花岡大楽(1年/MF/広島高校)
みなさんこんにちは。東大ア式蹴球部1年の花岡大楽と言います。
入部2ヶ月弱にしてfeelingsを書くことになり、そもそもfeelingsってなんぞやと思って先輩方の過去作を見てみると、まあ、何かを語るものだと判明。かなりの力作もありました。僕もこれから何かを語っていくわけですが、絶望的に語彙力がないため非常に子供っぽい文になってしまう恐れがありますがどうかお許し下さい(ぺこり)。とはいえ、せっかくこのような機会をいただいたので全力で書きますし、今までの自分の人生について振り返り、これからの人生について考える良い機会と思っておりますので最後まで読んでいただけると幸いです。
僕が語るのは今言ったようにこれまでの人生、現在、そして将来についてです。
1 生まれ〜幼稚園
2 小学生
3 中学生
4 高校生
5 浪人
6 大学生とこれから
の順に話しますが、だらだらとしないよう気をつけます。また、以下の文はですます調ではなくだ・である調で書きます。(髙木勇仁君のfeelingsで学びました)
1 生まれ〜幼稚園
僕は広島県の呉市で生まれた。広島県の南の方。赤ちゃんの記憶は全くないので幼稚園のことを書く。幼稚園の頃の自分はわんぱく小僧だった。基本家にいることはなく友達と川で遊んでいた。幼稚園児にしては遠くまで歩いてあそびに行くことも多かった。家の近くにビッグアーチ(現在のエディオンスタジアム=かつてのサンフレッチェ広島のホームスタジアム)を含む広域公園があり、そこでよく父親と自転車に乗る練習をしたりサッカーをしていた。
実はサッカーを始めたのは年中の時である。僕の通っていた幼稚園はサンフレッチェ広島となぜか繋がりがあり、2週間に1回くらいサンフレッチェ広島の選手がコーチとして来てサッカースクールが開催されていた。元日本代表の青山敏弘選手や千葉和彦選手などが来ていたらしい。今考えればとてもすごいことだが当時は何も知らなかったのでただのおじさんたちとしか思っていなかった。サッカースクールの影響もあってかいつのまにかサッカーを好きになっていた。僕の周りでは両親含めサッカーをしていた人はいなかったので多分そうだろう。感謝。
2 小学生
小学校は広島県東広島市の高美が丘小学校というところ。広島県の若干東寄り。幼稚園から小学校に上がるタイミングで引越しをした。元いた家の近くの小学校は治安が悪かったらしく、治安がいいことで有名な高美が丘小学校へ僕を入れるための引越しだったそう。
小学生の頃の僕は悪ガキだった。うん、間違いなかった。いつも先生と追いかけっこをしていたが僕は足が速かったので基本逃げ切っていた。何をしていたかって?よくやっていたことは戸締りを終えた学校に窓から侵入して学校内で遊ぶこと。もちろん戸締り後は警報装置がオンになっているのですぐに職員室から先生たちが駆けつける。追いかけっこの始まりだ。自分たちが入った窓以外の鍵は基本閉まっているのでとても逃げづらいがこれで捕まったことは一度もない。学校内に隠れる場所なんて無限にあるし(掃除ロッカー、教卓、柱の隙間など)事前に逃げ道を用意していたので最悪そこから逃げるのみだ。先生たちは不審者だと思っていて本気で追いかけてくるのでさらに楽しい。こんなことを一緒に楽しんでくれる友達は他を探してもいなかっただろう。あとは友達と学校のコンセントに刺してある警報装置をじゃんけんで負けた方が押すという意味のわからないゲームをして負けた僕が押したところめちゃくちゃでかい音が鳴ってALSOKが来てしまったこととか?他にもいろいろあるがとにかくいたずら的なことが好きだった。小、中、高で比べても小学生が1番楽しかった。
小学生の間ももちろんサッカーをしていた。朝休憩(登校してから朝の会が始まるまでの間。早く登校すればするほどこの時間が長くなるので僕は一緒に登校する班員をめちゃくちゃ早くに集合させて登校していた。ごめんなさい。)大休憩(2時間目の後の15分くらいの休憩)、昼休憩、放課後全てサッカーをしていた。なんかみんなサッカーが好きなのかわからないがクラスの半分以上といつもサッカーをしていた。それだけでは物足りず、さらにサッカークラブに2個入った。一つは鷗州サッカークラブ。もう一つは小学校のスポーツ少年団、いわゆるスポ少である。両方とも全然強いチームではなかったがコーチは県内でも有名なコーチが来ていたので教われることは多かったのかなとも思う。正直小学校の頃はだいぶ無双していた。ポジションはGK以外どこでもやっていたが前線のポジションで出た試合では点を決めなかったことはないというくらいだ。当時テレビで見たネイマールが衝撃的すぎてネイマールのプレー集を何回も見て真似していた。ただ無性にサッカーを楽しんでいただけだったが、いつのまにかかなり上手くなっていた。トレセンにも行っていたが中国トレセンまでいくことが出来た。今振り返ってみても小学生の時が1番上手かったと思う。
