当たり前“かも”しれない


机の上に1個リンゴが置いてあった時、大人である私たちは、それが本当にリンゴなのかどうかなど気にせず、何の疑いもなく食べると思う。リンゴであるとわかるのなら、普通に食べる。





しかし、もし、そのリンゴはリンゴではなくて





リンゴの形をした置物かもしれなかったら__

また皮を剥いても剥いても身がない不思議な赤い果物かもしれなかったら__

また、見る方向によっては半分がリンゴで半分が梨で、違う果物に見えるかもしれない。





掘り下げていき、内面的な部分に目を向ければ、もしかすると、

本当は梨になりたかったリンゴなのかもしれない。

本当は果物になんかなりたくなかったのかもしれない。

本当は皮ではなくて、服を着たいのかもしれない。





また、果物ではあるが、このリンゴはここに来るまでにたくさんのものを見てきて、たくさんのことを経験したのかもしれない。きっと、自分よりも大人で洗練されていて__







そんな内容の絵本を読んであげた時、小さい従姉妹が、「なんで?どうして?」「本当に?」といったようなことを私に何度も聞いてきたことを思い出した。知らないことには勿論だが、知っていることにもたくさんの興味を示す。





大人になるにつれ、自然と色々な事を当たり前だと思い込み、割り切って物事を見ることが増えた。想像することが本来難しい、他者の気持ちもそうだ。





当たり前だと思っていても、相手はそう思っていなかったり、違う選択肢を持っていたりするのだが



マネージャーからトレーナーになり、沢山の人と出会い、接する中で、ア式でもたくさん、そんな経験をした。





喜びも楽しみも、辛さも苦しみも、本当は複雑な気持ちを伏せ持っているのに、当たり前だという決めつけから出された感情の結果なのかもしれないのだ。実際、この4年間で突き詰めて考えていけば、成長したことや後悔したこと、内に秘めた熱い思いだってあった。





終わったことはもうどうすることもできないが、そこから得た悔しさをバネに、引退までに成し遂げたいことがある。





それは、

「フィジカル班で選手のテーピングやマッサージを担当するトレーナーになりたいと、入部してきてくれた1年生を立派なトレーナーに育て上げること。」







同じ失敗を繰り返すことなく、残りの部活を全力で成し遂げよう。選手や他のスタッフのためにやるべきことを全力でやり、後悔なく他者に寄り添いながら終わりたい。







4 スタッフ

金内 美苗

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