ハッピーエンドとそれから
大西諒(2年/テクニカルスタッフ/洛星高校)
物語にはいつか必ず終わりがやってくる。
それがバッドエンドであれ、ハッピーエンドであれ、はじまるということは終わるということである。その現実はいつまでも付き纏ってくるのである。
否、物語には終わりなんて存在しないのかもしれない。
それがバッドエンドであれ、ハッピーエンドであれ、そこには「それから」が続き、連綿とその物語は続いていくのである。
きっと有名な神話にも小説にも「それから」があるはずだが、そのことは語られない。結局のところ、鮮やかなラベリングのしやすい端点を作り、それを結んだものが私たちのよく知る「物語」なのだろう。
これまで、そんな分かりやすい「物語」だけが多い日々を送ってきた。
時期ごとにぶつ切りになったたくさんの出会いと別れが今の自分を作っている。ある時の「登場人物」が別の「物語」に登場することは滅多にない。言い換えると、今も昔も、といった感じの人間関係がほとんどなく、ある時点時点でそれぞれの関係があり、事あるごとにその関係は分断され、再構築を繰り返してきた。その関係は交差することもなく良くも悪くも秩序立って並んでいる。
幼馴染なんてものは存在しないし、自分のことを幼い頃から今まで継続してみてきてくれたのは家族くらいだ。郷土といえば一体どこなのか京都なのか北京なのか、正直よくわからない。とまれ、私にとってあるべき帰属というものが希薄なものであったということであろう。
それはすなわち、私にとってはエンドに続く「それから」は薄く、虚しいものであったということを意味しているのである。
そんな中で、いつからか自分に数少ない「それから」をもたらしてくれたのはサッカーだった。この誌面の構成上、とにかく自分語りをさせていただこうと思う。
幼少期、物心がつく前から中国北京にいた。
今でも確かに覚えている出来事はいくつかあるが、特に2012年の尖閣諸島問題による反日デモが大使館の前で発生した時の記憶は鮮明だ。当時、大通りを挟んだ日本大使館の向かいに住んでいた私は人々が歩行者天国でデモ行進をする姿を目の当たりにした。当時、そこまで怖かった記憶はないが、冷静になって考えてみると結構恐ろしいところにいたのだなあと思う。バリケードの外のデモをしてない人が歩く歩道みたいなところを通った記憶もあるし、同級生の友達と休校中はテニスをしていた。日本の報道と現地の自分の実情には乖離があったし、当時一緒にテニスをしていた”あきひこ”は日本のテレビの取材でめちゃくちゃ怯えてる感じで話していた。あいつも一緒にテニスしてたはずなのに。(ちなみに私のテニスブームは一瞬で終わった。自分で言うのもなんだがかなりの飽き性なのである。)
ある程度日本人が多い環境で育ったし日本人学校に通っていたわけだが、そうはいっても日本人は紛れもなくマイノリティなのである。なんせ中国は少数民族だけで1億人いる国だし、外国人が多い公寓の中でも日本人はマジョリティではなかった。正直あの時の帰属は言い表せないし今は多分あんな環境は存在しないであろう。
日本とも言えない、中国とも言えない空白地帯のような環境で育った経験をして今がある。
おそらくこの感覚は日本人でなくても誰であっても当てはまるもので、当時あの場にいた人はみな空白地帯に生きていたといえるだろう。
空白地帯の人にとって、特に私のように幼く言葉もロクに読み書きできないような子供にとって、有力なコミニケーションツールは遊びであり、それがサッカーだった。公園でボールを蹴る時は相手が何人であろうと、誰であろうと互いに時間を共有し楽しむことができたのである。自分にとってサッカーとの出会いは「言語」であり、パスやドリブルでコミニケーションが取れるという楽しさと素晴らしさを幼いながらも感じたのである。
サッカーは世界共通の「言語」であると思う。
サッカーボールを持つと誰しもそのボールを手で触ろうとしないし、ゴールのどっちが表かなんて誰も言わないけれど知っている。いいプレーがあればみんなわかるし、自然に盛り上がる。
こんなにシンプルで、誰もが知っていて、奥深くて、人の心を突き動かす営みは他にないだろう。
