もう見えない景色

櫻井翔(1年/テクニカルスタッフ/竜ヶ崎第一高校)


初めてのfeelingsであり、そもそもネットに自分の文章を投稿するのも初めて。最初なので、他の新入生と同様に、入部の経緯について書こうと思う。なぜア式に入部したのか、なぜ選手ではなくテクニカルにしたのかについて、自分の生い立ちを振り返りながら書く。
 
 
自分は、茨城県の牛久市という、人口8万人ほどの街で生まれた。すぐに宇都宮に引っ越したが、幼稚園の年中になる時にまた戻ってきた。そんな自分がサッカーを始めたのは、小学校に入ってからのことだった。2つ上の兄の影響でサッカーを始めた自分は、別に非凡な才能を見せたわけでもなく、普通にサッカーを楽しんでいた。
そんな普通な自分に異変が起きたのは、確か小2の時だったと思う。学年が始まって最初の視力検査で、左目はAなのに、右目はCになっていた。小1の時はどちらもAだったのに。しかし、当時は自分も親も「ゲームのやりすぎだろ」くらいにしか思っておらず、左目が健康なので日常生活に影響もなかったから、特に深刻に考えていなかったし、病院に行くこともなかった。
小3か小4くらいには、ヘディングの練習が始まった。落下地点を予測して、とコーチに言われ、実践してみる。うまくいかない。それでもかけられる言葉は同じ。落下地点を予測して。もう一回やっても、やっぱりうまくいかない。
落下地点の予測って何だ?ボールはただただ大きくなっていくだけにしか見えないのに、落下地点の予測なんてできるわけなくないか?
そんなことを考えながら、それでも練習し続けたが、結局いつまでも上達することはなかった。
 
 
なんやかんやで公立中に進学し、サッカー部に入って、高校に進み、またサッカー部に入った。ちなみに自分の高校は全国的な知名度はないが、茨城県では結構優秀な公立高で、隣に流通経済大学があるけど別にグラウンドは使わせてもらえない。高校受験で左目の視力も落ちたので、メガネを作ろうと思い、眼科に行くことにした。
初めての眼科で、よくわからない機材がたくさんあった。最初に度数を測る(度数が何かは今も知らないが)。数秒で左目が終わり、右目を測る。エラーが出る。もう一回やっても、またエラー。何回やってもエラーなので、先生に直接見てもらうことになった。台にあごを乗せて、写真を撮る。あごを台から外し、少しだけ時間が空いた後に、先生が口を開いた。
 
『白内障がありますね。』
 
意味がわからなかった。白内障?白内障って高齢な方がなる病気じゃないの?それが自分の右目にある?自分でも写真を見てみた。確かに黒目の一部分が白く濁っていた。どうやら本当に白内障らしい。小2からの視力の低下に説明がつくと同時に、あの時病院行っとけばよかったー!と思った。この時はすでに白内障を持った状態で10年近く過ごしていたので、落胆したというより原因がわかってスッキリした。
 
 
後日、より詳しく調べたところ、どうやら後極白内障というレアケースな白内障らしい(これが何なのかは今もよくわからないけど)。それを小2から抱えていたら、立体視に影響が出ているでしょう、と言われ、ハッとした。だからヘディングが上達しなかったのかもしれない。今では少し言語化できるが、ゴロのボールと浮いているボールとでは見え方が全く違った。ゴロのボールは地面が近い分、自分と地面の距離からでもボールの位置を推測できる。大体あの辺、というのがわかりやすい。一方の浮き玉は、比較対象が一切ない。それを片目で、立体感を失った状態で見るのだから、距離が掴めなかったのかもしれない。(高校の友人にこの話をしたら、天与呪縛だ!と笑ってくれた。正直笑い話にしてくれた方がありがたい。)
同時に、手術するかについても話があった。白内障の手術は、目に穴をあけ、レンズを砕き、人工レンズを入れるという感じらしい。小一の時に視力が良かったから、手術したら視力が戻るかもしれないし、10年近くこんなものを抱えていたのだから、戻らないかもしれない、と言われた。当時は高1で部活があったので、ひとまず手術はしない決断をした。
 
 
そんな感じで時は流れ、高3になり、部活を引退した。本格的に受験勉強を始め、同時に大学に入ってから何をするか考える時間ができた。その時、ふとこの目のままでいいのか、と思った。小1の時の光景なんて覚えているはずもないので、両目で見る景色がどんなものかは一切覚えていなかった。手術すれば、それがわかるかもしれない。しかし、人工レンズを入れた後、サッカーをするのは少し不安だった。やっても大丈夫ではあるらしいが、目にボールが当たれば、レンズがずれたり、眼球から出てくることがあるらしい。手術よりもこっちの方が怖かった。いちいち病院送りになるのは嫌だった。手術をしたら、サッカーにプレイヤーとして関わることは諦める。当時、サッカーは自分のアイデンティティの一部になっていたので、それを失ったら、自分に何も残らない気がして、怖かった。
その頃、東大ア式と、そのテクニカルの存在を知った。たとえプレーができなくても、サッカーに関わる方法があった。戦術知識は完全に0だったが、戦術も勉強してみたいとは思っていたし、大学生活で本気で打ち込めることがあるのは良いなと思った。これなら手術をしても、サッカーに関わっていられる。こんな感じで、大学入学前に手術することを決めた。
 
 
人生初の手術は、何というか、新感覚だった。痛くはないのに、目の中に入ってくる水の冷たさとくすぐったさははっきりしていた。ひんやりしていて、砕いたレンズが目の中で動いて、手術室の強い光が当たってキラキラしていた。手術中にちょっと色々あったが大して重要でないので割愛して、手術は無事に終わった。
 
 
その後視力は少し回復し、矯正視力が0.2から0.7くらいまで戻った。今はまだ裸眼だが、そろそろコンタクトを作るつもりでもある。今はもうあの頃の見え方を鮮明には思い出せないが、視界が良くなったのは確かだ。そして、あの時の自分に選択肢を提示してくれたア式に入部し、テクニカルとして日々多くのことを学びながら生活している。自分と同じようなケースはかなり少ないとは思うが、たとえ選手を諦めるとしてもこういう選択肢もあるんだよ、ということを示すために、何より当時の自分に選択肢を与えてくれたア式に少しでも貢献するために、これからも努力していきたいと思う。

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