命短し恋せよ乙女、登る南の裸猿

上西園亮(4年/MF/ラ・サール高校)


feelingsを書かねばならない。非常に億劫な話である

大学2年時よりア式に入部したため、僕はア式の同期(それ即ち混乱することに、大学においては1学年下ということになる)より一年早く卒部しなければならない。活動期間は3年間。入部と共に卒部が見えていた。まるで、老人の姿で生まれてきたベンジャミン・バトンが、他とは違った数奇な一生を送ったように。

皆よりも短いア式生活。そう考えると少しだけ、ほんの少しだけfeelingsにも愛しさを感じてしまう。元来、feelingsを読むこと自体は好きである。

 

思い返せばア式入部1年目(つまりは大学2年)の11月頃、初めて書かされたfeelingsがツイッターにて1000ほどのイイネを貰ってからというもの、周囲の僕に対する期待は尋常でないものになってしまった。50イイネ行けば御の字という世界にあって、大きすぎる数である。

 

しかし、蝶が舞い鳥がさえずる、そんな芳しい花畑のようなおめでたい脳みそに僕は生まれていない。これでも、数多ある選択肢の中から大学進学という無難な道を選んだ男だ。そんなバズが一過性のものに過ぎないことなど良く分かっている。

だが一方で、あれだけのイイネを貰った当初、伸びあがった鼻は山より高く、上気した顔は夜空に光るアンタレスよりも赤く煌々と輝いていた。足には下駄を履き、背中には翼が生え、まるで遥かな空の高みから地上を見下ろしているかのような心地であったことも否定はしない。

 

その姿はさながら天狗であった。

 

人外となった私は野を越え山を越え、空を駆けては地中に潜り、世界の理を探求する旅に出かけたかと思えば、あくる日には炭酸の抜けきったコーラをごくごくと喉の隅々まで行き渡らせた。

そうして永遠に思われた数日の極楽を経てふと思う。

 

かつて日本中にその名を轟かせた英雄たちは一体どこへ行ったのだろう。

 

ムーディ勝山、楽しんご。8.6秒バズーカに、日本エレキテル連合。ピスタチオ、クマムシ、ひょっこりはん。

 

 正に時の人であった彼らはどこへやら。与えられた称号は一発屋。果たして令和生まれの子供たちに彼らの勇名が轟くことは有るのだろうか。私だけでも語り継ごう。そう決意すると私の顔は平静さを取り戻し、翼も消え去ったかと思えば、足元にはクロックスが転がっていた。

 

 

 現在は日々粛々と品行方正を絵に描いたような暮らしをしているわけであるが、果たして自分はfeelings2作目において何を書きたいのであろう。文字を打つ手は少々止まる。そして独り暮らす雑然とした空間を見回す。

 

白を基調とした狭い部屋には脱いだ衣服が放り出され、山積みになった漫画と教科書の上にはうっすらと埃が積もっている。シンクには未だ洗われぬ食器が重ねられ、寿命の切れた電球はいつまで経っても天井に付いたまま。挙句の果てには、先日獲得されたおさるのジョージが僕にウィンクを向けてくる。ペロリと出された舌を引きちぎってやろうかとも思うが、結局のところカワイイは正義である。50㎝は優に超える巨大な猿のぬいぐるみなんぞ、ゲームセンターから持ち帰った時点で捨てることのできぬ運命にあったのだ。いつまでも一緒に居るとここに誓おう。

 

 重ねられた小説。落書きだらけのホワイトボード。映らなくなったテレビ。小さく、そして歪んだ茶色の机。

 

再度feelingsに思いを馳せる。古の時代へと思いを馳せる。そうしてまた、ふと思う。

洋の東西を問わず、我々人類にとって最重要課題とはすなわち、己とは何かであった。その点において、ソクラテスもデカルトも、孔子も西田幾多郎も、そしてこの僕自身にもなんら変わりは無いのである。

 ならば書くことは1つであろう。結局のところfeelingsとは、自分を見つめなおし、それを言語化する事でしか書き進めることのできない、そういった七面倒くさい事象なのである。

世の中の凡そ殆どは時間が解決してくれるものだが、目を逸らしているだけでは、或いは逃げているだけではどうにもならない事も時には存在する。もう一度、道を進まなければならない時も確かにある。進んでみれば案外どうにかなるものだ。もしかすると、ひょっとすると、見落としていたものが見えるかもしれない。見えなかったものが見えるかもしれない。

