまった。
全くモチベが無いのに辞める決断もできず、だらだらとチームに残るという最悪の形。
この時期、やる気の無い態度を練習中にも見せてしまい、育成コーチや他のプレーヤーにはほんとうに申し訳なかったと思ってます。
3年の秋にもなると、同期はほとんどAチームにいて。
重い足取りでグラウンドに向かえば練習終わりに楽しそうにしゃべる同期の輪があって。
それを横目にテーピングを巻く。
グラウンドに行くのが本当にしんどくなっていった。
とにかくこのしんどい毎日から逃げたくて、
4年の引退のタイミング、代替わりでAチームに一気に昇格するタイミングで上がれなかったら辞めようと決めた。
けど実際、練習復帰して2週目くらいだった自分が上がれる訳がなく、そのことも自分は分かっていた。
「しんどいから」
ただそれだけの理由で退部するのが恥ずかしかったのかもしれない。何か明確な理由というか、区切りが欲しかっただけだった。
「辞める理由がよく分からんけど」
と楓(大田先輩)に言われたのも納得である。
今考えたらメンタルが激弱だっただけかもしれない。
けどこの当時、実際全く寝れなかったし食べれなかった。
絶対引き止められると思って同期には相談しなかった。
人事のあやかと、あと1,2人には少し話したけど。
たけにもわこにも話さなかった。もちろんみらいにも。
みんな黙っててごめんね。
引き止められたら絶対辞めれないと分かってたから。
引き止められたくなかったから。
1つ読み違えたのは人事ユニット長が元天パのやつだったこと。すんなり退部させてくれる訳がなかった。
そう思って、先に陵平さんに伝えた。
「退部します。今までありがとうございました。」
監督に伝えた1ヶ月後、
部に戻っていた。
この1ヶ月、同期に引き止められたくなかった自分は、見事に同期に引き止められた。
「あまねが辞めたら寂しい」
上野公園で涙を流してくれた同期。
「あまね無しでは俺のア式人生は語れない」
上野の韓国料理屋でいいこと言ってた同期。
「あまねが辞めるなんて受け入れられない」
農食で語ってくれた意外な同期。
本郷キャンパスのせんっまいスタバで話を聞いてくれた同期もいた。
みんなは覚えてないかもしれないけど、すごく心に残ってます。
あんなにしんどかったのに。あんなに辛かったのに。
「こいつらと引退したい」
そう思い始めてしまった。
人生結局「人」なんだなあ、と。
バイトしかり、仕事しかり。
いい仲間や友達がいると、多少辛いことがあっても辞められない。
素晴らしい仲間を持ってしまったなと。
ラストシーズン、また1からサッカーと向き合うことを
決めた。
そしてこれ以降、ア式を辞めようと思うことは無かった。
合宿からスタートしたプレシーズン。
3週目にAに呼ばれた。ここで定着しないと先は無いだろうと臨んだ練習で足首をやった。
幸い全治3週の軽いケガですんだものの当然の降格。
不思議と焦りはなかった。
足首の靭帯は繰り返すほどに治るのが早くなるらしく
復帰後も順調にプレーを続け、そろそろAに呼ばれるなって時に、またやった。
今度は左足首。全治8週。すでにリーグ戦は開幕していた。順調に回復しても最後数試合絡めるかどうかというところだった。
ここまで来ればもう開き直るしかない。
最後数試合までにAに上がりなんとしてでも出場機会を得るだけ。
結局、
2試合ベンチには入ったが1秒も出れず。
最後の1ヶ月は降格し育成で過ごした。
結果はついてこなかったが、2年ぶりにサッカーと本気で向き合い、
ケガにも負けず上を目指したこの1年は無駄にはならないはず。
そういうことにしておこう。
正直陵平さんは大っ嫌いだけど。もうそんなのどうでもいいや。
長くなりましたが4年間を振り返るのはここまでにして、
こっからが本題です。
冒頭で、ア式に残り続けた選択を正解にできなかったと書いた。
たしかに大好きな同期と共に引退できたし、最後の1年はやり切った。
でも
やっぱり引退したその瞬間、
今まで続けてきてよかった
という気持ちにはならなかった。
引退した数日後、ある文章を読んだ。
旭丘高校サッカー部の同期が書いた部員ブログだ。
筑波大学蹴球部で4年間プレーした彼は、高校時代毎日居残って一緒にシュート練習をしていたそのGKは、
こんな言葉を残していた。
――
「あ、なんだよ、筋肉しか残らなかったって言ったやつ誰だよ、」
「めちゃくちゃ残ってるじゃねぇか、」
一緒にプレーしてきた同期、後輩、先輩方、そして家族、友人、が
私の心にポッカリと空いた穴は、もう塞がるどころか、溢れかえっていました
――
彼の部員ブログもぜひ読んでみてください↓
https://note.com/shukyu_blog/n/n4927662bb7e3
どんな目標を掲げても、直向きに努力しても、
トップチームに上がれない。
目標を達成できない。
レベルは全く違えど、自分と似た4年間を過ごしていた。
そんな彼は、
4年間続けた「意味」を見つけたみたいだ。
俺はどうだ?
意味はあったか?何が残った?
たしかに俺も筋肉は残ったな、、笑
入部当時52kgしか無かった体重は、4年の時には67kgになっていた。
15kg分の筋肉はたしかに残った。
真剣に考えたけど、分からなかった。
もう少し大人になったら分かるかもしれない。
でも何回思い返しても、あの時辞めなくて良かったとは思えなかった。
引き止めてくれたみんな、ごめん。
「辞める勇気」が無かっただけ。
ただそれだけだと思う。
なんだかんだ大学入ってからサッカーしかしてこなかった。ア式以外に大学に友達もいなかった。
そんな大学生活の全てを切り捨てて退部する勇気が俺には無かっただけだと思う。
大学の運動部という性質上、辞めたり、辞めるかどうか悩む人は一定数いると思う。
続けるのが正義とか、そんなことは無いと思う。
けど大事なのは続ける、辞める、どちらを選んでも自分の選択を信じてやり切ること。
「ア式という環境で週6練習していればどんな人でも必ずサッカーが上手くなる」
奥谷が卒部feelingsでこう綴っていた。
けどこれは彼が真摯にサッカーと向き合って直向きに努力していたからであって、
中途半端にやってる奴には当てはまらない。
ア式を続けるにしても、ア式を辞めて何か他のことに挑戦するにしても、
半端な覚悟じゃ何も残らない。
自分が気づいたのはこんなところだろうか。
当たり前のことなのかもしれないけど。
もっと陵平さんの悪口書こうと思ってたのに。
あんま思いつかないもんですね。
最後に、ケガ人を代表して。
フィジコのみんな。
たでぃ、しんけ、よね、そしてだいち。
DL期間、みんなにどれだけ助けられたことか。
モチベを維持するのが難しかったり、部にとって自分は必要ないんじゃないかって悩んだりすることもあるかもしれない。
めちゃくちゃ必要です。断言します。
これからもア式の力になってください。
ありがとう。
おもろい先輩、かわいい後輩、大好きな同期。
何度も辞めようと思ったけど、その度に自分を部に引き戻してくれたのは間違いなく部のみんなおかげ(せい?)です。
ほんとに「人」に恵まれたなと思います。
続けてよかったとは言い切れないし、4年間楽しい思い出よりも辛いことの方が多かったけど、
まあなんだかんだでみんなに出会えたっていうプラスが上回ってます。
関わってくれた皆さん、本当にありがとう。
これからもよろしく。
笠井遍
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