金色グラフティー

古川泰士(4年/MF/東大寺学園高校)


夕焼け空に浮かぶ金化粧
輝き狂って夢の中
胸を締め付けて

 

 

 

 

 

 

 

イントロ〜問〜

 結果だけ見れば大したことのない4年間だった。ラストシーズンしかまともに公式戦に出場できず、その4年目でさえも絶対的な主力でなかった。

 正直にいうと、ア式の活動で嬉しかった記憶はあまりない。その反面、悔しかった記憶は腐るほどある。例えば、2年目の後期学習院戦、3年目の双青戦、そして4年目の後期成城戦。

 そんな記憶に埋め尽くされながらも、自分はア式に4年間を費やして良かったと思っている。それは、4年間で自分は「変わった」と言い切れるからである。

 そしてそう言い切れるのは、自分が熱量を持ってア式での活動に取り組んだからだ。

 自分と同じ境遇を辿っているかもしれない誰かに向けて、ア式で過ごした4年間で自分の見える「世界」はどれだけ変わったのか、を書いていく。

 

 

 

 

 

 

 

1番〜3年目まで〜

 振り返って感じるのは「後悔」である。

 なぜそう感じるのかといえば、自分の弱さに向き合うことすらできていなかったからだ。

 

 

 2-3年のほぼ2年間をセカンドチームで過ごした。そうなったのは、トップチームで試合に出られるチャンスが何回もあったにも関わらず、自分が一回もモノにできなかったからである。

 自分が後悔しているのは、当然この結果に対してではなく、過程であり自分の姿勢に対してだ。

 

 結論からいえば、当時の自分は、そこそこやれるけど惜しいね、のポジションに居心地の良さを感じていた。

 セカンドにいるということは、トップよりも何らか劣る部分があることを意味する。そりゃトップの試合に出れば自分は下手だし、ミスも普段より増える。

 当時は、出来ないことがはっきりしていたのに、課題を改善することから逃げていた。ただその瞬間を頑張ることで乗り切ろうとしていた。もちろん、課題は解決されず、一向に上手くはならなかった。そのうちセカンドで何のプレッシャーもなくプレーすることを「楽しく」感じるようになっていた。

 つまりは、出来ないことから目を背け、自分の出来る範疇での安定を求めていた。

 

 当然トップで出られる時間は減っていった。3年の頃には、木曜の紅白戦にてスタメン組で使ってもらったのに、土曜のセットプレーではセカンドになっているなんてこともあった。

 サッカー選手として屈辱的なことのはずだが、どこかでホッとしている自分もいた。なのに、ベンチに入って試合に出られず終わった時はやっぱり悔しかったし、ベンチにも入れずピッチの外から眺める試合は最悪だった。

 

 結局は、出来ない自分に向き合うことが怖かったのだ。現状に不満を抱きながらも、その原因を自分に求めていなかった。

 毎回の試合・練習をせいぜい頑張るだけで、客観的に自分の弱点に向き合い一つずつ改善する作業を怠っていた。正確にいうなら、毎日をがむしゃらに取り組むことで、時に周囲に責任を転嫁することで、自分の弱さから目を背けていた。

 10何年間サッカーを続けてきて「自分が下手くそである」、この事実を受け止められていなかった。文字にすれば不思議なものだ。大した実績もないのに、所属したチームが強くなかっただけなのに、そんなチームでちょっと上手い方だっただけなのに、プライドだけは一丁前だった。

 

 転機は3年目の夏。ベンチから漏れることも増えており、ア式人生ではかなりどん底の時期。そんな中迎えた京都での双青戦。セカンドでの出場だったが、久々に親が自分のプレーを直接見ることができる滅多とない機会だった。

 

 そこで自分はア式人生最低レベルのプレーを披露し、怪我して途中交代した。

リハビリ期間、親への申し訳なさとか自分への失望とか色々感じたが、一番感じたのは危機感だった。このまま何も変わらなければ、何も遺せない大学サッカー生活になってしまうと初めて強い恐怖を感じた。

 シーズンの残りの時間で必ずスタメンで1試合でも出ると誓った。そのために自分はもっとサッカーに打ち込まないといけなかった。

 

 ここが一つのターニングポイントだった。復帰した頃はシーズンも終盤で、出来ないことを一つ一つ改善していくなどと悠長なことは言っていられなかった。なんとしても試合に出るために、自分が今できることを100%発揮することだけに集中した。

