備忘録

これを読んでくれている人なら大体想像がつくと思うけれども、これまで僕が生きた約20年のかなりの部分は「サッカー」と「勉強」が占めている。(とはいえ本格的に「勉強」したのは高校生の頃からだと思うが。)

もうすでに、やや詳しく僕の「サッカー」と「勉強」に関する過去については述べた気がするし、”the past is in the past”なわけなので、もう一度この20年について詳しく書くようなことはしない。

過去にすがることに意味はないとはいえ、過去を反省してそれをこれからに生かすことに一定の価値はあるはずである。ここで、僕は今までどのように考えて自分の道を決めてきたのかについて考えて、これからに生かすということをしたい。確かにこれをfeelingsに記す必要はほぼないのであるが、他にネタがないので仕方がない、「なんかこいつ一人で喋ってるな」ぐらいの感じて聞き流して(読み流して?)欲しい。



さて、僕は何を目指してきたのか、何を目指していくのかを問いたい。

先述したとおり、僕は「サッカー」と「勉強」を二本軸にして、どちらもできるだけ高いレベルでやろうということを考えて生きてきた。どちらも常に新しい世界を僕に見せてくれたし、比較的刺激のある日々を過ごしてこられたとは思っている。しかし、僕は結局何のためにこの二つをやってきたのか、これから何を目指していくのか、考えてみると正直よくわからない。

確かに僕がそれ自体を好きであるということも理由の一端としてあるけれども、心の奥底では、何か自分の中で目標を定めて、考えて、必要な努力をしてそれを達成しようと試みること、さらに可能な限り高いレベルで勝負することなどが“善い”ことなのだ、故に当然怠けてはいけない、などと考えていたのではないか。つまり「文武両道」とか「努力」というような概念に逃げていただけなのではないか。

しかし、そんな単純なはずがない。考えれば考えるほどバカらしい。
心のどこかではわかっていたのだろうけども、そもそもそのこと自体が本当に客観的に“善い”のか、評価されるべきものなのかどうかはそもそもかなり怪しい、ということにちゃんと目を向けられていなかったのではないか。目標を定め何かやっていく云々という行動も、その他の行動も、どちらもその人が望んでいる行動であるのであれば、個々人が考える“善い”ものとして同程度に認められて然るべきではないか。(もちろん絶対的に社会の中で「悪」として規定されているものもあるのは言うまでもない。)またそもそもレベルの高さとかそういったものには上限がないわけで、そうであるが故に、何か客観的な基準があると信じ込んでその中での上を目指してしまえば、いつまでも満たされない気持ちが残り続けてしまう可能性を孕んでいる。

                                                                          

ならば...



究極の自己満足として、自分の中の「善」を追求していきたい。

サッカーをするにせよ学問をするにせよ、「上」に限界はないわけなので、自分の中に価値基準、目指すべきところを設けないと果てがない。

そこで僕が目指したいのは、客観的な善(悪)の基準を前提としてそれとの迎合を目指すのではなくて、あくまで自分の中に規定された「善」を(自己満足で)達成していこうという態度である。つまり、ここでの「善」の判断には“自分”以外の介入は想定されていない。これは無論、自分のことばかり考えて周囲の人を無下にして良いという意味では全くない。「善」の基準を他者(ここでは他の人という意味ではなく、一般に自分以外という意味である)に求めるのではなく、それを自分で形作っていこうということである。一般に世間で良いとされていることだからやってみる、というのではなくて、それをするのが好きだから、この人の役に立ちたいから、褒められたいからだっていいかもしれない、とにかく何でも良いからとにかく自分がやりたいことを満足できるまでとことんやっていく。客観的に善いことだと考えていることは、実は”客観的に”善いと自分が思い込んでいることであると自覚する。

そうすれば、常に自分が納得する形で行動していけるだろうし、また自分のやりたいことについては、往々にして(「好きこそ物の上手なれ」ではないが)他のことと比べたときに、最終的に到達できる習熟度は高くなるはずなので、それを用いて周りにより多くのプラスをもたらすこともできるだろう。満たされない気持ちが残されることも(理論的には)ない。

とはいえ、例えば(当然のことながら)サッカー界やビジネスの世界で、自分の価値はあくまで他者が決めるものであるし、その評価に当たって概ね統一的な基準も決められている。ただ、その基準の中で高位に位置することが、直接的に任意の人間にとっての「善」に結びつかないことをしっかりと認識しておきたい。つまり、ある世界において、ある基準でもって高い評価をされるということは、どの人にとっても「善」いことだとは限らないはずである。結局人間が生きるということは究極的には自己満足な営みであるのだから、個々人が「善」を達成できればそれでいいのである。誰にも、他人のそれにとやかくいうような権利はない。(もちろん“「善」の押し付け”や他人の「善」に抵触する形での「善」の実現は(客観的に見ても)唾棄されるべき対象である考えているし、「自分がよければそれで良い」というような態度を肯定しようとしているわけでもない。)

そして、人によって“価値観”は違うと言われる。それを理由に、分かり合えないこともしばしばである。それは仕方がないことであるし、“全員”と分かり合える必要もない。しかし、それを理由に人をはねつけたり、ましてや下に見るようなことは無意味である。単に、個々人が異なる「善」を持ち合わせていることを認識していないという事実、無教養を露呈するだけである。こういったことをはっきりと認識しておきたい。



こうしたことを心に留めつつ、かつ特に大きな障害(obstacles)もなく、今自分の「善」を追い求められる環境にあるという贅沢を噛みしめつつ、“一歩ずつ”自分の目指す姿に向かって進んでいきたい。そしてその「善」の追求をしていく中で、これは僕の「善」の中に含まれていることでもあるのだが、(少なくとも)身近で支えてくれる仲間にプラスをもたらせるような人間になりたい。またその先に、そうした魅力的な人々に認めてもらえるような、また同様に魅力的だと思ってもらえるような、そうした人間になれる未来が待っていれば、それに越したことはない。



さて、長い「備忘録」もそろそろ終わりです。わざわざ読んでくれた方々はありがとうございました。書き終えて見て、皆さんの考える「善」、つまり目指したい姿はどのようなものなのか気になってきました。

機会があったら聞かせてくださいね。
今シーズンも頑張りましょう。



Pas à pas, on va loin.
2年 染谷大河


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