ネイマールに感謝。
3 中学生
小学校ではだいぶ上手い人だったので、自分のチームはもちろんトレセンで出会ったコーチ達から「中学はどこのセレクションを受けるの?」と聞かれていた。親に相談してみると、「そりゃ〜サンフレじゃろ」と言われた。トレセンで一緒にプレーしていた友達も受けると言っていた人が多かったので受けることにした。セレクションで活躍できる自信もあったし、周りからも期待されていたらしい(?)ハプニングはセレクション当日に起こった。チーム分けをして試合をすることになったのだが、その1試合目で相手選手と接触して相手の膝が僕のもも間に入った。もも間に入ることはよくあることだったのでしばらくしていたら治るだろうと思ってそのままプレーしていたが痛みが全く引かない。というかますます痛くなる。本当に走れないくらい痛かったので1試合目のあとトレーナーに診てもらった。トレーナー「これ痛い?」僕「痛い」トレーナー「やめとく?」やめれるわけないやろ。ここでやめたら落とされるに決まってる。もちろん首を振った。トレーナー「多分打撲だけど無理しないでね」僕「はい」あとから分かったことだが打撲ではなく肉離れだった。僕がプレーできると言ったからそんな大した怪我じゃないと思われたのかもしれない。2試合目以降も試合に出たが本当に動けないし、体力テストも50メートル走とか、垂直跳びとか、1番出来ない動きをやらされて全く出来なかった。セレクションが終わり、絶対落ちたと確信した。悔しすぎて泣いた。怪我さえしなければ通過できていたかもしれないと今でも思っている。ここが僕のサッカー人生の第一の分岐点だった。他の強いチームのセレクションは受けなかった。というかこの怪我のせいで受けられなかった。中学では地元の割と街クラブに入った。セレクションがないにしては強いクラブで僕の学年は35人くらいいた。他の代と比べてもメンバーは強かったらしい。でも僕はまだ戦えていた。1年の5月くらいから3年生の試合に呼ばれていたし、トレセンでも県選抜に入っていた。でもこの頃から僕は小学生の頃のようにサッカーを純粋に楽しむことができなくなっていた。まず、人の目を気にするようになった。監督、コーチはもちろん、一緒にプレーする味方からの視線が気になるのだ。自分はどう評価されているのか。今のプレーは大丈夫か。持ちすぎてないか。なんで悪いプレーをした時にだけ監督は見ているんだ。そんなことばかり考え、プレーはどんどん消極的になっていった。自分がボールを失わなければなんでもいいと思っていた。試合に勝つより自分の評価を保とうとしていた。今考えればめちゃくちゃばかだった。それと同時に僕の成長は止まった。当時は学年が上がるので試合に出れなくなるということはなくあまり深刻には思っていなかったが、周りに追いつかれ追い抜かれていく感覚が少なからずあった。中学1年でライバルだったやつは、中学3年の時にははるか遠くの存在になっていた。過去から人生をやり直せるとしたら間違いなく中学生に戻るだろう。
4 高校生
なんとも無駄な中学3年間を過ごした僕だったが、その弱気な姿勢は高校生の時も続いた。高校生の時は学校の部活に入りつつ中学校でのクラブのユースに上がった。学校の部活がそれほど強くなかったので物足りないかなと思ってクラブも続けた。そこまで本気でサッカーがしたいなら強豪校に行ってサッカー部に入れば良かったのに、と言われることもあったが正直戦える気はしていなかった。逃げていた。自分が通用する範囲でだけサッカーをしようとしていた。自分なりに本気でサッカーと向き合っていたつもりだったが高校3年間はぼんやりとサッカーボールを蹴っていただけだったのかもしれない。実際今書いていても書くことがない。サッカーにおいて空白の3年間だったのか。
高校はいわゆる自称進で、毎年東大が5、6人出るくらいの学校だった。僕はそこそこ勉強が出来たので2年生のある日部活の顧問から、「東大に行けえ〜」と言われた。ドラゴン桜やん。僕の4個上?の先輩に吉岡さんという方がいて、吉岡さんはア式のキャプテンだった方なのだがそれ以来サッカー部から東大が出ていないから行ってほしかったらしい。なんか勉強も頑張れば文武両道になれるかもという軽い気持ちで東大を目指すことにした。と同時にア式に入りたかった。吉岡先輩を通じてア式の存在は知っていたしかなり魅力的に思っていた。しかし勉強が出来たとはいえ東大を目指す人としてはばかだったから、相当頑張る必要があった。部活は5,6月で引退だったがクラブチームの方は引退しなかった。周りの人は推薦や地元の大学に進むのでほとんど皆んな引退せず最後まで残っていた。決してそれだけのせいではないのだが東大は落ちた。全然惜しくもなかった。自称進あるある「学校の課題をきちんとしていれば大丈夫」のとおりにした結果でもあったし、これまで1度も塾に行ったことがなく受験の世界を知らなかったのも大きかったかもしれない。ともかく不合格だったわけだが、ア式への想いが強かったらしく、すぐ浪人を決めた。吉岡先輩や顧問の先生のおかげでいつのまにかア式にこだわるようになっていた。感謝。