大切なのは向き合うこと。簡単ではない。しかし、向き合うことに向き合わなければならないのだ。『老人と海』の腕相撲のように。或いはカジキを離さなかったサンチャゴのように。そして或いは、『タイムマシン』で主人公が未来、過去、そして現在を行き来したように。

残念ながら、僕の文章はヘミングウェイやH.G.ウェルズのように社会に訴えかけるものになりはしない。それでも誰かに届くだろう。届き先は僕の知人であるかもしれないし、そうでないかもしれない。自分自身に届くものであるのかもしれない。そんなことは誰にも分からないし、分からなくて良いのである。ただ徒然なるままに書き連ねてゆく。いつか誰かに届くと信じて。

どこまでも続く、縦に伸びる赤と緑を目にしたとき、何を思うだろう。何かを想うのだろう。GUCCIのシェリーライン。『ノルウェイの森』。リヴァプール。世界とは三者三様、十人十色、千差万別である。森羅万象は万里に通じ、同時にただの1ミクロンも表現しない。

 

岩鼻や ここにもひとり 月の客

 

 『去来抄』に載せられたこの歌然り。作者本人にさえ分からぬ本意があるものだ。

 

予め断っておこう。僕の文章は乱雑であり、混沌であり、滅茶苦茶であり、そして支離滅裂となるように運命づけられている。それは、先に書いたfeelingsにおいて「長すぎて途中で読むのを止めた」とわざわざ引用RTが為されたり、実の母親をして「長すぎて途中で読むのを止めた」と言わしめたりしたことでも明らかであろう。個人的に敬愛してやまぬ司馬遼太郎や村上春樹、森見登美彦や湊かなえに並ぶ文章を書きたいと思ってはいるが、それにはどうやら知識も経験も、或いはユーモアも教養も、そして悲しいことに想像力さえも足りていないようである。

河童が川に流され、猿が木から落ち、弘法が筆を誤る。そんな言葉、僕には似合わない。猿猴捉月、蟷螂之斧。高望みなんて求めていない。ただ自分らしく、自分の人生を生きていく。そんな僕の書いたものは自然を通り越し、もはや不自然。ねじ曲がり捻くれた、そんな冗長な駄文をここに記そう。残すとしよう。

それでも先に進んでくれる我が愛すべき同志たちへ。読み進めてくれる心の友へ。或いは幾多の人々に見捨てられた僕の前作を幾度も読んでくれた人々へ。ありがとう。あなた方に神の祝福のあらんことを。また或いは、その未来に幸あらんことを。

 

 

  今から遡ること22年、西暦2000年の814日。立秋と処暑の狭間とは名ばかりの、陽炎揺らめき、蝉たちは踊る、正に猛暑と呼ぶにふさわしい中で私は誕生した。薩摩半島南端にて産声を上げた我が人生は、世界から祝福を以て迎えられた。大日本帝国のポツダム宣言受諾通達を以て終焉した第二次世界大戦からちょうど55年、二度の世界大戦に加え、東西冷戦等を経験した20世紀が終わろうとする年であった。

 平和の象徴として神からその生命を授けられた私であったが、その誕生の地もやはり神より定められし平和の地であった。

 その地の名は指宿。世界で最も平和な町。東洋のハワイを自称する温泉国家である。

イッシー伝説、竜宮伝説、それに加えてお化けトンネル。果たして平和に蕩けた頭以外の何によってこれらが生み出されると言うのであろう。

 

と、この様にして我が愛する指宿について長々と語っていこうかと思ったのだが、余りにも文章量が多くなってしまったため泣く泣く割愛することとする。

それに、天文学的文字数で只ひたすらに魅力を余す所無く書き連ねてゆくのは簡単だが、百聞は一見に如かずの諺通り、結局のところ指宿の魅力は行ったものにしか分からぬだろう。

自らの足で指宿の地を踏みしめ、自らの肺で指宿の空気を吸い込み、自らの目で指宿の景色に見惚れてほしい。耳をすませば聞こえてくるだろう。僕たちの愛する、陽気で粗雑な鹿児島弁が。僕が幾ら書き記そうとも伝えられない全てがそこにはある。

 