 結果としては、色々なことが重なり、実力以外の要因で、ラスト2試合にスタメン出場した。

 

 

 この3年間はほとんど成長していなかった。もちろん映像で見れば、動きは多少大学サッカー選手ぽくなっていた。しかし、自分の課題は変わらないままだった。

 今思えば、自分はトップで出るに十分な実力があると心から思えていたか、というと答えはノーだ。なぜなら、そのための準備・過程が足りていないことをわかっていたから。

 にも関わらず、その過程に自分の熱量を費やしきれていなかった。その原因は、「自分が下手なサッカー選手である」、この事実をいつまでも受け入れられていなかったから。

 がむしゃらになることで、目を背けてはいけない部分から逃げ続けた。その中偶然芽生えた危機感は、本質的に変わらなければいけないと自分に告げていた。

 さあ勝負の4年目。自分は成長できたのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

2番〜4年目〜

 振り返って感じるのは「無力感」だ。

 なぜそう感じるのかといえば、自分の弱さに向き合い続けることができなかったからである。

 

 そんな4年目だが、今までの人生で一番自分自身に向き合った期間だと言える。とにかく個人として結果を残し、チームの勝利に貢献したいと思っていた。

 シーズンの目標は、1試合も離脱することなく試合に出場し続けること・チームに不可欠な選手として勝利に貢献すること、の二つだった。

 その目標を達成するには何か本質的に変わる必要があった。それは「自分が下手くそである」ことを受け入れることから始まった。

 

 オフ中に、自分が一部の舞台で何が通用して何が通用しないのか整理した。通用すると自信を持って言えるのは一つだけだった。それは、取り所がはっきりしたボールに対してアタックできることで、1年目の終わりに4人のOBコーチから唯一褒めてもらった部分だった(当時は、攻撃では何もないんかと結構ショックを受けたけど)。それから2年が経ったはずが、自分はほとんど成長しておらず、武器のない選手だった。

 そんな事実にようやく気づき、「自分が下手くそであること」は簡単に証明された。武器のない自分が試合に出て勝利に貢献する術を考えた結果、プレーにおける「安定感」が不可欠だという結論に落ち着いた。

 自分の目指す姿は、プレーのアベレージが安定した「計算できる」選手になった。攻撃では適切な文脈に則り、再現性の高いプレーを選択できること。守備では一つのスライド・ダウン・プレスバックをサボらないこと。3年目までのプレースタイルとは真逆を目指すことになった。


 出来なかったことに対してこうすれば良かったと机上で振り返ることは簡単だ。フィジカルなのか、マインドなのか、サッカーへの理解が乏しいことなのか。だけど、本当の問題は、なぜそれができなかったのかである。解決策がわかっているはずなのに実行できないことが一番の問題。

 自分にとっては、「自分が下手くそである」事実から逃げていたことが真因だった。言葉にすれば簡単だが、自分は中々気づけなかった。

 ようやく気づけた4年目。結果はどうだっただろうか。

 

 4年目にして初めて一度も離脱することなくシーズンを戦い、大体の試合ではスタメンで使ってもらえた。けれど、チームに不可欠な選手として勝利に貢献した試合はなかったと正直に思う。

 目標は片方しか達成できなかったわけだ。

 実は「片方しか」というのは当然の結果でもある。なぜなら、「チームに不可欠な選手として勝利に貢献する」目標には挑戦できていなかったからだ。

 これが、章の冒頭の「自分の弱さに向き合い続けることができなかった」ことによる自分への無力感の証である。

 

 プレシーズン、たくさんサッカーを見てインプットした。練習や試合の前には頭を整理して、自分の改善すべき点を選んで意識して取り組んでいた。映像もその日に何がダメだったか振り返った。そのうち試合にも継続して出られるようになった。チームも東北大戦での敗戦を機になんとか這い上がった。

 

 リーグ戦前期は、開幕こそ二連勝したものの勝ち点を取りこぼすような試合が続いた。自分も、朝鮮戦と武蔵戦をはじめ、パフォーマンスに大いに不満が残る試合ばかりだった。この時期は、試合に出られない、チームが勝てない事実を必要以上に恐れていた。

 上手くなることよりも、ミスしないことに目が向いていた。できることをMAXでやっていれば試合には出続けることができるだろう。そうして、できることしかやらない、つまんないプレーヤーになっていた。

 