この時のサッカーとの出会いは今の自分を形作る上では必要不可欠な出来事だったことは間違いない。
日本に帰ってきたとき、とても居心地が悪かった。
自分自身生来奇人だの変人だの狂人だのいろいろ言われてきたが、そりゃこんな環境で育ってるんだから仕方ないのである。自分の意思は空気で伝わらない環境に片足を突っ込んでたし、そこにある日本人のコミニティだって普通ではなかったのであろう。その中で人と違うことを求めるようなタチだったのだからこれが日本に帰ってきたらどうなるか、そんなものは言わずもがなである。
今でもよく覚えているが転校初日、自己紹介で中国から来ました〜って話を先生がしたらなぜかいくら言ってもクラス中から「中国人」となじられ、「違う。私の国籍は日本である」という主張は全く聞き入れられなかったのである。その日は泣きながら家に帰って次の日パスポートを持っていくと親に直談判していた。中国人と言われたことが嫌だったわけではなく、誰もわかってくれないんだというのがただ悲しかった。小2のコミュニティなら仕方がなかったのかもしれないが。
自分のそれまでの過去は知られてはいけないものだと隠しながら生きていることがとても悔しかったしももどかしかったし泣きたかった。
そんなこんなで帰国後は迫害を受け、転校をしたらその先で改めて迫害を受けるというもはや自己責任なのではないかというような経験をしたのである。
そんな中でもサッカーは自分の心のオアシスであった。
好き好んで学校の子と一緒にサッカーをすることはなかったがそれでもサッカーしている時は楽しかったし、クラブチームでサッカーをするのが毎週の楽しみだった。当時は地元の京都サンガのスクールみたいなものにも通っていて、正月に遊びで久保裕也や原川力、杉本大地などとボールを蹴っていたこともある。自然に漠然とサッカー選手という存在に憧れを抱いたのだろう。
ただ、そんな思いは怪我で減衰していき、周囲の才能を目の当たりにして尽きた。別に日常生活に支障があるわけではないのだが、足首は定期的に痛めて靭帯を損傷していたし、半月板は生まれつき円盤状半月板という状態になっており、本来半月状の軟骨2つで構成される半月板が大きすぎたために満月のままになってしまっていた。なぜかわからないが全然違うところを痛めて病院に行ったら膝をひたすらグルングルン回されて、挙げ句の果てに「君は運動向いていない」と言われたのである。
そして周りの才能について、今になって分かったことだが、当時一緒に蹴ってた子の中にはJクラブのユースで10番を背負うようなやつもいた。心優しい私には彼ほど勝負に徹して相手を潰すこともできなかったし、色々甘かったと思う。そして何より、自分の家に帰ったらサッカーではないが正真正銘の天才がいた。誰かに言われなくても大体できるし、どんな指導者が見ても評価が高い、世界最高の選手が持つ天性の技術がテレビで紹介されると自分もそれがあると言い出し、世代別の日本記録まで出してしまう。
こういう奴が努力して目指す場所なんだから自分なんかには無理だなって思った。
これ以上迫害されるのはまっぴらだと思い中学受験をし、洛星に入った。キーボードの予測変換は「洛西」とか「落星」が先に出てくる学校だ。流石に「落ちる星」はあんまりだと思うが、そんなことも気にせず、生徒も教員も好き勝手にできる環境がありがたかった。
中学時代はなんやかんや未練なのかサッカー部に入っていたがよくわからない感じになっていた。自分としてもうまくいかない感覚があったし、足首が痛いし、練習という名のもとにグダグダミニゲームだけしてる部活、プレーする方は半年くらいで冷めてしまったけどなんやかんや楽しかったし中3の夏期大会までは続けた。
競技者としてのサッカーから離れて自分を見直した。好き勝手にいろいろやった。
担任に軽く相談しただけで勝手に高校生向けの国連系のプログラムに応募して国際会議みたいなもの(いまだにあれがなんだったのかはわからない)に出てみたり、スポーツデータを解析する同好会の立ち上げに関わったり、コロナで無期限延期になった文化祭をするために校長に直談判にいって文化祭の強行開催をしたりしたこともあった。