 話を僕の成長譚へと戻す。即ち本筋である。

指宿の地にて健やかに成長した僕は、人見知りを克服させるという父の方針の下、3つの幼稚園・保育園を渡り歩き、小学校へと入学した。

幼少期に関して様々な思い出が浮かび上がっては来るものの、やはり最も強烈なのはトイレを詰まらせて保育園の便所を水浸しにしてしまった事であろうか。それからというもの、私は事あるごとに腹痛に悩まされ、以来十数年にわたるMr.ブラウンとの仁義なき戦いが始まるのだが、その話もまたここでするには相応しくないであろう。

ちなみに、初めてサッカーボールに触れた記憶も幼稚園まで遡る。お団子サッカーをしていただけであったが、サッカーの魅力などそれだけで伝わってしまうものである。僕のサッカー人生は幼稚園でのお団子サッカーに端を発しているのだ。

 

 

 早々に小学校へと進む。

 

僕の通った小学校も多分に漏れず、鹿児島県に散在する他の小学校と同じように、学校独自の教訓を校舎にでかでかと貼り付けていた。

僕の学校におけるそれは「元気・覇気・根気」である。在校生はその教えを忠実に守った。入学と共に始まった戦いごっこはその学年のヒエラルキー形成において重要な役割を果たした。「元気・覇気・根気」のある者たちがその頂点へと駆け上がっていく様は、正に学校の求める姿そのものであった。元気の無い者は淘汰され、根気の無い者は淘汰され、覇気の無い者は淘汰されていった。その姿は、明治維新を駆け抜けた薩摩武士を彷彿とさせ、関ケ原の戦いにおいて敵中突破を見せつけた薩摩隼人を思い起こさせた。

時には、ヒエラルキーに反旗を翻し、己の拳にて戦えという唯一にして絶対であった鉄の掟を破り武器を持ち出す者もいたが、大雨の中行われた築山での決闘を最後に、遂に我々の学年にも平和が訪れた。

 他校との諍いや学級崩壊など他にも大小様々な事件があったとは言え、概ね平和であった僕の小学校生活は、しかし、振り返ってみると何だか怒られ続けていた。他の追随を許さぬ格段の悪さをしていたわけではない。授業には積極的に参加し、誰とでも仲良くし、宿題だって誰よりも真面目にやっていた。亮だけは裏切らないと、戦乱渦巻く小学生社会に於いて確かな信頼と実績を築いていたし、少しのユーモアと無邪気さが売りであった僕は総じて可愛らしい小学校生活を送っていたが、運だけは悪かった。窓から飛び降りれば僕だけ見つかり、どこかに忍び込めば僕だけ見つかった。あの恐ろしい立入禁止室に閉じ込められ中々グレーな怒られ方をされていたのも、古き良き昭和の残滓であったのだと1人密かに微笑む現在である。

 

小学生と言えば秘密基地を作るのが人類の歴史を紐解く限り至極当然の決定事項の様に思われる。その数多ある秘密基地の中でも僕たちのものは中々な出来であった。『20世紀少年』においてケンヂ達が作ったような立派な草の秘密基地や、なんだか良く分からない奥地に潜む廃工場を利用した秘密基地、橋の下に作られた絶対に見つからぬ川沿いの秘密基地、巨大な廃病院秘密基地。他にも様々な秘密基地が各地に建造され、僕たちは合言葉を決め、好きな時、好きな場所に集まった。

秘密基地ですることは毎日違った。ある時は探検を強行し傷だらけになり、ある時はひたすらDSを弄り続け、ある時は日が暮れても語り合った。ある時は駄菓子屋の婆さんとの値段交渉成功に酔いしれ、ある時はエアガンを巡って戦争が起きた。

幸せで、刺激に満ちた小学校生活も、しかし永遠には続かない。父親、市役所職員、先生。様々な大人たちからひたすら走って逃げ続けるうちに、気付けば中学生となっていた。

 

 

中学校は私立ラ・サール学園へ進学することとなったのだが、今も昔も指宿において中学受験をするなど正気の沙汰ではない。この陸の孤島においては皆、同じ公立中学校に進むものだからである。

しかし残念なことに、僕の家は普通ではなかった。一般的な思考から逸脱していたようだ。

小さい頃から勉強ができた僕に目を付けた父は謎の激ムズドリルを渡してきた。

そして、あまりの難しさに泣き叫ぶ僕に対し「解けないなら解かなくていい」と言い放つのである。

嗚呼、悲しきかな我が人生。負けず嫌い、かつ天邪鬼な性格を父に利用され、涙で紙を濡らしながら解き進める。

流した涙は枕を浮かせ、遂にはベッドも浮かせたほどであった。それでも涙が止まることは無く、天界にまで僕を突き上げた。天界とはかくも美しき所なのかと思う間もなく、積もった涙は脆くも崩れ、下界に降り注ぐ雨となる。そうして雨に誘われ僕も地上へ舞い戻る。