 チームは後期に入り何故か勝てるようになっていた。そんな上昇するチーム事情の中、自分は依然「つまんないプレーヤー」を脱却できていなかった。後輩が頼もしくなり、同期は逞しくチームを引っ張っていた中、自分はついに、「つまんないプレーヤー」であることを肯定するようになった。

 視座を下げた結果、できることを100%やる思考により傾き、つまらないどころか、ただの臆病者になった。玉川戦も帝京戦も嬉しかったが、心からは喜べなかった。残り時間を耐え凌ぐような過ごし方をすることが正解なのかと葛藤を抱き続けた。

 そして朝鮮戦、この試合では自分のボロが全部出た。

 武蔵戦では守備固めでの投入。成城戦では1点ビハインドにも関わらず、脚が攣った選手が出るまで自分の出番はなかった。

 最終戦出れないかもと悟った。

 

 「つまんないプレーヤー」を脱却する唯一の兆しは、最後の理科大セカンド戦だった。この試合、何故か分からないが、何としても結果を残したいという気持ちと同時に、この試合でサッカー上手くなりたいなと感じていた。

 ボールを足元に置きすぎだから、スペースに運んでみてと、岡本監督に助言をいただき、これだけはできるようになりたいと臨んだ。

 久々に試合で旭とボランチを組んだ。一平のクロスから水本が決めるおなじみのやつがあった。植田と潤が生き返っていた。自分は、相手の前に持ち出してボールを運ぶプレーが増えた。理科大をボコボコにしたことも嬉しかったが、この試合で上手くなった気がしたのが、1番嬉しかった。

 

 吉本君のご厚意で最終戦に出場した。何人かからいいプレーだったと言われたが、相変わらず何回もボールを失った。やっぱり下手くそだった。

 

 

 4年目も1~3年目から本質的には変われなかった。

 試合に出られるようになったことは一つの進歩であり、一度自分の弱さを受け止められた証だと思う。しかし、次第に、試合に出る・出ないという目の前の結果に囚われ、本質を見失った。ついには、視座を下げ、自分のできることしかやらない、つまらないサッカー選手になっていた。そんな事実に気づきながらも、再度「自分は下手くそである事実」を認め、上手くなるべく毎日に没頭することができなかった。

 この一年という短い間も、自分の弱さを受け止め続けることができなかった。

 

 

 

 

 

 

 

間奏~自分へ~

 なぜそうなったかについて自分なりの考えを記そう。

 結論としては、過程に愚直になれなかったからだと思う。

 当然だが、あらゆる結果に対してその原因を一つで言い表すことは難しい。具体的に、サッカーで試合に出られた、という結果を挙げてみてもそうだ。自分が前の試合でゴールを決めたからかもしれないし、ライバルが怪我や体調不良でコンディションが悪いからかもしれない、監督の嗜好に合っているからかもしれない。

 言いたいことは、原因は複数でその関係性は複雑なので、結果を自分一人の行動でコントロールすることはできないということだ。コントロールできるのは自分の行動だけであり、コントロールできない結果で頭を悩ませる必要はない。

 「やるべきことを淡々とやり続ける」。

 ア式で腐るほど聞いたこの言葉だが、頭ではわかっても、実践するのが難しいのだ。

 

 「結果に囚われすぎず過程に愚直であるためにどうすべきか」に対する自分なりの答えはこうだ。

 それは、目の前の課題一つ一つに、主体的に取り組むことである。

 整理しきれていないが、具体的には、以下の3ステップが必要だと考える。

 自分のできないことを受け止め、目の前の課題に向き合うのが1stステップ。インプット量と思考量を増やし、その課題の解像度を上げていくことが2ndステップ。一つずつでいいので改善する姿勢を継続することが3rdステップ。

 実際に、「デキるやつ」は謙虚だ。なぜなら自分のできないことを受け止めているから。そして、一つの課題への解像度が高いし、一つの事象から読み取れる情報の数が違う。なぜなら、圧倒的にインプットし、膨大な時間を思考に費やしているから。そして、自分のやるべきことに集中している。なぜなら、目の前の一つ一つを改善することを継続することでしか、成長を遂げられないことをわかっているから。

 

 少し寄り道をする。

 

 過程に愚直であることで生まれるのが「楽しさ」である。これは、自分なりに正しい過程を徹底できている事実がもたらす、少しでも前進・成長している実感のことだ。そしてこの感情は、サッカーに限らずあらゆる物事に存在し、「楽しさ」のコアを担っていると思う。