5 浪人
一言で言えば地獄だった。僕は勉強が本当に嫌いだった。実際浪人中も机に座るとじんましんが出ていた(笑)。そう言うとなんで浪人したんや、と言われそうだが自分でもそう思う。それくらいア式に入りたかったということだ。この1年間は本当に勉強しかしなかった。もう落ちれないという焦りがずっと付きまとい、毎日10時間はやった。今まで毎日サッカーをしていたのに急に毎日勉強になったので本当に毎日が嫌だった。何度も諦めそうになったがア式のことを考えて踏ん張った。そうしていると今まで大して勉強してこなかったおかげで成績がめちゃくちゃ伸びた。秋頃にはだいぶ安泰になってきた。浪人ではあるが伸びは現役であった。あれやこれやで1年は一瞬で過ぎた。2回目の東大入試の前日のベッドで浪人を振り返った。浪人中にはあまり意識できていなかったが自分がどれだけ周りの人に支えられているかということを実感した。受かるかもわからないのに入塾費100万円を払ってくれた両親、高校の時と同じように毎日弁当を作ってくれた母、一緒に勉強した浪人仲間、応援してくれた友達や先生。数多くの支えがあったからこそ僕は東大を受けることができた。周りの人全員に感謝の気持ちを持ち入試を迎えた。当日はかなり緊張したが実力の80%は出すことができ、無事合格した。合格発表は家族で見たが、合格したことに加えて他の人が喜んでくれることが嬉しかった。結果が良かったからかもしれないが、今は浪人はいい経験だったと思っている。感謝。
6 大学生とこれから
1年越しではあるが、念願のア式に入ることができた。僕の感覚としては東大に受かったというよりア式に受かったという感じであった。それ以外のことには興味がなかった。新歓もア式しか行ってないし、サークルオリエンテーションにはそもそもいかなかったくらいである。練習に何度か参加し、いよいよ新入生練習が本格的に始まった。最初の感想としては予想よりもレベルが高くあとシンプルに自分が下手だなと思った。周りと比較してもそうだし1年目の自分と比較してもそうだった。たった1年ちょいのブランクだと思っていたがこれが結構しんどい。体が動かないのは分かるが、技術面や判断面でも衰えていた。その点では非常にショックだったし、Aチームに入りたいという思いはあったのでこれからもっと頑張らないといけないなと思った。とはいえ僕は今サッカーをするのがとても楽しい。浪人があったからこそ一層サッカーをできることの喜び、ありがたさを感じている。大学では満足するまで本気でサッカーに向き合いたいと思う。これまでのように人の目を気にして消極的になったりせず、自分の思い描くプレーをしていこうと思う。もっともっと上手くなりたい。目の前の相手に負けたくない。みんなと勝利の喜びを分かち合いたい。ア式はサークルと違って皆本気でサッカーをしているのがいい。本気でするからこそサッカーは楽しいと思う。
これからの目標を書いておく。揺らがないように。
①短期 自分の負けない武器を作る、Aチームに入る
②中期 必要不可欠な選手になる
③長期 関東リーグ昇格
なんで大学生でもサッカーを続けるのか、別に本気で取り組むことなんて他にもいっぱいあるじゃないかと思うかもしれない。でも僕はサッカーがいい。小さい時からずっと僕の側にはサッカーボールがあった。嬉しいことがあったらサッカーをした。悲しいことがあってもサッカーをして忘れた。僕にとってサッカーとはありのままの自分を出せる時間である。いい意味でも悪い意味でも僕にはサッカーしかなかったんだな。
あまりまとまりのない文章だったかと思いますが最後まで読んでいただきありがとうございました。僕の人生を振り返るというテーマだったわけですが、僕自身これを書きながら自分のサッカーに対する思いやこれからの目標が整理されていきました。また、数多くの人に支えられて僕はサッカーを続けてこれたのだということも実感しました。サッカーが僕の人生だ、的な内容になってしまったのですが、それに恥じないようこれからも全力でサッカーをしていきたいと思います。サッカーができる環境に感謝して。
泣ける。ア式の一ファンより。
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