欲張り

宮内優弥(1年/テクニカル/沼津東高校)

 

 皆さんはエゴサーチしたことありますか?ありますよね(圧)。別に自分が有名人である必要はないのです。試しに、「宮内優弥」と検索してみます。いくつかの検索結果に混ざって、東進の合格体験記ともう一つ、高校時代に書いたブログが残っているのがわかると思います。何が言いたいかというと、ア式でfeelings を書くのは初めてだけど、ネットに自分の思いを綴るのは人生で2回目となるわけです。当時書いたのは高3の4~5月くらいになるわけですから、ちょうど約1年。また〆切に追われながら書いている今の境遇が少し不思議に思えます。最近ひょんなことから1年ぶりに自分のブログを読み直す機会があって、なんだか涙が止まらなくなってしまいました。それはかつての不甲斐なさや悔しさを思い出してなのか。それとも、もうプレーで雪辱を果たす機会がなくなってしまったからなのか。はたまた、これから先テクとして4年間やっていく不安を思ってなのか。当時のブログは自分をよく知る高校同期、そして後輩に向けて書いたものです。しかしこのfeelingsはまだ入部して間もない自分の事を知ってもらう機会として、これからア式で頑張る決意表明の場として、拙く長い文章ではありますが、最後まで読んで頂けると嬉しいです。

 

 

 

 一人っ子で育った自分は、小さい時から一人で物事を考える時間が多かった。日常生活でも、そしてサッカーでも。ずっと好きだったサッカーは、楽しさと苦しさが日に日に相関を強め、気付いたら悩んでいる時間がどんどん増えていた。中高6年間、悩みに悩みながらそれでも続けられたのはサッカーの魅力に取り憑かれてしまったからなのか。選手を辞めても結局サッカーに関わる道を進んだ自分に半ば呆れている。

 

 

 

 一言で言えば「中途半端」なサッカー人生を送っていたと思う。

 

 

 

 出身は静岡県御殿場市。サッカー王国静岡というが、静岡県東部は中部西部とサッカー格差がある。それでも家の近くには時之栖があり、定期的に全国の強豪校が遠征や合宿に来るような場所だ。家からも歩いて5分くらいの場所に人工芝のコートが5面あった。

 

 

 サッカーを本格的に始めたのは小学1年の時(幼稚園の時、お遊びでやったサッカーはここでは入れないことにする)。今でも懐かしい富士岡サッカースポーツ少年団。ところが、小3に上がる頃には既に辞めていた。正直いつ辞めたのかすら自分でも曖昧だ。少なくとも覚えているのは、元々5~6人しかいなかった同級生が次々とやめて空中分解状態であったこと。そもそも雰囲気が良くなかったことのみ。その後はお遊びサッカースクールに週2、3行く程度。適当な練習をして、全く試合経験も積まなかった。今でも思うし中高の間ずっと、小学生の時にもっと基礎を練習しておけば、もっと試合経験を積んでおけば、と思い続けた。

 

 では、残る4年間の小学校生活で何に力を注いだのか。それは、サッカーとかけ離れたピアノだった。小2の時、(富士岡小からその後中高大一緒に行くことになる)友人がチェロを弾いているのを見て、音楽をやりたいと思うようになった。やや始める時期が遅かったにしては、できるようになった方だと思う。小中の卒業式にピアノの伴奏を任されるくらいには弾けるようになった。

 

 自分のサッカー人生において、この選択が大きな分岐点だったと思う。言ってしまえば中途半端な人生の始まり。「小学校生活を全てサッカーに捧げていればもっと上手かったかもしれない。」そんなダサすぎる言い訳を内心では何度も思い、後悔しながらも、この選択をしたことで今の自分があり今の縁があるのも確かである。先輩方のfeelingsを読み、テク同期の話を聞いて、自分自身もよく聞かれる「サッカーを見るだけで、またプレーしたくならないの?」という問いに対してここで自分なりの意見を述べるならば、「プレーはしたくなるし未練もある、けどそれほど後悔していない。」というのが自分なりの意見だ。入学前、ア式に入らず適当なサッカーサークルやフットサルサークルに入ろうとも思った。まだプレーを続けようという思いが0だったわけじゃない。しかし今こうしてア式にテクとして入って、先輩たちの活動の様子を見ながら数ヶ月後の自分の成長した姿を想像するとワクワクできる。縁に恵まれたと思う。だからそれ程は後悔していない。確かにプレイヤーとしての観点だけで見たら後悔はあるかもしれない。しかしもっと広い観点、サッカー全般、そしてさらに言えば一人の人間としての観点で見たら後悔は決してない。

 

 