 確かに、上手くいった・出来たによる表面上の「楽しさ」も存在する。実際に、試合に勝てば、ゴールを決めれば、楽しいかもしれない。しかし、過程が正しくない、成長を感じられない結果を心から「楽しい」と思うことができるだろうか。

 4年目の自分は、結果を以って楽しさは享受されると考えるようになっていた。勝てばなんでもいいと思っていた。しかし、これは間違いだった。勝ったことで気が緩み目の前の課題を見過ごした。勝てなくなり、目の前の課題に対して時間をかけて解決することよりも、その場しのぎの解決策にばかり手を伸ばした。

 勝とうが負けようが、チームや個人の課題を少しでも改善し、前に進んでいく。そんな過程を必要条件として、結果を追い求めていく。

 上手くなる過程を楽しむことと、結果が残る楽しさを味わうことは両立できたはずだった。

 

 

 

 

 

 

 

ラスサビ〜答〜

 自分はどう変われたのか。

 確かに、自分の弱さを一度は受け止められ、初めて「成長」できた。

 しかし、目の前の結果に囚われ、自分の弱さに向き合い続けられなかった。

 

 満足いく結果は残せなかったが、この4年間、人生で1番熱量を持って物事に取り組めたことを幸せに思う。

 

 この文章を通じて、読んでいる方(主に後輩の皆さん)へ伝えたいメッセージは以下の二つになる。

 まずは、結果に囚われすぎないこと。

 漠然と上手くいかないと感じることが多いと思う。でも隣のあいつのことで悩んでいても仕方がない。コントロールできる自分の行動に集中して、目の前の一つ一つの課題に真摯に取り組むこと。これはプレーヤーもだしスタッフもそう。結果が出なくてもいい。そんなことで存在意義がないとか悩む必要はない。

 重要なのは日々のア式の生活のなかで成長し、「楽しさ」を享受すること。「楽しさ」を享受できているならきっとア式にとって意味のある何かになっているはず。

 次に、熱量を大切にすること。

 ア式での何かに、感情が大きく揺さぶられているから、ア式での生活を選択しているのだと思う。大谷翔平さんも「熱量を持って取り組める物事があるというのは幸せなことだ」と何かのインタビューでお答えになっていたが、熱量とはどんな物事にも等しく湧き上がってくるものではない。

 だからこそ、今自分が熱量を感じている物事は大切にしてほしいし、ぶつけられるだけぶつけてみてほしい。

 

 テツさんのサッカーは、熱量をかけて取り組むに値する、「楽しさ」を与えてくれるサッカーだと思う。楽しそうに練習して上手くなっているみんなが結構羨ましい。

 

 

最後に感謝を書きます。

 武田さん、和田さん、利重さんをはじめとするLB会の皆様。日頃から現役側に多大なご支援をいただき誠にありがとうございます。最後の一年間は主務として至らぬ点も多々あったかと思いますが、様々な場面でご助言いただき活動を支援いただいたこと感謝いたします。

 スポンサー企業の方々。皆様のご支援のおかげでア式が様々な活動に挑戦できています。皆様とお話させていただく過程で自分は大きく成長させていただいたと思っております。感謝申し上げます。

 陵平さんをはじめとする指導していただいた方々。下手くそな自分を試合で使ってくださりありがとうございました。秋本さん本当に最高でした。(皆さん王子さくらという整骨院に行きましょう)

 先輩の皆さん。ありがとうございました。

 後輩の皆さん。さっき書きました。

 同期の皆さん。ア式の活動に真摯に向き合う人が多かったと思います。尊敬しています。

 最後に、いつも応援してくれた家族へ。長いサッカー人生応援し続けてくれてありがとうございました。最終戦に出られないかと思った時は過去1番焦りました。最終学年になってやっと試合に出る姿を見せることができてよかったです。これからは末永く恩返ししていこうと思います。

 

 

 自分の見える「世界」はこの4年間で大きく変わった。それは自分なりに熱量を持って取り組んだからだ。結果は上手くいかなかったことの方が多かったが、その過程には重要な意味があった。

 初めて自分の弱さを真っ向から受け止めることができたが、受け止め続けることができなかった。過程に愚直になりきれなかった。だけど、最後に「楽しさ」を知れた気がする。

 ア式に入ってよかった。

 

 まとめたつもりでしたが全然シンプルになりませんでした。そうでした、自分は文章を書くのが下手くそでした。

 次はもっといい文章書きます。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

どこへ行くのか

どこへ行くのでしょうか

あの日の記憶は夢の中

金色グラフティー

 

 

古川泰士

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