サッカーとの関わりという面で言及すると、なんといってもスポーツデータの解析を始めたことは自分にとって大きな転機だった。それまで「サッカーに関わる役割といえば?」という問いに対しての解像度が低かった自分にとって、サッカーについて定量的な分析を通してサッカーに関わっていけるかもしれないという希望をくれた。
かくして、偶然か必然か、コロナの休校期間を統計とプログラミング言語に費やした私はサッカーのデータ分析を始め、のめり込んでいった。その年の中高生向けのコンペでは遠藤保仁の著書内での言葉に着想を得てミドルシュートの価値や意義について多変量解析を用いて議論した。(https://estat.sci.kagoshima-u.ac.jp/SESJSS/sport2020/R33.pdf)
高2の時もこのスポーツデータの分析は続けた。この年はポゼッションサッカーの構造を説明したいと考え、ポゼッションサッカーを多変量解析で説明するためにパス解析を行った。(https://estat.sci.kagoshima-u.ac.jp/SESJSS/sport2021/R09.pdf)
その結果、全国大会を連覇した。いや、してしまった、の方が妥当な表現なのかもしれないがまあその辺はいいだろう。
活動を広げ、気づいたらうちの高校はこの分野の(超絶マイナー)日本最強になってしまった。とある方がSNSで取り上げてくださって鹿島アントラーズの小泉社長がコメントをつけてくださったりもした。
あの同好会はとにかく破天荒でめちゃくちゃ面白かった。(どういう意味か命名した自分達も良くわかってないが)チーム名は「伝聞・推定のなり」だったし、使途自由の奨学金をもらうと打ち上げの宅配ピザで全部溶かした。ギャンブルで金を溶かす人はいても多分5万円を全部チーズに溶かしたやつは後にも先にもいないだろう。
そんなこんなで激動の高校時代は進んでいき、嫌でたまらない出来事がやってきた。
大学受験。これまであまり紹介はしてないがそれでもご理解いただけるであろう。勉強は全くしていなかった。とにかくやりたいことをやっていたら高2の年末だった。京都の高校生として目指すところは大体お分かりのとおり、双青戦のもう片方。色々逆算してみたのだが多分受からない。元々高校が「S台予備校予備校」と言われるような浪人ありきの高校だったこともあり、半分現役を諦めながら、いわゆる最後の手段ですね
特色入試
特色入試というのはかなりマイナーなものなので一応補足しておくと、いわゆる一芸入試(ちがうけど)である。
スポーツデータの実績もそれなりにあったし、同好会としての活動は学会で発表されたり学会誌で特集が組まれていたりしたのでまあ出す価値はあるだろうと思っていた。
そう思った矢先、校内選考で推薦に落ちる。
私の志望校は学校推薦型選抜で高校につき1人しか推薦できなかったので学校の中でかぶって普通に落ちた。なんでかはわからないけど多分成績が普通に良くなかったからだと思う。
仕方ないのでヤケクソで受けた第2志望の大学が弊学である。
世間の常識から言って東京大学を第一志望としないやつはただでさえ少ないし、別に海外大を目指しているわけでもないという、奇特中の奇特を極めてしまった。こういう考えが危篤である。
本音は京都を離れたくなかった。
ただ、なぜだかわからないが出願校を変更するにあたって全く落ちる予感がしなかった。
(あくまでも個人の主観で結果論的要素も強いが)あの時の感覚はよくわからないのだがこれまで何度か経験したことのある不思議な感覚だった。
(ただの勘違いだが)運命って残酷だなって思った。
けど、浪人はしたくなかったので東大の工学部を推薦で受けた。(いろいろ悩んだ時のプロセスはあったが結局はこれに収束していた)
面接前日に鎌倉行って横浜を観光して中華街でカレー食うというめちゃくちゃ舐めたことをしていた。(なお出願校の所在地は東京都)
(今だから言えるが)共通テスト当日は39度近い発熱を隠しながら受験をして命からがら乗り切った。
2023年2月14日、よくわからないけど受かった。