 さて、だいぶ話が脱線してしまった。適当な練習しかしてこなかったが、結局富士岡中ではサッカー部に入った。幸運なことに代替わりした中1の夏頃から試合に出ることができた。一学年上が8人しかいなかったのだ。中学生で初めて出た練習試合、これまでの少なすぎる試合経験のせいで、本当にどこにいればいいのか困った記憶がある。何もできない自分。そこから、本当の意味でサッカーの楽しさを知り始めるともに、苦悩の6年間が始まった。先輩達は上手かったし、先輩達とやるサッカーは楽しかった。ボランチなら誰しも、勝負を決定づけるパスを出せたあの瞬間、たまらない程気持ちいい。そういえば、スローインからアシストもあったな(どんな状況)。もっと顔を出してボールを沢山受けたかったけど、細くまだ身長も低かった自分は捕まると当たり負けばかり。だんだんパスを受けてミスするのが怖くなっていった。先輩達の足を引っ張りたくないという思いが、気づけば次第に消極的なプレーに繋がっていった。また中1の間は怪我も多く、一度足首を怪我してから癖になりずっと整骨院にお世話になった。怪我をしている間、悔しいという気持ちはあったけど、それよりも足を引っ張らなくて済むという気持ちが大きかった気がする。怪我がちで復帰後もスタメンから外れることが多くなって初めて危機感を覚えた。先輩達とサッカーをもっとしたいと思った。

 

 戦術のかけらもないままがむしゃらに頑張り、先輩達が引退、自分達の代になって10番をもらった。嬉しかったし、自分がチームを引っ張ろうと思った。現実は理想とは程遠かった。想像以上に自分だけでは何もできない。つまるところ先輩に頼っていただけだった。サイドの裏を狙っても得点の気配が全くない。基本的に得点パターンはトップ下がこねてシュートを決めきれないのを誰か詰めるか、FW の強靭なフィジカルを活かした個人技でぶち抜くかしかなかった。ひたすら彼らにボールを送り続ける脳筋サッカーがいつまでも通用するわけもなく、コロナ禍で最後の大会がなくなったこともあって、最高成績が御殿場市スポーツ祭準優勝(8チーム中)という何とも中途半端な成績で終わった。不甲斐なくて頼りない10番だった。

 

 話がまた少し脱線するが、富士岡中は自分のサッカー観が大きく変わった場所だった。東日本大震災の影響で富士岡中にはJFAアカデミー福島の選手達が通っていた(現在は福島に拠点を戻している)。プロの卵をまじかで見る経験は貴重だったのだろう。まず当たり前のように身体能力の差を感じた。彼らは基本的にどのスポーツをやらせてもそつなくこなす。体育の授業や昼休みに一緒にサッカーをしてもやはりレベルの差を強く感じた。別にハナからプロを目指しているわけでもないけど、自分が全力を尽くしても手の届かなそうな彼らを見て、どうしようもない挫折感を味わった。

(最近は、ア式にいればいつか彼らとも関わる機会があるかもしれないと思うと、違う意味でワクワクしている。Wyscoutに中学の同級生が載っているのを発見した時は流石に驚きを隠せなかった。)

 

 

 高校は(言わずと知れた名門)沼津東高校理数科に進学した。手の届かない存在を中学時代目の当たりにしながらも、なんだかんだ高校の部活動では活躍できると思っていた。高1の時、セカンドのリーグの開幕戦で初ゴールをあげた時もまだ信じようとしていた。でも徐々にメッキが剥がれていった。自分が下手くそだという現実に直面した。地方の一応進学校といっても、スポーツ推薦も気持ちばかり取っているのである。クラブチーム出身の同期は上手かったし、エスパやアスルのJYもいた。とはいえ、部活出身でもスタメンで出ていた人もいたから自分の努力が足りなかったとしか言いようがない。正直、進学校なんだから自分でもやれると思っていたのに、試合になかなか出られない事が悔しかった。

 

 試合に出られないのは自分の問題だとして、サッカーの内容的には今までで一番楽しい3年間だった。高1~高2にかけてはゾーンディフェンスンスを取り入れようとしていた。もちろん難しかったけど、正解を探して考えるのも面白かった。選手同士で色々考えて悩んだのも楽しかった。あるリーグ戦で、ゾーンで待っていたら相手SBがかなりいいロングボールを放り込んできて対応に困っていた時、パターン4というのを考案したものだ。(終わっているネーミングセンス、要はSBにガッツリかけるようにフォメをちょっと変えただけ)。

 

 代が変わった高2~高3。これまでの4-4-2から3-5-2にフォーメーションが変わった。全体的に体が小さくてテクニックのある選手が多かったから蹴るよりもポゼッション重視になったのだ。中盤の枚数が増えて自分的にはボールも繋ぎやすいし、守備の負担も減って好きなフォーメーションだった(WBに全ての負担がしわ寄せされた)。別にフォーメーションだけではない。コーナーもデザインしたのが何回かハマったりしたし、選手がメニューを決めて色々戦術を試していたのが楽しかった。

