引き出しを開けると

僕は音楽を聴くのが好きだ。


通学中は大体好きな曲を聴くし、家にいるときも暇さえあれば音楽を流している。静かな環境にいるよりもBGMが流れていた方がなんとなく落ち着くし、元気も出てくる。








音楽の優れているところは、ある曲を聴くだけで、その曲をよく聴いていた過去の記憶が自動的に蘇ってきて、さらには感情まで伴う点だ。大袈裟に言ってしまえばタイムマシン的な効果があると思う。Superflyのタマシイレボリューションを聴けば、南アフリカW杯を思い出すし、本田圭佑のFKが入ったときの感動が蘇ってくる。ミスチルの曲を聴くと勉強ばかりしていた浪人の日々の様々な感情が湧き出てくる。音楽はトリガーとなり、僕の五感に働きかけて記憶を呼び覚ます。


  





しかしこれは音楽に限ったことではない。様々な「場所」も、同じような効果を持つ。ある場所を見て、訪ねて、滞在して。小平駅を使うたびに毎週のようにマイクロバスで茨城や千葉に遠征した小学校時代を思い出すし、テレビで長野のスキー場を見るたびに吐くほど走らされた中学の合宿を思い出すし、国立駅に来るたびに顧問に怒鳴られながらも多くのことを学べた高校3年間を思い出す。良い記憶も悪い記憶も全てその「場所」に収納され、そこに行くことによって再び僕の前に鮮明な形で現れる。引き出しが開かれるたびに今の自分を形成する過去の欠片に出会うことができる。









では、今、自分にとってア式という引き出しの中にはどのような記憶が収納されているのだろうか。いや、もっと言えば、







東大
部室
御殿下グラウンド
農学部グラウンド
御殿下ジム
荀悦
帰りの南北線
、、、










ア式での日々に関わる数えきれない「場所」の引き出しを開けると、どのような記憶が顔を出すのだろうか。









たった2年前まではただの空っぽの引き出しだった。どこにでもあるような人工芝や、無数にある地下鉄の一つでしかなかった。しかし、この2年間で多くの仲間と過ごし、先輩やOBの思いを感じ、勝って喜んだり負けて悔しい思いをしたりたくさんの経験を積む中で空っぽの引き出しではなくなった。少なからず、僕にとって特別な「場所」となった。







しかし、今は正直、空っぽだった引き出しの中には悔しさや情けなさがたくさん詰まっている。昨年の夏のアイリーグで惨敗し続けた記憶も、都リーグが始まるたびに応援することしかできない無力さを痛感させられた記憶も。もちろんこの2年間たくさん成長できたが、このままではその記憶が奥底にしまわれてしまう。







ただ、まだ1年半近くある。この1年半でどれだけ引き出しの中身を変えることができるか。結果を残し、完全燃焼できたという記憶か。それとも最後まで結果を残せずに言い訳ばかりした記憶か。どんな決意表明をしたところで結果を残せなければ良い記憶は収納されない。個人としてだけでなく、チームとしても、これだけ長い時間を共に過ごしている仲間と笑って終わりたい。ア式という「場所」がみんなにとっての良い記憶が収納される引き出しになるように。






3 藤山晃太郎

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