 

そんな日々を幾らか過ごした後、気付けば往復3時間かかる塾へと通っていた。

 

 

おかしな話である。

 

 

小4の時、サッカーを始めたいと母に直談判したところ、それならば鹿児島市の塾に入れと言われたのである。

まぁ、電車に乗るのは嫌いではない。その時間で好きな本が読めるし、なにより、田舎の電車に小学生が一人で乗るのは物珍しいため、ジジババやお姉さんたちに優しくしてもらえた。

サッカーができるならば塾に入ってやっても良いだろうと思い母にその旨を伝えると、なぜお前は塾に入りたいのかと問われた。

 

驚天動地とは正にこのことであった。天地開闢以来こんな馬鹿げた質問があっただろうか。古代中国の歴史書に出てくる愚王達でさえもう少しまともな質問をしたであろう。別に塾に入りたいのではない。ただサッカーがしたいのだ。

 

しかし、これも僕の性格を利用した作戦であったのかもしれない。いや、そう信じたい。ともかく、その時の宣言により僕の退路は断たれ、中学受験という蛇道とも呼ぶべき邪道へと足を踏み入れることとなった。

 

つまる所、私の実の父母は怪物であると、その様に書いてしまったわけであるが、その汚名は返上しておこう。これでも『論語』を読むのを日課として過ごした時期を有する男である。「仁義礼智信」は私の口癖であり、初めて発した言葉は「吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順い、七十にして心の欲する所に従いての利矩を踰えず」であった。

父母に対する礼は尽くすに越したことは無いし、何より父母のことは好きである。塾だって結局のところ楽しかった。今まで黙っていたが結構サボって遊び散らしていたので苦は無かった。小さな指宿では出会うことの無かった勉強について語り合える友達が出来たのも今となっては良かったのかもしれない。

 

 

元来僕はあまり人の言葉を覚えていられる人間ではない。しかし、それでも我が両親の言葉はそれぞれ1つずつ、金言として記憶に留めているものがある。

それらを通じて我が両親の素晴らしさも伝えることとしよう。

 

例えば母のそれは「貰える時は貰っておけ」であった。

私の母は常に直接的で行動力に溢れた人であった。何かしらの問題が発生した時、解決法を見つけてから行動する人間と、行動しながら解決法を見つける人間が世の中には存在するが、母は紛うことなき後者であった。その行動は常に単純明快であり、直接簡明であった。我々一家にとって母は常に行動の指針であり、荒れ狂う海における灯台であった。

あまりの素早さにしばしば音をも置き去りにする彼女の言葉はどうやら私の耳にしっかり届き、そうして私の胸にしっかり刻まれ今に至る。しかし、「要らぬ遠慮をするな」というメッセージの込められたその言葉は、頭ではなく胸に辿り着いてしまったがために実体無き怪物となってしまった。

恥ずかしいことに、先日ボールを蹴るためグラウンドに辿り着いた私の体が身に付けていたものは下着以外全て貰い物であった。

そう。私は紛う事なき乞食と成り果てたのである。

まぁ人生はまだまだ長い。時間をかけてこの金言を真の価値有るものにしていけば良い。

 

父の話に移る。

この記念すべき第2作目がもはや取り返しのつかぬ所まで曲がりくねった道を歩み始めているのには目を瞑る。どうやらこのfeelingsは母のようなまっすぐなものにはできないらしい。父のように捻くれたものになるようだ。

生粋の天邪鬼であり、どうしようもなく偏屈であった父の残した言葉は「俺は反面教師だ」であった。

美味しいものを食べた時、彼はまるで苦虫を嚙み潰したかのような表情を作った。その人生の9割9分9厘までを九州の南端にて過ごす男が、周りには誰も話す者のない標準語を喋り、マクドナルドをマクドと略した。面白い映画を観れば「あまり面白くなかった」と評価を下し、嫌がらせのようにテレビやエアコンの電源を切った。

そこにはしかし一貫性があった。人の求めることは絶対にせず、嫌がることを必ずしたがった。なればこそ彼は反面教師たりえた。困った時、私は父がするであろうことを思い浮かべ、その真逆をすれば自ずと答えに導かれた。正しいことをした際、その真逆にはいつだって彼が居た。

