この木なんの木

松尾勇吾(3年/テクニカルスタッフ/北野高校)


久々に楽器を練習する機会があって、楽器の演奏をして何が嬉しいのか考えた。自分のイメージを表現できた。良い音がなった。人それぞれポイントがあるはずだけれども、私の中ではその一つに「ふと上手になる感覚」がある。



特段深い音楽経験があるわけではない私にとっては、新たな楽曲への挑戦は簡単ではない。まずは譜面と睨めっこし、自らのイメージをたぐりながら音を出す。やっと一通り譜面が読めたと思っても、自分の指や体は、針金が通っているかのようにまともに動かない。違うタイミングで体を動かすなど、操り人形に生まれ変わらない限り無理なのではないか。そんな状況と格闘するうちに、時が経って終了時間が訪れる。不完全燃焼のまま練習を切り上げることになるのだが、それは何とも言えない不快な気分である。



数日間練習し続けても、その嫌な感覚は残る。それでもめげずに繰り返し続けると、ある日突然、随分とましになっているではないか。指はスムーズに動くし、タイミングも掴めてきた。スラスラと演奏できはじめると、音とともに宙に浮いて流されているような気分である。地上から一気に山の中腹に上がったような感じで、さらに上も見えるし、崖にはまって停滞することもあるのだけれど、先ほどいた場所とは明らかに景色が違う。



これは個別的な体験であって、無理やり言葉にしたところで伝わるのだろうか。他者も同じような感覚をもつのかは分かりようもない。学術的には、確か手続き記憶と呼ばれるものに関連するかと思う(不正確であればご容赦いただきたい)が、何か面白い事実が既に分かっているのかもしれない。そうだったらどなたか教えてください。




と、ここまで全くア式に関係のないことを書いてしまい大変恐縮である。ただ、楽器の演奏で感じる感覚が顕著なだけであって、サッカーや勉強などでも同じ感覚に思い当たる節はある(サッカーのプレーからは長く遠ざかってしまっているが)。選手のfeelingsでもそういった記述を見かけることはあるし、外から見ていてもこの選手はこんなプレーができるようになったんだ、と気づくことがある。当人がどう思っているのかは分からないけれど。



では、私の本業(?)であるテクニカルスタッフとしてはどうなのだろう。撮影、スカウティング、振り返り、データ分析、他チームや企業との活動、、、やっていることは多岐に渡り、自分にとってその活動の魅力は相当なものがある。この2年間で、素晴らしい方々と、本当に貴重な体験をしてきた。やってきたことへの後悔はないけれど、もっとできただろうという思いは今も常々感じている。



ただ、跳ね返ってくるものは何かと言われれば答えに窮する。スカウティングがうまくいった、褒められた、サッカーの構造が分かった、などあるといえばある。サッカーが好きという純粋な感情は今も十分あるのだけれど、サッカーに熱狂的なテクニカルの皆には及ばない気がする。だとすれば、サッカーが好きという思いだけに突き動かされているのではない。私に限らず、皆が皆、常にア式で活動する喜びをはっきりと認識できるわけではないと思う。



当たり前の話ではあるが、サッカープレーヤーがいるから私たちスタッフが存在する。サッカーの試合は、選手以外のスタッフも含めたチーム同士が対戦するという事実は確かだが、サッカーを構成する主体はあくまでもプレーヤーである。だからこそ、少し言葉は悪いが、サッカーの試合における私たちの存在意義は本質的に、主体であるプレーヤーに従属する形で現れる。


存在意義が自らの中で完結できないこと。それは何ら悪いことでも否定することでもない。別にテクニカル特有の問題でもなく、大体そんなものだろう。常に自分の内なる感覚を直接的に満足させながら生きていけたらそれは実にラッキーなことだ。むしろ大半は外部との関わりの中で跳ね返ってくるものに意味を見出す。




ここで少し脱線させていただきたい。サッカーの試合をピッチ上で構成する主体は、選手以外にレフェリーがいる。最近私はレフェリーを好んで担当するようになった(それは多くの人にとって理解しがたいことらしく、奇人扱いされてしまうのは不本意である)。中学校の顧問の先生が審判活動をされていて、その姿が素直にかっこいいなと思ったのが初めで、以来レフェリーの役割にポジティブな印象と、リスペクトの念を持っていた。大学に入ると、ア式に関わる試合もそうだし、プロの試合も見る機会が増えて、レフェリーの重要性はより大きいことに気づく。その笛と言葉、身振り手振りで、試合をマネジメントしていて、そのパフォーマンスによって試合の内容は大きく変わりうる。私もア式の試合では判定に文句を言ってしまうことがあるが、選手とは異なる役割から試合を作り上げる主体であって、選手と同様に尊重されるべき人物である。



