これからが、これまでを決める


本気でア式を辞めようと思った。


1月のスタートアップ合宿の数日後、右足くるぶしより少し下のあたりに原因不明の痛み。靭帯だ、長いだろうな、と直感がそう言っていた。何度目だろうか。練習を欠席し地元の病院でMRI撮影を終えて、内倉さんにLINEした。話がありますと。



テクニカルスタッフに転向してからの半年間、充実していると思う。進振りでは学びたい学問を学べる、第一志望の学部への進学が決まった。毎日課題に追われる日々でも、やりたいことなのかどうかではモチベーションも変わってくる。初めて担当したスカウティングでは劇的な形で玉川に勝利。昇格を争う上智との直接対決にも勝利。ほんのわずかであることは十分に分かっているけれど、ア式の勝利に貢献できて嬉しい。

こうした話は来年のfeelings、あるいは引退の時のfeelingsにとっておこうと思う。プレイヤーと共に、今後も数多くの歓喜を味わいたい。

feelingsは多くの部員にとって自分を見つめ直す機会になるが、自分にとっても例外ではない。一度吐き出しておく必要があった。他でもない、自分の決意のために。



初めて怪我で離脱したのは入部してすぐの6月頭頃だったと思う。打撲により肋骨にヒビが入ったかどうかみたいな、まあサッカーをやっていれば起こり得る怪我だろう。2週間くらいで復帰したが、出鼻をくじかれたな、と感じた。

が、ここからが地獄だった。

7月頭頃に右足首を捻挫した。双青戦まで2週間とかそれくらい。育成チームで、サタデーリーグに絡めていなかったから、双青戦は大きな舞台であった。そんな機会に、京都まで行って筋トレだけして帰ってくるなんて絶対に嫌だ。幸いサッカーができなくなる程重いものではなかったので、テーピングを固めて練習していると、今度は左足アキレス腱に痛みが走った。無意識に右足を庇って走っていたからであろう。90分気合でフル出場し、そのまま離脱した。

アキレス腱炎は、慢性化しやすく、なかなか治りにくいとされる怪我の一つだ。痛みが一応治るまでには2ヶ月弱の期間がかかった。高2の冬に引退し、1浪して東大に入った自分にとって、再びコンディションを戻すのには時間がかかった。痛みがぶり返すこともあった。

やっとコンディションが戻ってきたと感じていた復帰から約1ヶ月後の10月末、Aチームはリーグ戦を終え4年生は引退し、1週間のオフがあった。OBコーチも変わり、新体制の中でスタートダッシュを決めたいという強い思いから、毎日走ったり、部室に筋トレしに行ったりとフィジカルトレーニングに励んだ。

オフ前最後のトレーニングマッチで負った、打撲ですぐに良くなるだろうと思っていた右足ふくらはぎの痛みが、肉離れによるものだとわかった。12月の新人戦に出られないことがほぼ確定した。この1週間のオフ返上はただ自分の足を痛めつけているだけだったのね、いや肉離れに気づかない俺ってどうなってんの?治る頃には冬オフ?次にサッカーできるのは1月末???泣いた。


新人戦の直前に何とか復帰したものの、技術的にも、肉体的にも出場など不可能だった。全てが悔しかった。本当に本当に悔しかった。夏合宿で育成がセカンドに勝つのをピッチ脇で眺めていた時も。痛みで途中交代し、自分の代わりに入った既に引退して1年が経つ日野さんが一人で試合を変えてしまった時も。多くの試合で横で共にプレーしていた楓さんが新人戦で活躍する姿を見た時も。同じスタートラインに立っていたはずの小川原や久野が、Aチームに呼ばれた時も。


こうしてトップコンディションでサッカーに打ち込める時期がほぼないまま、ア式でのファーストシーズンが終了した。


迷いを抱えたまま冬オフに突入した。人生で初めて、将来について真剣に考えるようになった。本気でサッカーに取り組むことを盾に目を背け続けてきたことだった。日本のトップだからという希薄な理由で東大に入った。「東大で何勉強してるの?」と聞かれてもア式との両立に精一杯で、何の目標も持たず単位を確保する程度の勉強しかしてこなかった自分は、「サッカーしてるんだよね」と答えることしかできなかった。いつか必ず行き止まりにぶち当たるとわかっていながら、無心で真っ直ぐレールを敷き、その上をただ歩いてきた。