 

 高校サッカーで面白かったことのもう一つは体の使い方だろうか。「西本理論」を勉強したトレーナーさんが、走り出し方、姿勢、ターンの仕方等を定期的に教えてくれる機会があった。背筋をうまく使えるようにするためのフライングバック、疲れない走り方のアイドリング、反発に頼らずに動き出すための引っ張り出しのドリル。習得するのが難しくて(結局完璧に習得はできなかった)、何も知らない人が見たら宗教じみたその練習を、口ではバカにしながらも真面目に取り組んでいた。

 

 

僕にとっての高校サッカーは今までで一番真剣にサッカーと向き合い、サッカーのことを好きになれた時期だった。

 

 

だからこそ、真剣に向き合えば向き合う程に、自分の限界が見えて、これまでの自分の向き合い方に後悔し、サッカーが苦しく辛くなっていった。

 

 

 顧問はよく、「誰しもチャンスが3回くらいは回ってくる。そこを掴めるかどうかだ。」と言っていた。掴もうと普段から待っていないとチャンスは手から零れ落ちてしまう。僕はいつチャンスをとり零したのだろうか。

 一つ目は確実に、1年の頃セカンドのキャプテンを決める時に2年生がやり続けるのではなく、また他の1年が立候補する前に、自分がやリたいと立候補するべきだったのだと思う。その一歩を踏み出せなかった。

 二つ目は、高1の終わり、中盤の怪我人が多い時にメンバーに入っていても出られなかった時だろうか。結局出られる程の信頼も実力も足りなかった。

 では三つ目は?日程の都合上セカンドで出場していた、高2の時の沼津市スポーツ祭だろう。決勝トーナメントまで行ってアピールしようと思っていた。今でも思い返すと、後悔してもしきれない予選リーグ。3チームから行けるのは1チーム。つまり基本的に負けられない試合。しかし1戦目の沼商戦0-2で負けてしまった。ただ負けたならまだ諦めがついた。今でも後悔しているのは、その日午後からだった試合、午前中に科学の甲子園の県予選に参加してその足で試合に向かっていたことだ。科学の甲子園の県予選は理数科のメンバーで行ったのに、普通科のメンバーのチームに点数で負けて2次予選を逃した。午後の試合、別に気合いは人一倍あったけど、なんとなくゲームに入れなかった。あらゆることを舐めていたんだと思う。普通科の事を下に見ていたし、沼商にも負けるわけないと思っていた。何もかもが中途半端で、何もかもが嫌になった。負けた後同期の何人かが泣いているのを見てやるせない気持ちになった。

 

 

 

 高3の5月、僕らのサッカーは浜松開誠館に0-5で負けて終わった。最後の試合もずっとベンチで見ていた。

僕の高校サッカーはリーグ戦に少し途中出場しただけで終わった。

 

 

 

 長かったような短かったような10年近くの選手時代。冒頭の通り一言「中途半端」として片付けていいのか。もちろん、思い入れが十分に残った10年近くをそのように形容するのは少々心苦しいものがある。しかし、あえてその言葉を選んだのは、選手への未練を完全に断つこと、そしてこれからのア式での決意につながる。

 

 

 まずはア式に入ろうと思った経緯から

 

 

 それは高2の時。顧問がア式との練習試合を組んでくれたのだ。うちの部活から東大を目指そうとしていたのは自分一人。そもそも沼津とはいえ絶妙に遠い東大と試合を組むには、顧問はじめ父母会やア式の方々、多くの人が協力して機会を設けてくれたのだろう(昔顧問のFacebookを読んだ時、長い間連絡を送り続けたとあった気がする)。本当に感謝してもしきれない。その時特に覚えているのは練習試合の内容でも、先輩達によるキャンパスツアーでも、はたまた勉強相談でもなく、ユニット紹介、そしてテクニカルの紹介である。(勉強相談に関していうと、榎本さんや桐原さんのLINEをせっかく頂いたのに、相談したら負けな気がして何も相談しませんでした、すみません。) 

 

 もちろんテクニカルの存在は知ってはいたのだが、「すごい人がいるんだな」という薄すぎる認識しか持っていなかった。説明を聞いてスタッフという道が解像度高く自分の中に現れた。東大を目指していたのは、東大だから。でも入ってどうするかはまだ何も考えていなかったし、大学でもサッカーを続けるかはずっと迷っていた。楽しさと苦しさという矛盾した気持ちがどんどん膨らんでいた自分が果たして大学でもサッカーを続けられるのか。ア式のテクニカルに入ろうという思いはその時から徐々に持ち始めた覚えがある。今こうして無事テクニカルの一員になった自分を、当時の自分はプレーすることから逃げたと笑うのだろうか。中高6年楽しかったサッカー、でも辛くなってきたサッカーを本気で辞めようと思ったことは一度もない。なんだかんだいいプレー、ゴール、勝利、一瞬の喜びは何にも代え難かったし、好きなものを辛いという理由で辞めるのは逃げだと思っていた。その一方で、今までもう十分やりきって、悩むことから解放されてもいいんじゃないかとも思った。