 とどのつまり彼は只の面倒くさい男である。母を頂点とする家庭内序列において私、弟、妹の間に飼い猫2匹を挟み、母からの謎の全幅の信頼でもってどうにかこうにか第7位に位置している彼だが、しかし子煩悩ではあるようで、そこだけは私も正当に見習うべきところではあるのだろう。

強いて言えば、かつては読書家であったことも尊敬できるところではあるかもしれない。私の人生において読書とは大切な物として比重が大きいものであるが、その土台は父によるものが大きいことは間違いない。

 

 

まぁ、兎にも角にも私は父母を愛してやまないという話である。彼らは私に様々な自由を与え、その行動の一切を容認してくれた。決して私を拘束せず、決して私に無理強いしなかった。私には常に一定の自由裁量権が存在していた。

それに、これ以上自身の父母について深堀りしたとてどうしようもない。父の猿捕り物語や、弟の大麻摘発半分丸刈り事件、財布も持たず2人の兄についてくる妹、家庭内相撲大会など、面白い話には事欠かない我が家であると自負してはいるが、如何せんそれを文章で書く気力も体力も、ましてや余力も無い。省略ばかりで申し訳ない気もするが、誰もその様な話を求めていない気も十二分にするため、大人しくfeelingsを先に進めることにする。

 

 中学入学から父母の話へと飛び、またここへと戻ってきたわけであるが、ラ・サールでの6年間については多くを語るまい。人格破綻者の巣窟として鹿児島市全域に悪名を轟かすラ・サールでの生活は、小学校時代に培った僕の博愛主義・平和主義・共存主義など、あらゆる協調性に繋がる要素を滅茶苦茶に打ち壊した。

 男だらけのラ・サール生活。確かに楽しい6年間であった。その光り輝く黄金の思い出は、しかしながら同時に猛毒を含む鈍くくすんだ思い出であった。ある者はその毒に頭をやられ、ある者はその毒に心をやられた。ラ・サールに関わったが最後、我々は一生ラ・サールからは逃れられない。我々にとってラ・サールとは大空に羽ばたくための翼であり、大地に縛り付ける鎖なのである。

 ラ・サール中学に入学してすぐ。12歳の僕があの日見た、校庭のど真ん中を悠然と歩く二人の高校生。彼らを目にしたとき覚悟を決めた。彼らが身に付けているのは1枚の下着とサングラス、ただそれのみであった。その衝撃は時空を超えて鮮明に蘇る。先輩方、ありがとうございました。僕の人生はあの時を以て終わり、そして始まりました。これからも精一杯生きていきたいと思います。

 

 

 ラ・サール、ひいてはラ・サールサッカー部を卒業してからの僕は、浪人期、ニート期を経て東京大学運動会ア式蹴球部入部へと繋がるが、その間も何だかんだサッカーをしていた。

 

 浪人期は特にサッカーに熱中していた。鹿児島を出て福岡の予備校に入塾すると、そこにはサッカー好きな奴らが沢山いた。僕たちは授業をサボってサッカーをし、サッカーをするために早起きをした。

 

 ニート期、即ち大学1年の頃。ア式に入らずぶらぶらしていた時だってサッカーしていた。一人暮らしの部屋には真新しいサッカーボールを置いていたし、鹿児島の実家から東京へと愛用スパイクも持ってきていた。どうしようもなく暇な時、体を動かしたい時、僕はボールと戯れた。サッカーは僕にとって心地よい暇潰しだった。

 「人生の夏休み」と表現される大学生活。それを大真面目に信じた私にとって、上京してからの日々は正に小学生の頃の夏休みであった。すなわち暇であった。

そもそも大学生とは、「暇を持て余した猿の総称。容姿は人間の様であるが、その実、中身は空洞に等しく、どの様にして時間を消費するか大真面目に考えているうちに4年が過ぎる。」と広辞苑にも載っていた。そんな気もする。

僕だって例外ではなかった。その日1番の思い出が、“1円玉の直径ほどもある鼻毛が抜けたこと”だった日もあった。

 

どうしようもない退屈な日々。

暇で暇でしょうがない、いつもと同じ日々。

けれど二度と来ない、かけがえの無い、いつだって大切な、そんな日常。

 