自分がそのようなレフェリーの役割を担いたいという気持ちも全くない訳ではないが、何しろ素人の域を出ない。むしろ、ただただピッチの中でプレーを観られるのが嬉しいという気持ちが強い。テクニカルスタッフは、俯瞰した位置から試合を見ることがほとんどであって、それはそれでとても重要なのだが、ピッチ上での感覚は上から見たそれとは異なる。選手はどんな視野の中で、どんな認知的負荷を負ってプレーしているのか。プレースピードはどうなのか。チームや選手に物を言う立場として、情報の粒度を上げるために、必要なことではないかと思っている。別にレフェリーをやらずとも他の手段はあるのだが。




これはふと誘惑に駆られて書いた完全なる蛇足であった。本筋に戻ることにする。



シーズン始まりのテクニカル向けアンケートにはこんな項目があった。


テクニカルユニットの活動のどんな部分に意義またはやりがいを感じますか?(例:選手へのフィードバック、スカウティングした試合で勝った瞬間 etc)


答えの大半は、「スカウティングが当たってチームが勝つこと」「選手に認められること」に集約された(例示のせいで誘導尋問になっている気もする)。もちろん十人十色にやりがいがあって、テクニカルの活動はア式の練習や試合が直接的な対象のものだけではない。それでもチームの勝利に貢献したいという気持ちが一番にくることに、驚きはないけれど、皆の気持ちは同じなのだと実感した。やはりア式が勝つことはテクニカルの一番の喜びである。ここが揺らぐことはない。



テクニカルの存在意義の一つが「チームの勝利に貢献する」ことであるのは明確だ。しかし、もう一歩踏み込んで、「なぜア式で活動するか」という問いについては、選手スタッフ問わず部員全員が一度はfeelingsに書き残しているのではないかというぐらい頻出するテーマである。そうである理由には、一般的に考えられる部活動の第一の目的、すなわち「(サッカーチームの)勝利への追求」が多くの人にとって、勉強・学問、あるいは今後のキャリアという、(学生として)優先されるべきだと思われるものとはどうしても結びつきがたいということが大きく関わっているように思う。他に何らかの理由づけがないと、正当化できない部分は少なからずある。



2年前の入部当初、烏滸がましくも、ア式は過渡期、あるいは変革期を迎えているのだなと感じた記憶がある。100年以上のア式の歴史の中で、たった2年ほどしか知らないけれど、その状況は目まぐるしく変化し続けていて、数年前とは随分異なっているのではないかと想像する。その変化の中で、ア式にいる意味づけは多様になり、より充実したものにできる環境になっているのではないかと思う。選手、スタッフそれぞれの立場によって異なるのは重々承知だが、少なくとも個人的には(他のことではなく)部活をやっていることへの引け目はなく、胸を張っていられる(と言いたい)。



とは言いつつも、これまでの2年間は正直なところ、ア式で活動していることに満足しながらも、本当にそれで良いのかという迷いを常に持ち合わせていた。他にも無数に選択肢はあるはずではないかと。昨年度のシーズンオフはよくよく頭の中で考えた。



自分にとって置いていきたくないこと、これからの人生で待ち受けていること。

そして東大ア式テクニカルが向かう未来について。



「どの口がどの立場で言ってんねん」と言われればそれまでだが、一度は突き詰めて考えなければいけないと思った。



そんなオフ期間を経て、私は覚悟を持って新シーズンを迎えた。ア式内でもそうだし、学部進学も重なって、今までとは大きく異なる生活になった。大変なことは増えたけれど、それは以前にも増して刺激的で、充実した毎日である。毎週末訪れるリーグ戦、サタデーリーグ。「待っているのは、最高の週末だ」というのは少し古いキャッチコピーになってしまったが、ファンとしてだけではなく、一緒に勝利を掴み取るチームの一員として試合を迎えられるのはこの上なく幸せなことである。



最近はありがたいことに、ア式の外の様々な方面で活躍されている方々とお話しする機会が増えた。チームの一員としてサッカーに関わる方、社会からサッカーに関わる方、あるいは違うスポーツに関わる方。ア式の外から見た視点というのは否が応でも抜け落ちていて、そういった方々とお話しすると、いま私たちが置かれている状況というのが見えてくる。



詳細を書き出すときりがないが、言えるのは、先代方が積み上げてきたものは一般的にも評価されうる水準にあるということ。逆に、できていなくてもったいないことや質的な課題も山のようにあるということ。




東大ア式テクニカルは、10年ほど前に発足したそうだ。先人たちが蒔いた種から芽が出て、その時々の並々ならぬ努力によって急速に成長し、一つの自立した木となって現れている。最近は人の目を引くほどの花や実が微かに見えてきたのではないかと自負する。



この木を大事にしたい。

そのために、10人以上もいるテクニカルの中で、自分ができることは何か。

枝を伸ばし、実を収穫するのも大事である。ただこれは優秀な仲間たちの力によってどこまでも進み続けるだろう。



その一方で、

根を地中にしっかりと張らせて、太い幹を作り上げる。そしてあわよくば、偉大な先人たちのように、将来に向けた種を蒔く。



日々考える中で、残り短い時間でできることは限られるけれど、少しでもこうしたところにも目を向けて力を添えられれば良いなと結論づけた。無論、これは私一人で行うわけではなく、テクニカル全員で実行していくことである。