 

プレーじゃなくてもサッカーに関わる選択肢があるという意識が芽生えた契機はもう一つある。

 

 それは理数科の友人であるとともにサッカー部の一員だったK君の存在である。(ここで一応「沼東のことをあまり知らない人」のために沼東理数科の説明をしておく。沼東理数科は40人1クラスで、3年間同じメンバーは同じ。その中でK君と僕はサッカー部に所属していた。) その時は突然訪れた。高2の秋、K君は突然「休部したい。」そう言った。悩んでいたなら、友達なら、仲間なら、休部する前に一言相談しても良かったのに。高2の時、理数科では課題研究というものが行われ結構忙しく、K君がともに頑張っているというのが励みになっていたのだ。しかしそう思うよりも先に、「自分と似たように、楽しいはずのサッカーに悩み、苦しんでいる人がいるんだ。」と思った。

 

 彼が部活に来なくなった日から、何のためにサッカーを続けているのか自分に問いかけるようになった。別に友人がいるから続けているわけではない。試合に出て活躍したい。モチベ高くそう思えば思うほど、その道は遠のいていくのを感じた。実を言えば彼を少し羨ましく思ったりもさえした。悩みから解放されたい。でもサッカーから逃げ出したくもない。ひたすら悩んだ1ヶ月強が経ち、K君はサッカー部に戻ってきた。選手としてではなく、スタッフとして。ひとまずは、彼が戻ってきてくれたことが嬉しかった。そして、サッカーとの関わり方は選手だけではないということを学んだ。彼が休部するタイミングがもう1ヶ月遅かったら、先に自分に限界が来たのだろうか。彼が勇気を持ってこれまでの経緯を話してくれたこと、スタッフとしてでも戻ってきてくれた彼の選択に敬意を持ちながら、自分の心がまた揺れるのを感じた。サッカーを辞める理由を心の奥底でずっと探しながら、まだサッカーと向き合いたい、どんな形でもサッカーと関わりたいと思うようになった。

 

 

 

 

 3月12日。東進の祝勝会、苑田先生の列に並びながら、ア式の先輩が勧誘してきた。「苑田先生、俺も昔並んだわー」そう言いながら渡されるア式のビラ。高校同期はそれを丁重に断りながらも、気付いたら受け取っていた自分がいた。他の3人に、「東大まで来て部活やるの?忙しくない?」という怪訝そうな視線を向けられながら、それでも自分の心は決まっていた。

 

 翌日、沼東の先生達に合格の報告をしに行った。10日が合格発表なのに、いつまでも放置していることを特に反省もしていない。担任にだけ10日にメールを送り、他の先生を放置していたら、担任から「早く顧問にも連絡しておけ。気を揉んでいるぞ。」と催促されて、慌てて顧問にLINEを送る。「ア式に勧誘されますよ」 合格を祝うとともに最後にあった一文。実際、東進で勧誘されるし、直接自分の口でも報告した時、ア式のテクニカルに入るつもりだということを伝えたら、まるで予定調和かのように星さんのLINEを送ると言われた。何だか自分は色んな人に踊らされている気がする。まあそれでもいいか。きっと縁に恵まれている。結局は自分で東大を受け、ア式に入ることを決めた。それは自信を持って言える。

 

 

 

 特別サッカーを理解しているわけでもない。分析経験なんてない。これまでただサッカーを続けてきただけの自分が果たして、先輩達と肩を並べア式の勝利に貢献できるように成長できるだろうか。不安は大きいけど、同時にこれからの自分の伸び代にワクワクもしている。

 ユニット活動もア式の魅力の大きな一つだと思う。昔から大学では、自分のできることを増やし、新しいことに挑戦したいと思っていた。それが叶えられる環境にいるのがまた恵まれていると思う。まだどのユニットに重きを置くのか決められなくて、とりあえずやりたいところ全部に首を突っ込んだ。

 

 テクニカルとしても半人前なのに、これから色々なことに手を出そうとしてキャパオーバーして、結局中途半端になってしまうのだろうか。

そうはなりたくない。

 

 

 もう好きなことから逃げたくない。

 挑戦から逃げ出したくない。

 

 

 今度こそ、巡ってくるチャンスを絶対に掴む

 

 

 中途半端では終わらない。

 やりたいこと全部、欲張ってやる。


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