面白くもない授業を受けるため友達と駅で待ち合わせ、大して真面目に聞きもしなかったくせに講義の文句を空に向かって大声で叫ぶ。

際限もなくだらだら話しているとお腹が空いてくる。そうだ下北沢にでも行こう。お金も無いし、暇だもの。歩いて行こう。

下北沢に到着。でも特に行きたい店も無い。どこが美味しいのかも良く分からない。いつものラーメン屋に入るとしよう。

流れる時にその身を任せ、過ぎ去る時に別れを告げる。平々凡々何気ない日々を過ごし、気付けば夜も更け朝日が昇る。

その日のことは起きてから考えればいい。朝ご飯は何にしよう。布団からはいつ出よう。大学はどうしよう。皆は今何をしてるんだろう。暇だから少し外に出よう。やっぱり今日は本を読もう。終電を逃した。始発まで騒ごう。夏の熱帯夜、冬の寒空。春の心地よい風、秋の綺麗な夕暮れ。

 

ア式入部1年目は、中々な地獄を味合わせてもらった。

ほとんど3年間まともに体を動かしていなかったのに突然サッカーを始めたのである。僕の体は悲鳴を上げた。

 サッカーが上手いのならばまだ良かった。肉体的に付いていけないだけなら、そんなもの苦でも何でもない。だが如何せん、僕の技術は拙いもので、それはそれは筆舌に尽くし難いものであった。

ましてや戦術理解など限りなく0に等しかった。いや、ここで見栄を張るのはよそう。誇張抜きに0であった。

 

 誰が見ても劣った男がポツンと1人。曇りの日でもぶっ倒れ、ボールもどこかへぶっ飛ばす。毎日聞こえるため息と怒号。

 

あいつは一体何をしているんだろう。

あいつは一体何がしたいんだろう。

お前は一体何がしたいんだ?

お前は一体何をしているんだ?

 

「やる気あんの?」

「お前が皆の足引っ張ってんの分かってる?」

「下手過ぎだろ」

 

耳が腐るほど聞いた言葉。自分でも分かっていた事実。分かりきっていた現実。

 

僕が高3の頃に憧れ、浪人しながら胸ときめかせ、大学1年の時に応援していたア式において、僕という存在は余りにも非力だった。

 

チワワがドーベルマンに憧れてしまった。

田舎のネズミが都会のネズミに憧れてしまった。

モグラが陽の光を求めてしまった。

 

周りとのレベル差に打ちひしがれ、自信を喪失していく毎日。それまでのぬるま湯に浸かった様な日々に恋焦がれ、選択を誤ったことに後悔する毎日。

明日もまた練習か。明後日は試合か。

サッカーと向き合う毎日。弱い自分と向き合う毎日。見たくもないのに、目を閉じることは決して許されない毎日。

 

そんな鬱々とした日々を送る毎日。気付けばア式が嫌になっていた。あんなに憧れたア式が、あんなにも輝いていたア式が、もう何でもないものになっていた。僕にとってア式は僕を苦しめるもの以外の何物でもなくなっていた。僕はサッカーを楽しめなくなっていた。

 

 

 

 

と、そうはならないのが僕である。いや、そのままで終わらせないのが僕である。こんなの只の妄想である。なんてったって僕の座右の銘は

「やるからにはやってやんよ」

「見とけよ、いつかぶっ飛ばす」

2つである。

自分が下手なのを指摘されて落ち込む?

自分を否定されて絶望する?

自分の都合の良いように進まないから諦める?

そんなわけないやん。だって僕はいつだって乗り越えてきた。いつだって笑いながらぶん殴ってきた。

下手なのなんて最初から分かってた。足を引っ張ることなんて最初から分かってた。高3で憧れ、浪人で胸をときめかせ、大学1年の時に練習参加した僕にとってア式のレベルが身の丈に合っていない事なんて最初から分かっていた。絶望することなんて最初から想定済みである。なんなら鬱になりたくて入部したまである。

 サッカーがしたかった。サッカーボールを蹴りたかった。自分がどこまで成長できるのか知りたかった。

 僕なんかより遥かにサッカーが好きな人たちと、僕なんかより遥かにサッカーが上手い人たちと、そんな人たちに揉まれながら、ひょっとしたら悩み続ける毎日になったとしても、ひょっとすると苦しみ続ける毎日になったとしても、一緒にサッカーボールを蹴って、一緒に成長していきたかった。

 

