嘘はついた方がいい
「島田、俺のスリッパどこにあるか知らない?」
「知らんけど、、(微笑)」
「いやいや、絶対お前知ってるじゃん」
僕はどうやら嘘をつくのが下手らしい。
そもそも本気で嘘をつこうとしていない説もあるが、動揺や笑みがガンガン顔に出るから秒でバレる。
将来、ラスベガスには行かない方が良さそうだ。所持金が綺麗な単調減少を描き、2日も経てば借金に溺れてしまうだろう。
「お前、さっきから『ハウス』ってコーチングしてね?何それ?」
「島田『ハウス』知らないの?ラテン語でブロックって意味の戦術用語だぞ。俺小3からずっと使ってるぞ」
「あ、そうなのか!でもお前、少し前までそんなに使ってなくなかった?」
そんな用語はなかった。。。
僕はどうやら嘘を見破るのが下手らしい。
まず疑おうという意識が働かなさすぎである。
将来、マルチ商法には気をつけた方がよさそうだ。1万円の水を売りつける勧誘員の追い払い方を今のうちに考えとこう。
ちなみに、彼は「コース」と言っていたようだ。シュートコースを切れとのことである。
ここで1つ大きな疑問が生じる。
『嘘をつくのが下手な』僕は『嘘を見破るのが下手な』僕に嘘をうまくつけるのだろうか?
最弱のほこ×たて対決が今ここに誕生した。
『口へんに虚』と書いてウソと読む。要するに虚偽を口で表明するということだ。「嘘つきは泥棒の始まり」という言葉があったり、イソップ童話で「オオカミが来たぞ!」と嘘つきまくって村民の信頼を失った少年がいたり、嘘はついてはいけないものだと子供は教えられる。だから、嘘をつくと人はやましいと感じるし、嘘つきに対して人は嫌悪感を覚える。
ただ、すべての嘘が、『謀略、保身など様々な目的で他人を騙すために用いられ、結果的に他人に不利益を与えるもの』ではない。例えば、『他人の利益のためにつく嘘』というものも存在する。真実を伝えるよりも虚偽を伝える方がその人のためになるとされるとき、人は虚偽を伝える場合がある。これはプラシーボ効果など医学界でも使用されているし、『悪ではない嘘』とされる。
それでは『自分に嘘をつく』というのはどういうことなのだろうか。
人は大人になるにつれ妥協するようになる。自分が1番求めるものを手に入れようとせず、あらゆる理由により2番目、それ以下のものを選んだり、何も選ばなかったりする。妥協はよく言えば現実を見る行為であるが、現実に行われているほとんどの妥協はこれに当てはまらない。1番求めるものを獲得する手段はあるのにも関わらず、それまでの過程を怠ったり、そもそもその過程を考えることもなく妥協する。このような妥協は、実現可能な願望を、実現不可能だと自分に信じ込ませる『自分に嘘をつく』行為である。
ただ他人につく嘘同様、自分につく嘘にももう1つの種類が存在する。他人につく嘘の中に『自分』と『他人』それぞれの利益のための嘘があるならば、自分につく嘘の中には『嘘をつく主体としての自分』と『嘘をつかれる客体としての自分』それぞれの利益のための嘘があるはずである。
先ほど述べたような妥協は前者にあたる。『主体としての自分』が作業を怠ったり、思考を放棄した結果、『客体としての自分』は本来獲得可能であったものを獲得できなくなってしまった。一方で後者にあたる『客体としての自分』のためにつく嘘は、『主体としての自分』の希望や意思に背くという、生理学的な行動に背反するものである。
簡単な例として、苦手な食べ物を食べるためにつく嘘があげられる。『主体としての自分』は嫌いだから食べたくないという心情により拒絶する。『客体としての自分』は食べさえすれば栄養摂取という利益を得ることができる。ここで、実はこの食べ物大好きなんだと自分に信じ込ませれば、それは『客体としての自分』のためにつく嘘になる。ちなみに僕は苦手な舞茸を食べる時、『僕は山で遭難中、空腹で死に絶えそうだがここに1つ舞茸があるではないか!』という嘘をついて食べたりしている。
最弱のほこたて決戦の敗者は『嘘を見破るのが下手な僕』である。
僕はどうやら自分に嘘をつくのは下手ではないらしい。
『客体としての自分』のために嘘をつくことはかなりの側面で役に立つと考える。
僕は大学受験時代、『客体としての自分』に嘘をつきながら勉強をしていた。部活引退直後は1日15時間以上勉強しない人は東大に受からないと自分に嘘ついた。問題を反復して解くのは大っ嫌いだったので、解いた問題を解いたことのない問題だと自分に嘘ついた。マグレでいい点数を取った時は、慢心しないようにするためにその点数をなかったと自分に嘘ついた。
人間はアイデンティティを確立しようとしがちである。将来的な自分を客観的に見ずに、自分らしさに見合った行動をしようとする。自分の特徴を1番認識しているのは自分自身であるし、それを確固たるものにしようとする訳であるから、将来の自分に最も有益になるようなアイデンティティの再構築は困難を極める。だから、自分に嘘をつくことが必要なのだ。
一度、自身が思うアイデンティティを変えてしまえば、その新しいものを確固たるものにしようという意識が自然と働くようになる。『客体としての自分』が求めるものを認識し、それを達成するために自分に嘘をつくことで、自分自身を変えることができる。
僕は小学生の時、極度のあがり症だった。サッカーの試合も水泳のテストもピアノの発表会も緊張でカチンコチンだった。もちろん緊張などしたくなかったから、そのうち自分に嘘をつくようになった。シンプルに『僕は今日から緊張できなくなった』と自分に嘘ついたり、シチュエーションに合わせて自分に嘘ついたりした。
『ここはカスピ海だ、1人で優雅に泳ごう』
『観客はみんな爆睡しているらしい』
『どうやら僕は昨日までJリーガーだったらしい』
、、、
くだらないふざけた妄想だが、あがり症の僕にはこれが必要だった。そのうち、僕のあがり症は無くなっていったし、偶にぶり返してきても簡単な嘘をつけばすぐに引っ込む。
「俺はこういうのやるキャラじゃない」とか「私はそういうのは苦手」とか自分の個性、性格、キャラクターにかまけて、『客体としての自分』への投資を怠っている人は多い。アイデンティティは自分に嘘をつくことで再構築できるものである。これを行わないで、現状に甘んじるなんてもったいない。
2019年、東大ア式は前期リーグで納得できる成果を得られなかった。
部員たちは「自分なりに頑張ろう、成長しよう、変わろう」と思っているだろう。
それではダメだ。
『自分なり』なんていらない。『自分なり』なんて変えられる。自身もチームも成長し、後期リーグそしてその先で勝ち続けるために、最も求められる自分自身を再構築すべきだ。そのために自分に嘘をつこう。嘘のつき方が分からなかったら聞いてやる。
新しい85人で後期を戦い抜こう。
4年 島田
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