少し抽象的に理想を述べてみたけれど、現実はそう簡単ではない。活動に関われば関わるほど、やりたいことはどんどん増えるが、自分が持つ能力には限界がある。ア式にはフルタイムで活動したいと思えるほどの魅力があるけれど、実際にはかけられる時間に限りがある。



1年生の頃、テクニカル全体のmtgで生意気にも、(キャパ的に)できもしないことをやろうとするな、期限を守れといった意味合いの言葉を発して(もちろん分厚いオブラートに包んだはず)顰蹙を買ったことを覚えている。今でも考えが変わったわけではないが、大きなブーメランとなって自分に降りかかる毎日である。現在は以前にも増してタスクを放置してしまったり、やることの質も落としてしまったりして各方面に迷惑をかけている。この場を借りてお詫びします。申し訳ありません。何も言わずにフォローしてくださる方々には感謝の気持ちでいっぱいです。

(現にこのfeelingsも提出を待っていただいた。責めるどころか励ましの言葉をくれたKさんに感謝します。)



けれど、甘えたことは言っていられず、決然として抱いた覚悟と責任は守り抜かなければならない。早くも踏ん張りどころである。こんな中で、どのような心持ちでいれば良いのだろうか。ここで自分の中で大事にしたいと思っている、あるエッセイの一節を引用させていただきたい。


芸術とは現状を肯定することでなく、世界や人間の別のあり方を断固として夢見ることだ。夢見ることには気力も知力も体力もいる。夢見ることをやめてしまったら、ただただ現状に飲み込まれてしまう。


(中略)


世界とは、凹凸していて、濃淡があり、固定せずにたえず動いている。世界の実相とはそういう状態だ。ダイバーが潜る深い海がどうなっているか、潜ったダイバー本人でなければ感じられないことがいっぱいあるのと同じように、世界・自然・時間・人間…… etc. これらも、自分の気持ちを対象に向かって一歩も近づけないような怠惰な人には何もわからない。道元は、悟りは一度悟ってもすぐに元に戻ってしまうから、修行を続けて何度でも悟らなければならないと言った。というこの言葉をもちろん私は道元の解説書で読んだだけだが、精神の状態というのは悟りでなくてもこのとおりで、一つをクリアしたからそれは一生大丈夫というものでは全然ない。たえずそっちに気持ちを向けて努力していなければ、人はすぐに日常を覆っている思考様式に逆戻りしてしまう。

(保坂和志著 『魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない』pp.213-215 より)


筆者の意図を汲み取れているか分からない中で引用するのは気がとがめるのだが、それを差し置いてでも、この言葉には強い力を感じている。嵐のように過ぎ去る日々の中では、つい流れに身を任せて過ごしてしまう。しかし、上記の思いを実現するために、そしてア式の悲願である関東リーグ昇格を達成するために、絶えず心を燃やし、「断固として夢見る」ことを続けなければならない。



そしてもう一つ、これはテクニカルの大先輩の方々が、テクニカルが大事にすべきこととして伝承なさった文言である。


「選手に感謝すること」


この精神は私がテクニカルスタッフとして活動する中で、忘れてはいけないと思っている。サッカーの主体たるプレーヤーあってこそのア式である。真剣にサッカーに取り組むプレーヤーがいるから、テクニカルが活動できる。そのことを常に自覚し、リスペクトの気持ちを持っていなければならない。



一方で、プレッシャーをかける意図は全くないけれど、プレーをしない私は、選手のプレーに自分の気持ちを乗せています。試合での勝利、その先にあるリーグ戦優勝、関東リーグ昇格という、決して自分の力では成し遂げられない夢を選手に託しています。ちょっと乱暴だし差し出がましいのですが、もし自分が選手にできることを最大限やったといえる時が来るなら、最後はここに尽きると思っています。




無心に筆を進めてきたけれど、日々の中でふと頭に浮かんで書き留めたことを繋ぎ合わせただけなので、当初の構想とは違う気もするし、話の筋道は全く通っていない。何か明確な答えが出たわけでもない。できもしないのに虚栄心からつい背伸びして言葉を選び、大げさなことを書きすぎたような気もする。ただ、気が乗らないながらもfeelingsに取り組むことは、自分だけが読む文章と違って、自分が何を考えたいのか、ア式の中でどうありたいのかが整理される良い機会だったのは確かだ。また、私はあまり言葉を発しない性分だから(改善に努めます)、どこかで発信する意味は多少あるのだろうし、そのためにfeelingsが存在するのだと思う。(確かfeelingsは「部員同士のコミュニケーションの場」でもあったはずだ)



もちろん、ここに記した気持ちに偽りはないし、これは少し遅めの決意表明や自戒のようなものでもあって、後から見返した時に後悔ではなく納得感があれば良いのではないかと考えている。その納得感というのは、すぐに到達できなくとも、長い時間が経ってふと気づく、ずっと高い木の上から見た、誰も見たことのない眺めであるはずだ。

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