 ア式に入って気付けば2年。あれからもうすぐ2年の月日が経とうとしている。

あまりの下手さにコーチ陣から直々の指導を受け、あまりの下手さに名指しで叱責を受け、あまりの下手さに数々の辛酸を嘗めてきた。

 

「お前、よくここまで辞めずにやってきたな。素直にすごいと思う。」

「お前、ちょっと上手くなったよな。」

 

なんだか最近、たまにこんなことを言われる。デリカシーの無いことに定評のある東京大学運動会ア式蹴球部の面々であるが、これは褒め言葉なのだろう。僕はとりあえず褒め言葉として受け取っている。

 

僕よりも上手かったアイツらがア式を離れ、サッカーに似た何かに勤しんでいたに過ぎない僕がサッカーをするようになった(或いはそれを目指すようになった)という点で、まぁ良くここまでア式を続けてきたものだと、振り返ると自分でも可笑しく思う。だがまぁしかし、辞めなかったのもまた順当な結果に思えてくるのだからそれも可笑しな話だ。

 

結局のところ、僕はサッカーが好きだということだ。

今日は何だか上手くいったとか、今日は本当に下手だったとか、何が悲しくてこんなゴミみたいなプレーせんといかんねんとか、そう言うの全部含めてサッカーである。

 

そして結局のところ、僕はア式が好きなようだ。

それは、サッカーが上手くなれるからなのかもしれない。僕の人生で最後になる、真剣にサッカーをするこの時間が、この空間が、そういうものが好きなのかもしれない。下手な奴に時間をかけてでも上手くならせようとする、その優しさが有難いのかもしれない。毎日グラウンドに来るわけではないスタッフ達と、偶に交わす何気ない会話が好きなのかもしれない。いつも一緒にサッカーに励む、そんな奴らと一緒に居るのが好きなのかもしれない。

 

 

 

 

 何が好きとか何が嫌いとか、何が一番で何が一番じゃないかみたいな話は苦手だ。僕は往々にして全部が好きで全部が苦手だ。

一番好きなアニメを聞かれても、「新世紀エヴァンゲリオン」が好きだし、「化物語」が好きだし、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」も「ODDTAXI」も好きである。

一番好きなドラマを聞かれても、「トリック」が好きだし、「時効警察」が好きだし、「闇金ウシジマくん」も「おいハンサム」も好きである。

好きな音楽だって好きな漫画だって、「きのこ帝国」も「Lucky Kilimanjaro」も「RADWIMPS」も好きだし、『葬送のフリーレン』も『HUNTER×HUNTER』も『ドリフターズ』も『たーたん』も全部好きなのだ。

 

 

 

ひょっとすると僕はただ目を背けているだけなのかもしれない。本当は僕の中の一番は既に存在しているのかもしれない。

でも、今はまだ一番は決めないでおこう。僕にはまだ一番を決めるのは荷が重い。もう少しだけ人生が進んでから、それから僕にとっての一番を見極めたい。なんだかそんな気分である。

始めに書いた崇高な台詞も、或いは壮大な人生観も、雲が散り霧が消えるようにどこかへ行ってしまい、残ったのはこの何とも言えないぬるりとした、そしてふわふわした言い訳ばかり。

まぁ、それでこそ僕だと褒め称えよう。幾分マシになったかと思ってもいたが、本質的に2年前に初めてfeelingsを書いたあの頃と何も変わっていなかったようである。ここまで来れば前回のように、僕の好きな文章で終わらせることも良しとしよう。良しとしてくれ。

 

 

 その間メッケルは日本人に会い、「日本ではモーゼルワインが手に入るか」という一事だけを聞いた。無類の酒好きで、もしモーゼルワインが日本で手に入らなければこの日本行きを断ろうと思っていた。日本人は、「横浜でなら手に入る」と言った。この返事でメッケルは日本行きを決意した。メッケルの日本陸軍における功績は、後の日露戦争における勝利まで繋がっていくことを思えば、運命のモーゼルワインであったと言っていい。

(司馬遼太郎『坂の上の雲』(一)より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

きっといつの日か、ア式が僕のモーゼルワインとなることを願って。

コメント

  1. 前作に引き続き素敵な文章でした。亮さんとは生涯において全く関わりのない一人間ですが、亮さんの生き様を文章を通してひしひしと感じることが出来ました。次作も期待しています。

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  2. 長い。だがそれでいい。いつかまたfeelingsの続きを教えてください。

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