結局、自分は大学入試までもサッカーを道標に乗り切ることになった。
これは勝手に名乗ってるだけで他にいたら恐縮なのだが「スポーツデータの分析によって評価された推薦」、縮めていうと「スポーツ推薦」で東大に入学した唯一?の人間になった。
急転直下、突然東大生になってしまったわけだが、入学早々とりあえず強烈なショックにぶち当たる。これに関しては周りが悪い気もするが推薦生をみてると自分の儚さを思い知った。
自分の強みはサッカーしかなくて、それを手離すのが怖くなった。一瞬はサッカーから離れて全然違う世界を見てもらいたいと思っていたけど、大学でもサッカーに関わっていた。その頃になってア式が持つリソースに衝撃を受けるのである。
結局のところ自分のアイデンティティはやはりサッカーであり、それしかないんだと思う。この時の判断が正しいのかはわからないし、上京についていえばいまだに誰かの差金だと思って未練タラタラではあるがそれでも最近は自分の運命なのかなって思えるようになってきている。
ジョンバール分岐点のもう一つは今の私とは別の世界で展開されている。そこがどうであれ結局その自分は別の自分であり、観ることもできない。
今の自分に残された選択肢はその運命と戦い続け、今を奏でることでしかないのだ。
思い出は色褪せてく方が今でも綺麗なだけよりはいい。
せめて、そんな思い出を忘れてしまったことくらいは忘れないでおきたい。
いや、忘れたっていいからただなかったことにはしないでおきたい。
話が長くなってしまった。こう見えて伊達に今日まで生きていないのである。
最後に、「それから」の話を少しだけしよう。
テクニカルとして、エンジニアリングとして。
高校の時から続けてきたデータ分析を本格的にア式の中で実装したいと考えている。
今のこの分野の閉塞感として、データでなんかすごいことをやってるのはわかるけど監督にも、コーチにも、選手にも伝わらないようなものが多いと感じる。まずは、もっと素朴で、シンプルで、現場で使えるような、そんなデータ利活用の形を作りたい
ローデータから得られるものはまだまだあるはずで、可能性はまだまだ残っている。
サマリーデータでは見ることのできなかったプレーの文脈を読み取ることができるはずだ。gpsのデータだってまだまだ活かせていない。ようやく蓄積したデータが使えるようになっている今の環境がチャンスでしかない。
stvvのプロジェクトで試しているデータを使った独自の選手抽出手法もまだまだ実装の余地が残っている。
果たしてここがブルーオーシャンなのかはたまたただの水たまりなのかはわからないが、わからないからこそ今が楽しいのだと思う。
いろんな障壁はまだ残っているが、UTSSIでのLT発表や集中講義を通していろんな学びや刺激や出会いに溢れていることを痛感している。とにかく今はいろんな方と話したり立場を経験したりしたい。
データはあくまでもただの数字でしかない。
その数字の裏にあるメッセージをしっかり読み解かなければならない。
データを活かすも殺すも現場次第であり、信じてもらわないと意味がない。
信じるときが信じるときであり、進めるときが進めるときでしかないのだ。
物語は終わらないったら終わらない。
それがハッピーエンドであれ、バッドエンドであれ、繋がっていないと思っていた伏線がいつしか気づいたら回収されていることは往々にしてあるだろう。
今になってようやく自分の「それから」が始まってきた気がする。最近になって北京の時の友人と同窓会をすることがあった。ぶつ切りになっていた一つ一つの物語が繋がっていくのかもしれない。東京に来たからこそ繋がる伏線があり、はじまるものがある。
「物語」のラベルは過去を省みて貼られるものだ。いくらでも貼り直せる。
本当に読むと時間を損するだけのような駄文をダラダラ書き連ねてしまって申し訳ないです。誰か1人でも心に刺さってたら嬉しいです。
終わらないったら終わらない。サドンデス、レッツだドン
大西諒
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