イスタンブールの奇跡



今でも鮮明に覚えている。


2005年5月25日、当時9歳だった僕は今にも閉じそうな目を擦りながらテレビをつけた。欧州CLの決勝、ACミラン対リバプールだ。前半を終え、3-0でミランのリード。誰もがミランの勝利を確信していた。そんな中、ハーフタイムにスタジアムがリバプールサポーターの大合唱で包まれていた。「お前らは1人じゃない」と唄い続けていた。僕には異様な光景に写った。前半でこんだけ力の差が出てしまえば結果は見え透いていると思っていたからだ。
しかし、リバプールの選手たちは誰1人として諦めていなかった。サポーターの声援を背に後半から猛攻を開始する。そして、ジェラードのヘディングシュートを皮切りにわずか6分間で3点を決め、あっという間に試合を振り出しに戻したのだ。結局、リバプールはPK戦を制し、ヨーロッパチャンピオンとなったのだった。世に言う「イスタンブールの奇跡」である。

圧巻だった。あまりにも。興奮は止まなかった。奇跡が起こった瞬間を目の当たりにしたのだ。早朝のことだったが、眠気などどこかへ吹き飛んだ。と同時に、試合途中で結果を決めつけた自らの浅薄さを恥じた。






サッカーは本当に面白い。いや、サッカーに限らずスポーツ全体に言える話だ。勝負に勝つために日々鍛錬し、試合という戦場で双方の本気がぶつかり合う。お互い本気だからこそ、そこには数々のドラマが生まれる。そんな中で思惑通りに相手を崩しゴールを決め、勝利を得る快感は他では決して味わえないものである。

こんな経験がしたかった。イスタンブールの奇跡のような試合がしてみたかった。大逆転劇を演じたいわけではない。そういうこれ以上ない絶頂の空気の中でサッカーをしてみたかった



高1の選手権の都大会で1度だけ、似たような空気を味わうことができた。ピッチ上の22人が各々の最高のパフォーマンスをして、最早ゾーンに入った状態でサッカーをしていた。1つのパスが、1つのドリブルが、全て洗練されているものに感じるくらいに。僕の高校よりも明らかに格上の相手だったが、互角以上に戦えていた。結果負けてしまったので苦い思い出ではあるが、あのときピッチで味わった空気感と言うのは病みつきになるものだった。


何故そこまでの試合ができたのか。それは試合までの準備期間、つまり練習がこれ以上ない状態でやれていたからだ。全員がお互いに厳しく、かつ良いプレーが出たときは盛り上げる声も出た。精神論に傾倒することなく、技術的なところの拘りも欠かしていなかった。本番で最高の、いや、最高以上の状態でサッカーする為にはそれだけ練習を追い込むことが欠かせないのだと思う。




では、今の自分はどれだけできているだろう。チームはどれだけできているだろう。うまくいかないときに足を止めて他人のせいにしていないだろうかがむしゃらにやることを無思慮に肯定して考えることをやめていないだろうか。自分ができないからといって、他人に要求することを避けてはいないだろうか。球際の強さを追い求めるあまり技術への向上心が薄れてはいないだろうか。

全てを満足いくほど拘れてこそ、個人は成長し、チームは強くなり、今まで勝てなかった相手に勝てるようになる。



きっと何もかも足りていないのだろう。試合後にOBコーチに必ずといっていいほど言われているが、多分今の一人一人の中の常識を覆すくらい追い込まないと結果は出ないのだろう。そして、今の勝てていない状況で公式戦のピッチに立てていない選手は、絶望的に足りていないのだろう。言葉では分かっていても心の底からそれに気付くのは簡単なことではない。

新人戦1週間前に怪我をして、やっと巡ってきたチャンスを棒にふる可能性のある状況になった。自分以外の同期全員がこの時期にサックスのユニホームを着てピッチに立つ。正直悔しすぎて落ち着かないくらいであるが、これも今まで自分が本当に追い込んで練習できていないからだというお叱りなんだろうなと思った。甘さが怪我という結果をもたらしたのだろう。気付いてからでは後の祭りであるが、逆に怪我したからこそ自省できたこともある。今まで先輩に言われてきたことでようやく本当の意味を理解できたこともある。これをきっかけにしたい。


そして来年こそはリーグ戦に出場して絶頂の空気の中でサッカーをしたい。必ず。


いや、まだ新人戦諦めてません!
2年 藤山晃太郎

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