そもそも途中でレールを踏み外し、サッカーすら満足に出来なくなった自分には一体何があるというのだろうか。田所や野中、ア式の外に目を向けても、限られた4年間の中で既に将来をはっきりと見据え行動しているように見える人は大勢いた。考えても考えても何も出てこない。強い焦燥感に駆られた。ア式にいると機会損失という言葉をよく耳にするが、これはある意味で正しいと思う。とりわけ学問の機会に関しては、ア式でサッカーの楽しさを享受することとトレードオフだろう。時間には限りがある。その両方を自分を納得させる高いレベルで実現できるのは、とてつもないキャパシティを持つ人間だけだ。少なくとも自分には無理だった。

それでも、もう一度だけ目を瞑ろう。上手くなりたい。もう一度、サッカーを心から楽しみたい。縦パスやロングフィードを通す瞬間、ヘディングに競り勝つ瞬間、駆け引きに勝ってボールを刈り取る瞬間。この1年で周りに大きく差をつけられたが、またゼロからのスタートだと思って盲目的にサッカーの楽しみを享受しよう。スタートアップ合宿で何か良い感触が掴めると良いな。あれ、皆思ったより動き鈍いしめっちゃ縦パス通るな。割と俺動けてるかも。



ここでこの投稿の冒頭に戻る。もちろん、これだけ怪我していれば、怪我予防、栄養管理や体重調整についてはたくさん調べて努力してきたつもりだったし、そもそも小中高の10年以上大きな怪我などほとんどしたことがなかった。が、またしてもしてしまった。既に風前の灯火だった自信は完全に消えて無くなった。やはり1年を失ったという気持ちがあり、それを有意義なものだったと言うためには、残りの3年間で怪我と戦いながらプレイヤーとして自分が納得のできる成長を遂げ、Aチームで活躍しア式の勝利に貢献すること、これを機にア式を辞め、将来に直接的に繋がる学問や何か新しいことに挑戦すること、この二択しかないと思った。後者を選ぼうとしていた。ここから挽回できるイメージが全く湧かなかった。



三択目を選んだ。


結局、サッカーが好きで好きでたまらない自分はサッカーにしか生きられないようだ。休部中に、ついに将来やりたいことを見つけた。テクニカルスタッフは最近企業と連携してデータ分析の技術開発を試みているが、こうした動きは間違いなく自分の学問的な興味と同じ方向を向いており、リソースを活用できると思った。これまで以上に勉強に打ち込む時間を確保できると同時に、大好きなサッカーにさらに深く関わりつつ、自分が1ミリも貢献できなかったア式の勝利に貢献できる。やっぱり高校の時から憧れ続けていたア式を辞めることはどうしてもできなかった。

ボール持った時一番に俺を見てくれてるからやりやすい、お前はア式の一員だから残ってくれと真っ直ぐに言ってくれた久野、どん底だった休部中会おうぜ、遊ぼうぜと誘いつつ相談に乗ってくれた小川原や大矢、あの日、たかが一部員でしかない自分のために夜遅くまで会って真剣に話を聞いてくれた内倉さん、温かく迎え入れてくれた稲田さんを初めとするテクニカルスタッフの皆、他にもメッセージをくれた同期や先輩達、多くの人達のお陰で、自分はア式の一員なんだなと感じることができた。ア式が好きだ。

そうした経緯があったから、「自分いなくてもア式回るしなー」とボヤいていた松井が頑張って作った資料に、遼さんが見やすくて良いと言っていた時は素直に、自分のことのように嬉しかった。



本当はカッコいい文章を書きたかったが、ここまで非常に自己中心的かつ感情的で、ダサい文章を書いてきてしまった。最後に一つ、決意を書き残しておきたい。


怪我は、自分と、不運のせいだ。双青戦に無理して出場したことが負の連鎖の始まりだったと思うが、何回人生をやり直しても試合には出ていただろう。後悔はしていない。

それより、サッカーを、自分のプレイヤーとしての成長を諦めた決断を後悔することは今でも無限にある。その度に未だに治る気配のない右足靭帯の痛みを確認し、ため息をつく。自分よりはるかに怪我に苦しみながら、Aチームで結果を残している先輩はいくらでもいるのだから尚更だ。悩みに悩んだ。人生で一番悩んだ。それでも、もしかしたら一生後悔し続けるのかもしれない。



休部中、ある言葉に出会い、救われた。

「これまでがこれからを決めるのではない。これからがこれまでを決めるのだ。」

過去の選択が未来を変えるのではなく、未来の選択が過去の持つ意味を変えていくのだ。

「あの時サッカーを諦めて良かった」と笑って引退できるように、残り2年、「これまでが持つ意味」を変えてやる。絶対に。プレイヤー以上に、熱い気持ちを持って。



おが、頑張って怪我治せ

2年 木下慶悟

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